第29話
左を選んで、どれくらい歩いたのか。
時間は、よく分からなかった。
森は、黙ったままだ。
拒まない。
助けもしない。
ただ、歩かせている。
地面は、さっきより固い。
根が減り、石が増える。
足を置くたびに、音が出るのが気になった。
「……音、出る」
小さく言ったつもりだったが、
その音は、思ったより森に残った。
「今さらだ」
グラドが、前を見たまま言う。
「選んだ時点で、気づかれている」
何に。
誰に。
聞かなくても、分かる。
人だ。
森を抜けようとしていること。
逃げ続けていること。
そして――選んだこと。
足が、少し重くなる。
疲れじゃない。
決めたあとの重さ。
「……右だったら」
歩きながら、ぽつりと言う。
「どうなってた?」
「早かった」
グラドは、即答した。
「追いつかれるのが、な」
喉が、ひくりと鳴る。
左は、遅い。
だが、その分、何かが溜まる。
レイは、胸の奥を押さえた。
嫌な感じが、はっきりしてきている。
しばらくして、
グラドが足を止めた。
今度は、はっきりと。
「来ている」
音は、まだ聞こえない。
気配も、薄い。
だが、確実に近づいている。
「……何人?」
「数は、問題じゃない」
グラドは、少しだけ振り返る。
「“分けている”」
分けている。
囲い直している。
包囲。
それを考える前に、
体が先に反応した。
背中が、冷える。
首の後ろが、ぞわっとする。
「……止まらないほうが、いい?」
「止まると、測られる」
「……じゃあ」
「進め」
短い言葉。
レイは、歩いた。
さっきより、少しだけ速く。
息が、乱れ始める。
足が、石に取られる。
転びそうになって、
思わず手をついた。
その瞬間。
――見られた。
音でも、視線でもない。
はっきりした感覚。
判断された。
「……っ」
立ち上がる。
そのとき、
遠くで枝が折れた。
一度だけ。
わざとみたいに、はっきり。
合図だ。
「……もう、いる?」
「いる」
グラドは、武器を抜かない。
「だが、まだ来ない」
それが、一番いやだった。
来ないのに、いる。
見ているだけ。
値踏み。
動きの癖。
転び方。
全部、見られている。
レイは、歯を噛みしめた。
「……いやだ」
小さな声。
本音だった。
「逃げてるのに」
「それより……」
言葉が、続かない。
「選ばれるのが、いやだ」
グラドは、少しだけ足を緩めた。
「それが、狩りだ」
淡々と。
「強いから殺すんじゃない」
「弱いから捕まえるわけでもない」
レイの横顔を見る。
「“都合がいいかどうか”だ」
胸の奥が、ぎゅっとなる。
処刑台。
七歳。
失敗。
都合がいいから、殺された。
都合が悪かったから、生き残った。
同じだ。
森の中でも、
同じことが起きている。
そのとき。
前方の木々の間に、
わずかな動きが見えた。
人影。
一瞬だけ。
顔は、見えない。
だが、隠す気もない。
「……見えた」
「見るだけだ」
グラドは、歩みを止めない。
「今は、まだな」
レイは、目を逸らさなかった。
こわい。
でも、逸らしたら終わる気がした。
選んだ道。
遅れてくる結果。
それは、もう始まっている。
森は、何も言わない。
人も、まだ何もしてこない。
ただ――
逃げ場は、
確実に減っていた。




