第11話「特別な女の子」
薄汚れていたけど、楽で着心地がよかったズボンから、洗濯された――息苦しいくらい首元まで詰まり、露出のないスカートに着替える。
私との過去を、一部とはいえ思い出してくれた夕夏ちゃんは照れから来る気まずさなのか、送ってくれた帰り道ではあまり言葉を交わさなかった。
家は、地元では有名らしい高級層向けの住宅地にある。町を一望できる丘の上にぽつり、ぽつりと何軒か建つだけの場所に位置していて、疲れの溜まる坂を頑張って登る。
いつもなら母が迎えに来てくれるから図書館や学校で合流するんだけど、せっかく夕夏ちゃんが送迎してくれるっていうのに、断りたくなくて。
ちょっと、無理しちゃった。
「ただいまー…」
見られると困るから、家からだいぶ離れたところで別れ、自分の家なのにまるで泥棒するみたいな足取りで、中の様子を伺いつつ忍び込む。
大理石の玄関を抜け、廊下を進み、自分の部屋へと繋がる階段に足を踏み入れた。
「おかえり」
だけど、後ろから聞こえた静かな声に、肩を上げ立ち止まる。
「どこに行ってたの?こんな時間まで」
振り向かなくても、怒っていることが分かるほど、母の口調は淡々としていた。
いっそのこと感情的になってくれた方が、怒鳴りつけられた方がいいと思えるほど、この瞬間は何度経験したって身の毛もよだつほど恐ろしい。
「誰と、どこで、何をしていたの」
「ぁ……た、ただいま〜」
「来なさい」
「はい…」
笑顔ではぐらかそうとしたけど、無駄だった。
おとなしく呼ばれるがままついていって、食卓テーブルの定位置に腰を下ろした。
ティーカップと洋菓子のセットをテーブルの中央に用意してくれた母は、ため息まじりに呆れながらも紅茶にラカントを一杯と、スコーンを小皿に取ってくれる。
「お腹、すいたでしょう?」
「うん…」
「まさか、外で食べてきてないでしょうね?」
「も、もちろん」
ごめんなさい、食べました。……採れたてトマトと割りたてスイカと、茹でたてとうもろこし。おいしかったなぁ。
ただの親切ではなく、これは試されている。空腹なら、このくらい食べられるはず、と。私の嘘を見抜こうとしてるんだ。
負けないもんね。今日はたくさん動いたし、ちゃんとお腹すいてるし……って、食べ始めるまでは強気だった。
「……あら?詩乃ちゃん」
口の中の水分を容赦なく奪うパサついた食感と、甘みの薄い味。紅茶なんて、もはや色のついたお湯で、夕夏ちゃんの家で解放感と自然本来のおいしさを知ってしまった私にはきついものがあった。
閉塞感も相まって手が止まったのを、当然母は見逃してなんかくれない。
「残すの?お腹、すいてるのに?」
「う……うん。なんか、食欲ない、かも。夏バテかな?」
「……嘘は良くないわ」
向かいの椅子から、私の隣へやってきた母の膝が床につき、穏やかな手つきで両手を握られる。
見上げてきた瞳は温和にうるみ、そこにあるのは娘への心配だけだった。
「お母さんはね、あなたが心配なの」
言葉に嘘がないことは、愚かな私でも理解している。
「全て、あなたのためなの」
「うん…」
「それに、嘘をつくような子に育てた覚えはないわ。あなたは、お母さんの教育が悪かったって言いたいの?」
「ううん。そんな、まさか…」
「でしょう?なら、ちゃんと正直に話して」
あーあ。
いつもの展開だ。
母親に対して、隠し事ができない。
なぜなら、私の行動ひとつでこれまでの母の行動全てを否定してしまうことになるから。懸命に支えてくれた十数年を、水の泡にしてしまうから。
逆らえない。
私は、母親に生かされているから。
母は、私を愛してくれているから。
「……ごめんなさい」
でも、どうしても。
「商店街で、買い食いをしてしまいました」
「うん。……何を食べたの?」
「トマトと、スイカ。…とうもろこしも」
「よかった。野菜や果物にしたのね。偉いじゃない。ファストフードは毒だから、絶対に食べちゃだめよ。食べたら死んじゃうわ」
「う、うん」
夕夏ちゃんのことは、話せなかった。
彼女は、母にとっての地雷だ。……時限爆弾とも言う。
父の地元であるこの村には、夏休みに入るたび何度も帰省している過去があって、住む前から縁の地ではあった。
おばちゃんの家へ帰ってくるたび、ここに来て初めて友達になった夕夏ちゃんと隠れて会っては、様々な遊びをした。色んなところを駆け回った。
調子に乗って体調を崩した私を守るため、母は何度も夕夏ちゃんを突き放そうとしている。私にも、何度だって「関わらないで」と懇願してきた。
いつもなら言うこと聞けるのに、彼女が絡む事柄だけは無理で。どう頑張っても、会いたくなっちゃって。
強烈な引力に惹き付けられては、引き剥がされるのを、小学生の途中までひたすら。
諦めの悪い私を諦めさせるため、母は帰省すること自体をやめた。
「……あの子とは、会ってないでしょうね」
「……うん。学校では、同じクラスだったけど」
「はぁ。ほんと、田舎って嫌ね。高校がひとつしかないなんて信じられない」
そこまで拒絶して嫌悪しているのに、再びこの地へ戻ってきたのは運命的な因果――でも、なんでもなく。
「まぁ、ここは空気が綺麗だから。詩乃ちゃんのために、我慢するわ」
娘を想う、親心故だ。
気管支系が特に弱く、以前に在籍していた高校で入学早々いじめもあり、ストレスによる嘔吐や過呼吸、体調不良から肺炎一歩手前までいってしまった私の体を休ませようと気遣った結果だった。
最後の夏からもう随分と経っているし、夕夏ちゃんへの執着も落ち着いていると判断したんだろう。
「そもそも詩乃ちゃんが、関わらなければいいんだものね。なんにも心配してない。詩乃ちゃんは良い子だもの」
残念ながら、夏休みに入るや否や出会いの場所であるバス停へ通い詰め、偶然を装って再会し直すくらいには今も大好きで。
母には申し訳ないって、思ってる。
「っこほ……」
「やだ。風邪?」
「ん。だいじょうぶ」
思ってるけど、やめられない。
彼女は、閉じ込められ呼吸もままならなかった私を外へ連れ出し、世界の広さを教えてくれた……特別な女の子だから。




