第87話
最初に感じたのは、気配だった。
音ではない。
視線でもない。
それでも、
「何かが近くにいる」とだけ分かる距離感。
部屋は静かだった。
窓は閉じられ、外の音は遮られている。
保護施設と呼ばれるこの場所は、
夜になると特に何も起きない。
――はずだった。
レイは、ベッドの上で目を開けたまま、天井を見ていた。
眠っていたわけではない。
起きていたとも言い切れない。
ただ、目を閉じる理由がなかった。
「起こしてしまったかな」
声は、すぐそばから聞こえた。
低すぎず、高すぎない。
形だけが残るような声。
レイは、ゆっくりと顔を横に向けた。
椅子に、人の形をした何かが座っている。
扉は壊れていない。
足音も、入ってきた気配もない。
それなのに、
最初からそこにいたように見えた。
「……誰」
確かめるための、短い言葉。
相手は、わずかに口元を動かした。
「イグニス=ラ=ヴェル。
君たちの言い方なら――魔界の者だ」
脅す調子ではない。
誇るでもない。
事実を、そのまま置いただけの言い方だった。
レイは、視線を外さなかった。
驚きも、怯えも見せない。
「……捕まえに来た?」
「いや」
即答だった。
「連れ出すつもりもない。
縛る気も、今はない」
“今は”という言葉が混じる。
だが、そこに力はなかった。
「じゃあ……何」
問いは、それだけ。
イグニスは一瞬だけ考え、言った。
「選択肢を、置きに来た」
空気が、わずかに変わる。
重くも、冷たくもならない。
ただ、密度が変わった。
「天界は確認に来る。
地上は保護を選ぶ。
どちらも、君を中心に動いている」
レイは、何も返さなかった。
「魔界はね」
指先が、静かに動く。
景色が現れた。
現実ではない。
だが、夢とも違う。
剣を持つ自分。
何も持たない自分。
誰かのそばにいる自分。
誰にも見られない自分。
どれも、はっきりしない。
輪郭だけが、そこにあった。
「可能性だ」
イグニスは言う。
「決まっていない。
だから、奪えない。
消えることもない」
レイは、その景色を見ていた。
理解しようとはしない。
ただ、そこにあるものを、
そのまま見ていた。
「……怖くないのか?」
確かめるような問い。
少し間を置いて、レイは答えた。
「……分からない」
それだけだった。
イグニスは、何も評価しない。
「今すぐ決めなくていい」
手が下ろされる。
景色は、静かに消えた。
「君が選ばない限り、何も始まらない。
拒否も、選ばないことも、同じだ」
説明するだけの口調。
「覚えておいてほしい。
保護以外の道も、ある」
立ち上がる気配。
足音は、なかった。
「また会うかどうかも、分からない。
それも含めて、だ」
気配が、薄れていく。
レイは、引き止めなかった。
問い返さなかった。
胸の奥に残った感覚を、
言葉にできなかった。
――魔界は、何も奪っていない。
それなのに、
何かが残った気がした。
理由は、分からない。
部屋は、再び静かになる。
外では、
天界も、地上も、
それぞれの正しさで動き続けている。
レイだけが、まだ、何もしていなかった。




