第23話「八月の蝉」
世の中には、どうしようもないことがある。
「……説得、できなかった」
あのバス停に私を呼び出した詩乃ちゃんは、普段の弾んだ声とは対象的に、重苦しく言葉を吐いた。
彼女の意思は関係なく、物事が進みそうになっている。大人の持つ決定権の強さの前で、子供の私達ができる対抗は少ない。もはや、無いに等しかった。
好きにしろ、というわりに好きにさせない詩乃ちゃんの親に腹を立てるも、拳を握るくらいしかできない。
歯痒い。
奥歯を噛んでも、噛んでも。痒さは取れない。
「明日には、家を出るんだって」
「え……」
突然すぎる別れに、足元から崩れ落ちそうになった。
「あ、明日……?」
「うん。…前に住んでた家に戻っちゃう」
元々、今の家は別荘として使用していて、だから長期で住む予定はなかったんだとか。
高校卒業までいる予定だったのが、早まっただけ。――そう説明されても、納得なんかできないけど。とにかく、そういうことらしい。
「……連絡は、取れるから」
「……うん」
かろうじて残ったのは、いつ途切れるか分からないくらい心許ない、メッセージアプリの繋がりだけ。
ベンチの上、置かれていた手を握ると、指が絡んだ。
詩乃ちゃんの瞳が、今にも泣きそうな弱い自分の姿を映し出して、悲痛の色に染まった彼女もまた涙を浮かべていた。
邪魔をする周りの煩わしさが五月の蝿なら、ふたりの静かな切なさは八月の蝉だ。
鳴き止んで。頼むから。
「夕夏ちゃん…」
泣かないで。痛むから。
「最後、だから」
弱々しく、服を掴まれる。
「……うん」
日の登る午前9時。
太陽が光を注ぐ大自然の中に、ぽつんと置かれた人工物の中。
風が抜ける開放的な空間で、肌を重ねた。
蝉は鳴き、稲穂は凪ぎ、雲ひとつない快晴がどこまでも、気が遠くなるほど広がっていた。
詩乃ちゃんは泣いていた。
「っう、ぅー……」
それも途中から、色気を含んで意味合いを変えていた。悲しみの涙なのか、分からなくなるほど。
終わる頃、全てを洗い流してなかったことにするみたいに、雨が降った。いつの間にか湧いた雨雲の隙間からは、青が覗く。どこかで、狐が結婚したんだ。
私達は結ばれないのに。狐は結ばれるんだ。
「ずるいなぁ」
「ん……なにが?」
「ううん」
ついには架空の存在にまで恨みを持って、隣で寄り添う愛しい相手の肩を抱く。肌が見えないようにと掛けていた服を、そっと直した。
「……いい天気」
「……だね」
雨粒が踊る景色が、薄暗さが心地よかった。眩しい夏は心臓に悪いから。
「寒くない?」
「あつい」
「はは。……ごめんね、初めてがこんなとこで」
「こっちの方が、田舎っぽくて好き」
「変なの」
「ひどい」
家でゆっくりの方が、絶対いいのに。
まぁ、家族の目を気にしてコソコソするよりは、マシか。いつ誰が訪れるか、っていうスリルも私は好きだったりするけど。
汗で濡れた詩乃ちゃんの頬を触って、唇を重ねる。
自然と2回目。3回目と、どちらかが満足するまで深くまで潜り込んだ。……そうだ、今度ダイビングでもしよう。
いつ来るか、きっと来ない先の予定に縋っては、虚しさを解消するため体温を求める。相手も、私の存在を確かめるみたいに頭ごと抱き包んだ。
「すき。……すき、夕夏ちゃん」
「うん。好き」
「あいしてる」
「私も」
ふたりの愛が雲を引き裂き、晴れ間が光の道を地上に落とす。
晴れないで。
雨のままでいて。
曇った気分を持ち上げられないから、あと少し。
もう少しだけ、泣かせて。
「じゃあ……またね」
「うん…」
日の暮れる午後6時。
バス停の後はお散歩したり、手を繋いで気ままに練り歩いた後で、彼女の家のそば。丘の上で別れを告げた。
控えめな仕草で手を振った、あれだけ激しい初体験を終えてもなおお嬢様気質の抜けない清純さに、心臓を締め付けられる。
少し泥のついた白いスカートが翻り、華奢な背中が遠くなる。
視界がぼやけた。
ボタボタと地面に垂れる粒が、雨みたいに土の色を変える。さっきあんだけ流したのに、まだ足りない。
喉が痛い。胸が苦しい。悔しい。
君を、失いたくない。
「っ……詩乃ちゃん」
思考を捨て、追いかけた。
腕を引くと同時に振り向いた相手は驚いて目を見開いていて、
「逃げよう!」
後先なんて考えず、坂を下った。
「に、逃げるって、どこに」
「わかんない!」
でも、このままさよならは嫌だ。無理だ。
最後の最後まで抗いたい。
大人になりたい。
子供のまま、子供のフリして諦めたくない。
「とにかく、逃げなきゃ」
行く宛もないまま、幼い足は途方もなく駆けた。
辿り着く結末は、運命は変えられないというのに。




