第86話
天界では、それを“到着”とは呼ばなかった。
位置が一致した、というだけだ。
白い空間に、揺れが生じる。
光が歪み、輪郭を持ち始める。
人の形だった。
だが、人間ではない。
名を、カリス=ノエルという。
人の形を取っているが、人間的な属性は必要としない存在だった。
衣服は整っているが、装いというより“仕様”に近い。
「確認対象、発見」
声は、響かなかった。
空気を震わせず、意味だけが落ちる。
次の瞬間、視界が切り替わる。
地上。
保護施設の一室。
ベッドの上に、少年が座っている。
視線は低く、床を見ていた。
レイ。
カリスは、数秒、何も言わなかった。
見る、という行為に、時間は不要だ。
だが今回は、間が生じた。
記録には残らない揺れ。
判断にも、分類にも使われない、わずかな停滞。
――未確定。
と、記録されることはなかった。
近くで、紙の擦れる音がした。
「……あの」
ミラだった。
手元の書類から視線を上げ、空間の一点を見ている。
彼女には、カリスの輪郭が“ぼんやりと”見えていた。
意図的な顕現ではない。
ただ、距離が合ってしまっただけだ。
「こちらは保護対象です」
ミラは、慎重に言葉を選ぶ。
「医師の診断も終わっていますし、危険性は――」
「把握しています」
カリスの声は、遮るでも、急かすでもなかった。
「本件は裁定ではありません」
それを聞いて、ミラは一瞬、安堵する。
だが、すぐに違和感が残った。
裁かない。
けれど、来ている。
「では……何を?」
カリスは、レイのほうを見る。
少年は、こちらを見ていない。
気づいているかどうかも、分からない。
「確認です」
それだけだった。
善悪でも、危険度でもない。
存在の重さ。
波紋の広がり。
他への影響。
人間の言葉にすれば、そうなる。
ミラは、無意識に一歩、前に出た。
「この子は、まだ何もしていません」
「知っています」
「選んでもいません」
「把握しています」
噛み合っているはずなのに、距離は縮まらない。
ミラは、そこで気づく。
天界は、上に立っているわけではない。
裁く位置にもいない。
――ただ、遠い。
遠すぎて、
同じ言葉が、同じ意味にならない。
カリスは、再びレイを見る。
少年は、静かだった。
拒んでいない。
受け入れてもいない。
未確定のまま、そこにいる。
「……以上です」
カリスは、それだけを残す。
次の瞬間、輪郭が薄れ、光がほどける。
揺れは、最初からなかったかのように消えた。
ミラは、しばらく動けなかった。
守る、という言葉が、
急に、頼りなく感じられたからだ。
一方、レイは。
何が起きたのか、説明できる言葉を持たないまま、
ただ、胸の奥に残った“冷え”を、
理由もなく、覚えていた。




