Episode15 気持ち
「エリサ……」
しっとりとした艶のある声で名前を呼ばれて、エリサは顔を上げた。
いつの間に席を移動したのだろう、チェレス殿下は反対側のソファにはおらず、エリサの隣に移動していた。
「君が俺に興味を持ってくれて嬉しいよ」
そう話すチェレス殿下はどこか穏やかで優しさを感じる笑みを浮かべた。
「興味だなんて……、ただ、私は知りたいだけなんです。チェレス殿下がどういう人なのか、どうして私なのか……」
オリヴィアとはどういう関係なのか。
その言葉はとてもじゃないが口にできなかった。
あの日の、チェレス殿下とオリヴィアとの会話。
オリヴィアはチェレス殿下を『母』と呼んだ。話し振りからして、あの日が初めてではないのだろうとエリサは予測した。
更に、オリヴィアはチェレス殿下に『記憶領域を直接操作』する案を提案していた。言葉通りの意味を取るのなら、人の記憶を人為的に変えてしまうということだ。
エリサの知らないところで、何かが動いている。
エリサに理解できているのはここまでだ。オリヴィアにそれとなく探りをいれてみても、反応は良くなかった。
今、エリサができるのはその中心にいるであろうチェレス本人と向き合うことだけだ。
チェレス殿下はエリサが黙り込んだところを見て、口角をわずかに上げた。
まるで何にでも見透かすような金色の瞳がエリサを射抜いた。
「……君は、俺との結婚を真剣に考えてくれている。だから今こうして俺と向き合っている。そうだろう?」
チェレス殿下がわずかに首を傾けながらエリサにそう尋ねた。
そうなのだろうか、とエリサは戸惑った。
エリサとしては結婚相手のことはある程度知っておきたい。エリサは本心をきちんと話してくれる人がいいのだ。
「そんな、私は……」
否定しようとして、エリサは言葉に詰まる。
どうしてエリサはこんなにもチェレス殿下のことを気にしているのだろう。
エリサが自分の中で戸惑い、考え、思っていることをチェレス殿下が言葉にする。
「……エリサ。結婚したくない程の相手だったら、相手のことを知る必要もないんじゃないのか?」
「それは……!」
否定なんてできなくて、エリサは思わず上げた顔を俯かせた。
チェレス殿下の言うことは正しい。エリサが単に結婚を跳ね退けたいだけなら、相手のことを知ろうとなんてしなくていい。
でも、エリサはそれをしなかった。
どうしても結婚を前提とするならば、彼のことは知っておきたい。
エリサは自分が初めて、チェレス殿下との結婚に知らず知らずの内に前向きになっていたことに気が付いた。
でも、どうしてだろう。
どうして自分はそんなにもチェレス殿下との結婚を前提としていたのだろう。
「……エリサ」
唐突に名前を呼ばれて、思わず顔を上げた。
気付かなかった自分の感情に戸惑うエリサの唇に、あたたかく柔らかい感触が重なる。
「……ん」
いつかの日のように触れて、離れる。
それなりに整っている容貌が思っていたよりも近くにあり、ドキドキして顔をそらす。
「……エリサ。嫌ならあの時みたいに逃げてくれて構わないんだよ?」
エリサの手を取りながら、チェレス殿下は艶っぽく囁くようにエリサに言った。
逃がしてなんてくれないくせに、と心の中で悪態をついたエリサの手が、チェレス殿下の指と絡み合う。
きっとエリサがどんなに逃げて隠れても、彼はどこまでも追いかけてくるのだろう。
エリサはそう感じ取っていた。
「チェレス殿下……」
エリサはチェレス殿下に意思を伝えようとして彼の名を呼んだ。
まだ婚約すらしていないのに、こんなことをして許されるのだろうか。
でも、とエリサの中で気持ちが揺らぐ。
嫌なら逃げればいい。チェレス殿下もそう言っている。
それなのに、どうしてだかチェレス殿下と口付けを交わすことが嫌いじゃない。
自覚した気持ちにエリサは戸惑った。
「エリサ」
名前を呼ばれる。
それだけで、エリサの心はどうしようもなく切なく疼いた。
「エリサが嫌だって、俺を跳ねのけるのなら俺はまだその先へは進まない。だけど、エリサが許してくれるのなら……」
真実を、知れる……?
チェレス殿下の唇はその先の言葉を紡がなかった。代わりにエリサの額に口付けを落とす。
けれども、エリサには彼がそう言ったように感じられてしかたなかった。
「……ねぇ、エリサ。君が俺のことを知りたいと思うのと同じように、俺も、エリサのことを知りたい」
真っ直ぐに見つめられて告げられる言葉にエリサの胸がざわついた。
それほどまでにチェレス殿下はエリサのことを真剣に考えているというのだろうか。
揺れ動く心に翻弄されるエリサを置いて、チェレス殿下は絡めていた手を解いた。
離れていく熱に寂しさを感じながら、エリサは解かれた手をぎゅっと握った。
「……答えは急がない。エリサの覚悟ができたら、俺は君が求める答えをあげよう」
落ち着いて艶のある低い声。
チェレス殿下のその声が、エリサの心の奥深くに沈んでいく。
チェレス殿下からの求婚を受け入れるかどうか、自分は彼とどうなりたいのか。
揺れ動く心を抱えたまま、エリサはチェレス殿下との対話を終えたのだった。
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エリサが退室し、静寂が訪れたザッフェラーノ邸の客室でチェレス殿下はひとり紅茶を嗜む。
いつもの味と水色。見慣れた紅茶を啜り、誰も居ない室内でぽつりと呟いた。
「……嬉しいよ、エリサ。君が俺に興味を持ってくれて。……君の両親を操って舞踏会に参加させたのも、あいつらをわざと見逃しているのも、君の前で俺たちの計画をわざと話したのも、全部、無駄じゃなかったってわけだ」
呟いた言葉は誰の耳にも届かない。
それでも、これでいいのだとチェレス殿下はひとり笑ったのだった。




