Episode20 帰還王子と攫われ姫
「――そんな。帰っちゃうんですか、チェレス殿下」
春の陽気がようやく息づいてきた今日この頃。
それは、エリサがチェレス殿下に気持ちを打ち明けて指輪を託された日から二日後の出来事だった。
「そんな悲しい顔をしないで、エリサ。ちょっと急用が出来て城に戻らなきゃいけないだけなんだ。すぐ戻ってくるさ」
午後の柔らかな日差しが差し込む玄関ロビーで、エリサはチェレス殿下の見送りだ。
「すぐって……」
チェレス殿下と一緒に過ごして、彼がそんなに空けるわけがないとエリサは理解していた。
けれども、二日前に一緒に居たいと気持ちを打ち明けた側としてはどうしてだか不服に思えた。
エリサは乖離する思考と感情を持て余し、冷ややかな思考の中で自分がまるで駄々をこねる子どもの様だと思い、窘める。
「ごめん。正確な期間は今すぐに答えられないけど、二日以上空けるつもりはない」
チェレス殿下の言葉にエリサはどこか安堵する。
二日。たった二日だ。
だから大丈夫だとエリサは自分自身に言い聞かせた。
「二日、ですか。わかりました」
「本当にすまない。すぐに終わらせて戻って来るから」
一時的でも離れることの寂しさが漏れ出ていたのだろう、チェレス殿下はわずかに下がったエリサの目線と合わせるように屈んだ。
そして、その頭をぽんぽんと優しく撫でる。
「……ほんの少しの辛抱だから。ここで待っていてくれるかい?」
「……もう、チェレス殿下。私、こどもじゃありませんから」
小さい子に言い聞かせるような扱いにエリサはむっとむくれた。
二日くらい、我慢できるのに。
「うん、そうだね。エリサはもう立派な夫人だ」
そう言ってチェレス殿下はエリサの頬にちゅっとキスをした。
「っ、チェレス殿下……! 私、まだ結婚するとは言ってませんから……!」
いきなりの不意打ちにエリサは耳まで赤く染めて俯いた。
そんなエリサをからかうように、にこにこと笑ったチェレス殿下は再びエリサの頭を撫でた。
「はいはい、答えはいつでも待ってるからね、エリサ」
「もう……っ!」
さっさと行ってしまえっ!
心の中でそう叫んだエリサはますます恥ずかしさで視線を落とした。
そんなこんなでチェレス殿下と一時的な別れを告げたエリサは上がった体温を下げようと手でパタパタと顔を仰いだ。
「……エリサお嬢様、ついに、ついになんですね……!」
不意に上がった声に、エリサは飛び上がる程に驚いた。
勢いよく声の方へ振り向くと、少し離れた物陰の位置からザッフェラーノ邸の使用人たちが。
「……っ、シア……!? た、立ち聞きしていたの……っ!?」
驚いて冷静さを欠くエリサに、シアの代わりにオリヴィアが答える。
「いえ、そのようなつもりは。ただ、チェレスティーノ王太子殿下が一時帰還なされるとのことでしたので、お見送りにと」
「でも、おふたりがあまりにもいい雰囲気でしたから、前に出るのはまずいって。ね、オリヴィアさん!」
元気よく答えたシアに、オリヴィアがもう、とため息を吐いた。
「……シア。そういうことは黙っておくものですよ」
「はぁい」
呑気な返事をしたシアにオリヴィアは呆れたように肩を竦めた。
「それで、エリサお嬢様! 式はいつになさるんですか!」
「……シア」
「私、エリサお嬢様の花嫁姿、すっごく楽しみです!」
「……」
ついに呆れてものが言えなくなったオリヴィアの代わりに、エリサがおずおずと答える。
「あ、あのね、シア。……まだ、その、結婚するとは決まったわけじゃなくて……」
そう答えるエリサは耳の裏がかぁっと熱くなる感じがした。
「へ……? ……あっ、それじゃあ今はまだ婚約期間で、日取りを擦り合わせてるってことですね!」
「そうじゃなくて……っ!」
エリサとチェレス殿下はまだ、婚約すらしていない。
その事実に思い至ったエリサは、サァっと顔から血の気が引いた。
そうだ、エリサとチェレス殿下は口付けを交わした関係ではあるものの、婚約すらしていない。
いつもの簡素なドレスの下に隠している、チェレス殿下から託された指輪がやけに冷たく感じた。
「そうじゃなくて……?」
「あっ、その……、まだ心の整理がついてなくて……っ、でも、彼とは一緒に居たいとは思って……っ、……、あ」
勢いで漏れてしまった本音に、エリサは恐る恐るシアとオリヴィアを見上げた。
ニヤニヤしているふたりの表情と視線が合う。
途端にエリサは恥ずかしさでいっぱいになって、両手を左右に振って否定をする。
「あっ、ちが……、今のは、そういう意味じゃなくて……!」
「……エリサお嬢様。話せば話すほど自ら墓穴を掘っていますよ」
オリヴィアに冷静に突っ込まれ、エリサは更に赤面した。
「も、もう……っ! ほらっ、こんな無駄話していないでふたりとも仕事っ、仕事をしてください……っ!」
とうとういたたまれなくなったエリサはふたりを急かして玄関ロビーから追いやり、自身もバタバタと自室へと逃げ込んだ。
バタンと勢いよく閉めた扉にもたれかかるようにして、階段を駆け上がって息が上がった体を無理矢理落ち着かせる。
「はぁ……」
ドキドキと高鳴る胸を落ち着かせるため、エリサはぎゅっとドレスの胸元を握った。
そこにあるのはチェレス殿下から託された指輪だ。
エリサはその指輪の存在をドレス越しに確かめた後、一際大きく深呼吸をして立ち上がる。
自室のソファへ座ると、エリサはおもむろにその指輪を取り出した。
「……指輪。……これって、婚約したことになるの……?」
チェレス殿下の家に代々伝わる指輪だと、あの日彼は言った。
それはつまり、王家の指輪ということだ。
そんな大事なものを、チェレス殿下は『持っていても意味がない』と言っていた。
そりゃあ、指輪単体だけだったら意味なんてないかもしれない。
けれども、腐っても王家の指輪だ。
家宝とも言える物を、婚約すらしていない人間に渡してしまってもいいのだろうか。
それとも、チェレス殿下はそれほどまでにエリサを愛しているということの現れ……?
エリサはあの日からずっとこうして、暇があれば自室で指輪を眺めてはその意味を考えていた。
キラリと輝く銀の指輪は見れば見る程不思議な造りをしていた。
指輪の輪の部分が一部捻じれているのだ。
それなのに、一度エリサが試しに付けてみたところ指に嵌めた時の違和感がない。
装飾らしい装飾も一切施されていない質素な指輪に、エリサは首を傾げるばかりであった。
「……男の人がつけることを想定しているのかしら?」
エリサしか居ない自室で、ひとりごちる。
だが、それにしてもエリサの指にぴったりと嵌る。
親指なんかではない、ちゃんと薬指なのだ。
そう考えるとますます疑問に思える指輪を摘まんで、窓から差し込む光に当ててみる。
その時、エリサは指輪の内側に刻印が入っていることに気付いた。
「これ……数字……?」
指輪の内側の刻印には二桁の数字が羅列してあるように見える。
「『11 12 32 44 49』……?」
一体なんの数字なのだろう。
思い当たる節がないエリサは指輪の刻印に首を傾げつつ、元の通りにネックレスとして身につけてドレスの下へ隠す。
「――メビウスの指輪か。懐かしいものを」
聞いたことのない低い男の声が、突如としてエリサの背後から聞こえた。
チェレス殿下でも父でもない、エリサの聞き覚えのない声に心臓が止まりそうになる。
エリサは恐る恐る、ゆっくりと後ろを振り返る。
一縷の望みをかけて、幻聴である可能性を信じて振り返ったエリサが見たのは黒い目をしたひとりの男。
固く引き結ばれた口元からは男の感情は読み取れない。
「なっ……!」
いつの間に……!?
音もなくエリサの背後に立っていた男に、エリサは警戒してソファから離れようとした。
だが、男の方が早い。
いとも簡単にソファ越しにエリサを羽交い絞めにした男は、手に隠し持っていた厚めの布をエリサの口元に押し当てる。
「あっ、や……っ!」
男の手から逃れようと藻掻くエリサの鼻を、甘ったるい匂いが刺激する。
頭痛がするほどの甘い匂いにエリサはえずきそうになる。
それでもなお無理矢理嗅がされるその匂いに、エリサは頭がくらくらしてきた。
「んーっ、んぅ……!」
「悪いな、娘。父の命を果たすため、付き合ってもらう」
また、父……?
チェレス殿下が助けてくれたあの一件以来耳にすることのなかったその名を聞いて、エリサは朦朧とし始めた意識の中でぼんやりとそう思った。
彼らはチェレス殿下を利用するためにエリサを襲撃するのだろうか。
薄れていく意識の中、エリサはようやく想いが繋がったチェレス殿下のことを思い浮かべる。
助けて、チェレス殿下……。
愛しい人の名を口にすることも出来ず、エリサは見知らぬ敵の男の腕の中で意識を手放したのだった。




