第78話
魔界に、音はなかった。
ざわめきも、揺れも、報告の声もない。
ただ、空気がわずかに変わった。
ヴァル=ノクスは、歩みを止めなかった。
止める理由が、見当たらなかった。
最初に届いたのは、匂いだった。
甘くもない。
苦くもない。
血や恐怖、欲望の類とも違う。
用途の決まっていない匂い。
棚に並べるには早く、
捨てるには、まだ触られていない。
「……出たか」
傍らの影が、低く言った。
「出たな」
ヴァルは、否定もしなかった。
肯定もしない。
匂いは、そこにある。
「奪えるか?」
問いは、力の話だった。
「奪える」
即答だった。
それは計算であって、意志ではない。
「だが、奪えば形が崩れる」
影が、わずかに首を傾ける。
「下がる?」
「……混ざる」
ヴァルは、それだけ言った。
自分から動かないものを引きずれば、
最初に傷むのは輪郭だ。
「危険じゃないのか」
影が、別の基準を持ち出す。
「便利すぎる言葉だ」
ヴァルは歩きながら答えた。
「燃えるか、壊れるか、増えるか。
それくらいに分けないと、
触れたあとで困る」
天界なら、線を引くだろう。
地上なら、帳に載せるだろう。
魔界は、値を見る。
「天界は、もう気づいている」
影が言う。
「だろうな」
ヴァルは、匂いの残る方向を見た。
「あちらは、匂いより先に、ズレを見る」
足が止まる。
「どうする」
「何もしない」
「静観か?」
「違う」
ヴァルは、少し考える素振りを見せた。
「まだ、触る段階じゃない」
匂いは、消えない。
だが、広がりもしない。
自分から動かない存在は、
触れられるまで、形を持たない。
「記録は?」
「残す。
ただし――」
ヴァルは、少しだけ間を置いた。
「名前は、置くな」
そう言って、歩き出す。
魔界は、騒がない。
匂いが消えるまででも、
値が生まれるまででもない。
ただ、通り過ぎる。
床に残った足跡は、
すぐに、別の影に踏み消された。




