第36話
匂いが、先に届いた。
湯気。
油ではない。
肉でも、甘いものでもない。
それでも、腹の奥がきゅっと縮む。
歩きながら、鼻で息をする。
吸い込むたび、同じ匂いが逃げない。
道の先に、屋台があった。
布を張っただけの簡単な作り。
鍋が一つ。
中で、何かが静かに揺れている。
人が並んでいる。
三人。
多くはない。
その形が分からず、足が止まる。
森では、並ばなかった。
欲しいか、取れるか。
それだけだった。
屋台の向こうに、女がいる。
年は分からない。
顔に、疲れが貼りついている。
鍋をかき混ぜ、
柄杓で器に注ぐ。
「はいはい、次。二銅だよ」
短いが、張りのある声。
男が金を置く。
小さな音。
「毎度ありがとね」
器が渡される。
湯気が立つ。
男はすぐに飲まない。
端へ寄り、立ったまま冷ましている。
その様子を、じっと見る。
「……あれ」
声が、勝手に出た。
「ん?」
視線が向く。
慌てて逸らすが、遅い。
「飲むのかい?」
声が、少しだけ柔らぐ。
答えが出ない。
飲んでいいのか。
近づいていいのか。
森では、聞かなかった。
「一杯、二銅だよ」
値段。
言葉は分かる。
服の内側を探る。
ポケットはない。
布の合わせ目を、指でなぞる。
何も出てこない。
「……ない」
「何が?」
「……銅」
女は、少しだけ目を細める。
「ああ、そうかい」
声が低くなる。
「そりゃ、出せないねぇ」
即座だが、突き放す調子でもない。
次の客へ視線が移る。
視界から、外される。
胸の奥が、すっと冷える。
怒られてはいない。
屋台の脇に立つ。
行き先が、分からない。
さっきの男が、器を持ったまま近くにいる。
中身は、もう減っている。
飲む音。
喉が鳴る。
視線を外す。
「ちょいと」
声がかかる。
「そんなとこ立ってたら、邪魔になるよ」
「……ごめん」
「はいはい。謝らなくていい」
溜め息。
「金がないなら、最初に言いな」
「言った」
「聞こえなかったんだよ」
女は鍋を見る。
少し迷い、
柄杓を入れる。
器に、半分だけ注ぐ。
「ほら。残り物だ」
差し出される。
受け取れない。
「……いいの?」
「捨てるのも、もったいないだろ」
ぶっきらぼうな言葉。
視線は逸らされている。
両手で器を受け取る。
熱い。
指が、じんとする。
「そこ、箱あるだろ。座って飲みな」
顎で示される。
屋台の横。
木箱が二つ、重ねてある。
腰を下ろす。
器を、膝の上へ。
匂いが近い。
具は、ほとんどない。
浮いているのは、刻まれた根菜みたいなもの。
色は薄い。
ゆっくり口をつける。
熱い。
味は、よく分からない。
喉を通る。
腹の奥へ、落ちていく。
器を持つ手が、少し震える。
「熱いから、ゆっくりね」
声が届く。
うなずく。
少しずつ、飲む。
「名前は?」
不意に、聞かれる。
「……レイ」
「ふうん」
「歳は?」
「……たぶん、七」
「たぶん、ねぇ」
一度だけ、こちらを見る。
「まぁ、そんな顔してるわ」
それ以上、聞かれない。
鍋をかき混ぜながら言う。
「オルテだよ」
「……オルテ」
「覚えなくていいさ」
器が空になる。
最後の一口をためらってから、飲む。
器を返す。
「……ありがとう」
「礼はいらないよ」
器は鍋へ戻される。
「次は、ちゃんと払うんだよ」
うなずく。
屋台を離れる。
あれは、もらった。
拾ったんじゃない。
取ったわけでもない。
道の先に、また人がいる。
森は、背後にある。
前には、値段がある。




