第30話
音が、減った。
さっきまで足元で鳴っていた小石も、
枝を踏む音も、
気づいたら、消えている。
静かになった、というより、
余計な音が切り落とされた。
森が、狭くなる。
呼吸が、浅くなる。
深く吸うと、音が出そうだった。
「……止まってないよね」
前を行く背中に、声を投げる。
「止まってない」
即答。
「揃えているだけだ」
揃える。
距離。
角度。
逃げる先。
全部。
喉の奥が鳴る。
乾いている。
歩いているのに、
進んでいる感じがしない。
同じ場所を踏んでいるみたいだ。
「……追いつかれたら、どうなる?」
「殺されはしない」
慰めにならないことを、
分かっている声だった。
「捕まる」
黙る。
捕まる。
終わりじゃない。
終わらされる、ということ。
そのとき、
左の奥で、何かが動いた。
見えない。
でも、動いたと分かる。
視界の端が、歪む。
「……いる」
「いるな」
足が止まる。
それ自体が、合図になる。
森が、さらに静まる。
音はないのに、
圧だけが増える。
「来ないの?」
小さく聞く。
「来る理由が、まだない」
「理由……」
「ここで、何をするかだ」
試されている。
歩くか。
走るか。
隠れるか。
それとも――何かを出すか。
拳を握る。
ぎゅっと。
何も、出したくない。
出したら、終わる。
正面の茂みが、わずかに揺れた。
今度は、はっきり。
人影が、二つ。
距離は、まだある。
顔は、見えない。
見せる気がないだけだ。
「……二人」
「もっといる」
「見えてるのが、二だ」
短く、息を吐く。
逃げたい。
走ったら、終わる。
追われる形になる。
「……どうする」
思ったより、声が落ち着いていた。
少しだけ、間。
「距離を保つ」
「戦わない?」
「今は、な」
人影が、一歩だけ前に出る。
挑発でも、威嚇でもない。
確認。
その一歩に、ぞっとする。
無駄が、なさすぎる。
怖がらせようとも、
強さを見せようともしていない。
――ここからだ。
「……近い」
「まだ、線の外だ」
線。
見えない境界。
越えたら、
逃げても、遅い。
半歩、下がる。
その瞬間、
影も、同じだけ下がった。
ぴたりと。
「……真似された」
「測られている」
低い声。
「動きの速さ。
判断の癖。
恐怖の出方」
背中に、汗がにじむ。
逃げても、
止まっても、
同じだけ、寄ってくる。
距離が、変わらない。
「……これ、いつまで?」
「向こうが決めるまでだ」
その答えが、重い。
歯を噛みしめる。
自分で決められない。
選んだのに、選ばされている。
処刑台と、同じだ。
そのとき。
影の一人が、地面に何かを投げた。
小石。
軽い音。
それだけ。
でも、その音で、
森の空気が変わる。
「……来る?」
「来ない」
「終わりでもない」
小石は、境界の手前で止まっている。
越えていない。
越えさせてもいない。
警告。
――ここまでだ。
意味が分かって、
背中が冷たくなる。
追われているのに、
逃がされている。
理由は、ひとつ。
まだ、価値が決まっていない。
「……やだな」
ぽつりと、こぼれる。
返事はない。
代わりに、
歩く速度が少し上がった。
影は、ついてこない。
距離も、詰めない。
それでも、
視線だけは、背中に残る。
戦っていないのに、
削られていく。
森の外に出ても、
きっと同じだ。
人は、距離で判断する。
近づく前に、
もう決めている。
その事実だけが、
足元に、重く残った。




