第88話
朝が来たことは、音で分かった。
廊下を歩く足音。
遠くで閉まる扉。
誰かの声が、壁越しに途切れる。
レイは、ベッドから起き上がらなかった。
眠かったわけではない。
体が重いわけでもない。
ただ、動く理由が見つからなかった。
昨夜の気配は、もうない。
椅子も、元の位置に戻っている。
部屋は、何も変わっていなかった。
――なのに。
胸の奥だけが、少し騒がしかった。
保護施設の職員が来る時間は、だいたい決まっている。
ノックは、いつも控えめだ。
「レイ、起きてる?」
ミラの声だった。
柔らかくて、聞き慣れた声。
「……うん」
返事は、小さくなった。
扉が開く。
ミラは、いつも通りの表情で入ってきた。
心配そうで、でも笑顔を崩さない。
「体調はどう?」
「……大丈夫」
本当だった。
少なくとも、どこも痛くはない。
「今日はね、少しだけお話があるの」
――少しだけ。
その言葉が、どこかに引っかかった。
ミラは椅子に座らず、立ったまま話し始める。
手続きの話。
今後の流れ。
必要な確認事項。
言葉は多いのに、内容は輪郭を持たなかった。
「ここにいれば、安全だから」
「外に出る必要は、当分ないと思う」
「無理はさせないわ」
耳に残ったのは、その三つだけだった。
安全。
出ない方がいい。
無理をしない。
ミラは、優しい。
本当に、レイのことを考えている。
それが分かるからこそ、
胸の奥が、少しだけ狭くなった。
「……ずっと、ここ?」
聞いてしまった。
どうしてそう思ったのか、自分でも分からない。
「今は、ね」
即答だった。
けれど、その先の言葉は続かなかった。
――今は。
それが、どこまで続くのか。
誰が決めるのか。
答えは、置かれなかった。
ミラが部屋を出たあと、
レイは天井を見つめたまま、動かなかった。
頭の中で、声が重なる。
――確認が必要だ。
――記録は存在しない。
――ただ、見ているだけ。
冷たくも、厳しくもない声。
けれど、人の温度がなかった。
カリス=ノエル。
視線だけで、状態を測る存在。
そして、もう一つ。
――選択肢を、置きに来た。
――今すぐ決めなくていい。
イグニスの声は、今も残っている。
押しつけない。
導かない。
ただ、逃げ道を消さない言い方。
三つの言葉。
三つの距離。
どれも、間違っている気はしなかった。
レイは、毛布を握った。
ベッドの端に垂れた、薄い布。
いつから使っているのか、分からない。
守られること。
確認されること。
選べること。
そのどれもが、
まだ、手に取れる形をしていなかった。
「……」
声を出そうとして、やめる。
何を言おうとしたのか、分からない。
昼になっても、
夜になっても、
頭の中の声は、並んだままだった。
動いているのは、世界のほうで、
自分は、そこに置かれているだけの気がした。
レイは、毛布を離した。
何も、決めないまま。




