第33話
夜が、早く来る。
空はまだ沈みきっていないのに、
森の奥は先に色を失っていた。
歩きながら、何度も後ろを確かめる。
音はない。
それでも、離れた気がしない。
ついてきている。
何かが。
人か、獣か。
それとも、森そのものか。
考えようとして、やめた。
「……寝ないの?」
小さく聞く。
首が、横に振られる。
「今夜は眠らせない」
理由は言われない。
こちらも、聞かなかった。
眠ったら、何かが終わる。
そんな予感だけが残る。
歩き続ける。
止まらない。
足の裏が、じんと痛む。
靴はもう、土を遮らない。
腹も、軽くはならない。
昨日の木の実は、数えるほどだった。
それでも、口に運ぶ気にならなかった。
――止まったら、負ける。
理由のない感覚だけが、頭に残る。
森が、少し開けた。
広場ではない。
逃げ道のない、円だった。
木々が、距離を取って立っている。
中心に、押し出される。
「……ここで?」
短く、うなずきが返る。
「来る」
それだけで、十分だった。
空気が、沈む。
虫の音が、途切れる。
風も、消える。
代わりに、重さが落ちてきた。
見られている。
数ではない。
評価だ。
無意識に、拳を握る。
爪が、掌に食い込む。
力を呼ぼうとする。
だが、何も返らない。
熱も、光も、影も。
空っぽだった。
「……グラド」
「一人で立て」
振り向かない声。
「手は出さない」
突き放しでも、守りでもない。
ただ、線を引いただけだ。
息を吸う。
その瞬間、
地面が動いた。
根が、現れる。
一本ではない。
地表を割り、
腕のように、
脚のように伸びてくる。
囲まれる。
前も、
後ろも、
上も。
逃げ道は、消えた。
「……っ」
足が、すくむ。
だが、座り込めなかった。
座ったら、終わる。
根が迫る。
速い。
昨日より、はっきり。
腕に絡む。
足首が引かれる。
踏ん張る。
引き剥がそうとする。
びくともしない。
力が、足りない。
呼べない。
使えない。
それでも、身体は動いた。
歯を食いしばり、
地面に手をつく。
立つことだけを、
やめなかった。
根が締まる。
息が詰まる。
視界が狭くなる。
――ここまでか。
一瞬、浮かんで。
すぐ、違うものが来た。
胸の奥が、冷える。
重い。
強い、拒否。
死ぬのが、嫌なんじゃない。
終わるのが、嫌だ。
理由も分からないまま、
決められるのが、嫌だった。
「……やだ」
声は、小さい。
「まだ……決めてない」
根が、止まる。
一瞬だけ。
森が、迷った。
その隙に、
腕を引き抜く。
皮膚が裂ける。
血がにじむ。
痛い。
それでも、立つ。
根が、再び動く。
今度は、潰しにくる。
叫ばなかった。
助けも、求めなかった。
ただ、立っていた。
森が、ざわめく。
風が巻き、
木々が軋む。
評価が、揺れている。
外れない視線が、そこにある。
長い時間。
実際は、ほんの数秒。
やがて、
根がほどけた。
圧が消える。
地面が、静まる。
膝から、落ちた。
息が荒い。
視界が揺れる。
それでも、意識は残った。
「……通過だ」
静かな声。
「……選ばれた?」
「違う」
即答。
「選ばれなかっただけだ」
分からない。
だが、それでよかった。
決められていない。
それだけで、まだ立てる。
森が、道を残す。
拒まず、
迎えもしない。
曖昧な境目。
先に、
歩き出す背中がある。
「ここから先は、
人の領域が近い」
胸が、きしむ。
森より、
人のほうが怖い。
それでも、戻れない。
立ち上がる。
足は震え、
腕は痛む。
それでも、進んだ。
森は牙を見せ、
最後まで噛まなかった。
それが、答えだった。




