第10話「思い、出した」
服が乾くまでの間、暇だからゲームでもしようかと思ったんだけど。
「……やっぱ、外行く?」
「う、うん……その方が、助かる」
室内、それもふたりきりの空間で過ごしていたら、また何があるか分からないと危惧した清廉潔白を保ちたい私達は、そそくさと支度をして家を出た。
篠原さんにはオーバーサイズの服を着させて、胸元が目立たないようにしてから、移動したのは徒歩数分のところにある池。
ここにはザリガニがうじゃうじゃいて、入れ食い状態だから楽しいと説明したものの、何が楽しいのか理解してない感じで首をひねっていた。
「ザリガニ、うまいんだよ」
「えっ。食べるの?」
「うん」
「こんなに汚い水で暮らしてるのに……?」
食べても平気なのかと口元を引きつらせるから、泥抜きすればなんでもいけると適当な返しをする。
泥みたいな色した水の中に手を突っ込んで、さっそく一匹捕まえる。尾を叩くように動かして跳ねるザリガニを、篠原さんはドン引きで眺めていた。
「きゃっ……お水飛んでくる」
「ごめんごめん」
「自分の服じゃなくてよかった…」
茶色のついた服の裾を持ち上げながら吐息を落とした彼女を失望させないため、ザリガニを池に放った。
大丈夫?と伸ばした自分の泥汚れが目に入り、ふと。
こんな汚い手では触れないと、下ろす。
いつから、かな。
自分を汚いと思い始めたのは。
うだうだといらないことばっか考えて、穿った見方で世界を俯瞰しては、なんでも知った気になってひねくれたのは。
昔は、もっと。
『ゆうかちゃん……!』
女の子の声が後ろから聞こえた気がして、振り返る。
その拍子に、ずるりと濡れた地面のせいで足を滑らせた。
「夕夏ちゃん!」
焦った声が、耳を劈く。
ゴチン、と視界が弾けた。
『――ちゃん』
真っ暗になった意識は一瞬で白い光に覆われ、次に今よりも青々しい夏の空と、華やかな黄色が景色として広がった。
背の高いひまわりの緑をかき分けた、先。
白いスカートが、翻った。
『ゆうかちゃん』
振り向きざまに微笑んだ顔は、どんなに目を細めても逆光で暗く色づいている。
誰?
『きみは、だれ?』
笑顔が消え、傷付いた気配にズキンと胸が痛んだ。
痛むのは、頭も。
まるで殴られたような痛みが襲い、両手で抱え込みながら膝をついた。
ボタボタ、垂れる。
地面の色が、変わる。
雨が、降っていた。……ような、気がする。
『あのね、わたしね』
誰もいない、寂れたバス停で、“私達”は雨宿りをしていた。狐の嫁入り――突然の夕立ちがあったから。
柔らかな甘い香りが漂う中、香りの中心にいる少女は涙を堪え、下唇を噛んでいた。どうしてそんなにも悲しい顔をするのか、不思議で小首を傾げた。
足のつかないベンチで、ブラブラと落ち着きなく次の言葉を待つ。
『来年から、もう来られなくなっちゃうの』
雨音が、止んだ。
水滴は落ち続けている。音だけが、衝撃によってかき消された。
『なんで……?』
『ここの子は、みんな汚いから。仲良くしちゃ、だめなんだって』
ショックを受けた、記憶が蘇る。
自分は汚いんだと――彼女に触れることが許されないほど、不潔な存在なんだと、分厚い壁を感じて絶望した。
少女は泣いていた。加工せず飲める湧き水よりも綺麗な涙を流し、私のことを「きたなくないのに」と肯定してくれた。
漠然と、焦燥が先立って、ベンチから飛び降りた。
『っそ、そうだよ!汚くなんて、ないよ!』
相手の言葉に同調して、とにかく自分の知る中で一番綺麗なものを、と考えて思いついたのが、あのお気に入りの小川だった。
自分の――自分たちの住む場所の潔白を証明し、晴らしたかった。
後から知るが、その日は台風だった。
だから夕立ちだと思っていた雷雨がすぐに止むことはなく、濁流生み出す小川へと、濡れるのも構わず少女の手を引いて走った。
雨で荒れ狂う大自然を駆け抜けて、到着した小川はひどく汚い色をしていた。
こんなはずじゃない、と。
子供ながらに焦って、弁解しようと振り向いた時。
ずるり。
と、足を滑らせた。
『ゆうかちゃん!』
必死な声が届く前に、全身が大量の水にのまれ、泡立つ。
多分、川底に頭を打ったんだろう。
激しい衝撃に見舞われ、意識は暗転していった。
「――ちゃん。夕夏ちゃん!」
ペチペチ頬を叩かれる感覚で目を覚ますと、雨粒みたいな涙が降ってきていた。
悲痛な美しさの背後には、空と雲。
逆光が眩しい。
「あ。」
思い出した。
「詩乃ちゃん…」
私は、彼女と会ったことがある。
だいぶ前――まだ、小学生になったかなってくらい幼い時から、何度も。
「よかった……夕夏ちゃん」
既視感のある光景と香りが全身を包んで、確信した。
「……あの、さ」
「?……うん」
「もしかして、なんだけど」
それでも念のため、人違いの可能性も捨てきれなくて、
「前から、知ってた……?」
本人に確認したら、眉尻が垂れるのが見えた。
「うん。……実は」
やっぱり。
多分、頭を打ったのと溺れたせいで記憶が飛んで、抜け落ちていたんだろう。だから、今の今まで気が付かなかった。
「思い、出したの?」
「う……うん。なんとなく、だけど」
喜びと懺悔が入り混じった複雑な表情をした篠原さん――詩乃ちゃんのまつ毛が下がる。
自分のせいで怪我をさせたと、責任を感じているのかもしれない。あんな危険な場所に連れ出したのは、私なのに。
それもあって、昔馴染みだったことを隠していた……というより、言えなかったんだろうなって。
再会した後の、夏休みに入ってからの短い期間でも察せるくらいには、彼女は常に優しく、清い心の持ち主だったから。
「ごめんね」
「ううん。…謝らないで」
止まらない涙を止めたくて、顎から滴る水滴を指の腹で拭う。
「また会えて、よかった」
思えば、あの頃から。
私の恋は始まっていたんだ。




