第90話
呼ばれている、ということは分かっていた。
扉の外で、足音が止まったからだ。
「レイ?」
名前を呼ぶ声。
ミラのものだった。
返事をすれば、すぐに終わる。
「はい」と言えばいい。
それだけで、場は進む。
けれど、レイは口を開かなかった。
無視しているわけではない。
聞こえていないわけでもない。
ただ、喉の奥が、動かなかった。
「体調はどう?」
問いかけは、優しい。
声の高さも、速さも、いつもと同じ。
レイは、視線を上げて、ゆっくりと頷いた。
意味は、決めなかった。
「……そう」
ミラは、それ以上踏み込まなかった。
部屋の中は、静かだった。
窓は閉じられ、外の音は届かない。
机の上に、書類が置かれる音。
紙が擦れ、角が揃えられる。
レイは、それを見なかった。
「外出についてだけど――」
言葉が、途中で止まる。
選び直されているのが、分かる。
「今は、控えてもらった方がいい、という判断になっている」
誰の声でもない言い方だった。
レイは、何も言わない。
「怖がらせるつもりはないのよ」
ミラの声が、わずかに揺れる。
「あなたを、守りたいだけ」
その言葉は、部屋に落ちて、止まった。
レイは、ベッドの縁を見ていた。
シーツの端が、少しだけ折れている。
「何か、言いたいことはある?」
間を置いて、聞かれる。
レイは、答えなかった。
考えようとして、途中でやめた。
言葉を探して、触らなかった。
時間だけが、進んでいく。
「……分かったわ」
ミラは、それ以上聞かなかった。
「今日は、ここまでにしましょう」
書類が片付けられる音。
椅子が引かれ、足音が遠ざかる。
「無理に話さなくていい」
そう言って、ミラは出ていった。
扉が閉まる。
レイは、ベッドに腰を下ろしたまま、動かなかった。
何も言っていない。
何も決めていない。
それでも、
しばらくのあいだ、
胸の奥が、静かだった。




