第32話
森は、静かだった。
だが、これまでの沈黙とは違う。
音は、ある。
風も、
葉擦れも、
遠くの獣の気配も。
それなのに――
逃げ道が、ない。
歩きながら、ずっと感じていた。
背中だけじゃない。
前も、
上も、
足元も。
どこを見ても、森がある。
進んでいるはずなのに、
離れている感じが、しなかった。
「……変だ」
思わず、声が漏れる。
少し前を、
先行く背中。
振り返らない。
「森が、囲ってきている」
短く、
それだけ。
囲う。
守る、ではない。
拒まれているわけでもない。
通す気がない。
その中に、
置かれている。
喉の奥が、ひりついた。
水は、まだ少し残っている。
昨日拾った木の実もある。
それでも、
足が重い。
疲れているわけでも、
眠れていないわけでもない。
――決まっていない。
行き先も、
終わり方も。
それが、ない。
歩いているのに、
「先」が、見えなかった。
不意に、
視界の端が揺れた。
枝が落ちたわけじゃない。
風でもない。
見られている。
立ち止まりかけて、
やめる。
止まった瞬間、
何かが起きる気がした。
「止まるな」
低く、
短い声。
「森は、止まったものを測る」
測る。
その言葉だけが、残る。
何を。
どうやって。
聞けなかった。
歩く。
それだけを、
続ける。
やがて、
地面の感触が変わった。
柔らかい土が減り、
踏み固められた跡が増える。
人の痕跡。
だが、
新しくはない。
それが、
余計に気味が悪い。
「……ここは?」
「通り道だった場所だ」
初めて、
足が止まる。
「今は、通られなくなった」
理由は、語られない。
語られなくても、
分かる気がした。
通った者が、
戻らなかった。
唾を、
飲み込む。
そのとき――
森の奥で、
何かが動いた。
音は、小さい。
だが、
隠す気はない。
一歩、
下がりかけた瞬間、
足元の根が、
わずかに盛り上がった。
逃げるな。
そう、
言われている。
前へも、
後ろへも、
自由じゃない。
現れたのは、
獣だった。
狼に似ている。
だが、
目が合わない。
焦点が、
ずれている。
「……来るか」
構えない。
武器も、
抜かない。
獣は、
唸らない。
距離だけを、
詰めてくる。
足が、すくむ。
力を使え、
という感覚はない。
呼び出せる気もしない。
――逃げろ。
そう思った瞬間、
なぜか、
足が前に出た。
理由は、
分からない。
怖い。
けれど、
後ろには行けなかった。
獣が、
跳ぶ。
速い。
腕を上げただけだった。
守るつもりでも、
攻めるつもりでもない。
衝撃。
だが、
噛みつかれなかった。
獣は、
空中で弾かれたように横へ飛び、
地面に転がる。
すぐに起き上がるが、
近づいてこない。
森が、
ざわめいた。
枝が揺れ、
根が、
軋む。
獣は、
数歩下がり、
そのまま、
奥へ消えた。
しばらく、
誰も動かなかった。
「……今のは」
やっと、
声が出る。
「森の判断だ」
静かな返答。
「通すかどうか」
通す。
守る、
ではない。
「じゃあ……通ったの?」
「まだだ」
即答。
「今のは、保留だ」
胸の奥が、
冷える。
助かったのに、
許されたわけじゃない。
歩き出す背中。
「森は、逃げ場を消す」
「その上で、
生き方を見る」
後を、
追う。
足は、
震えている。
それでも、
止まらない。
逃げ場は、
もうない。
だが――
進むしかない場所に、
立たされた。
それだけは、
はっきり分かった。




