第23話
水の音は、確かに聞こえていた。
耳を澄ませなくても分かるくらいに。
ちょろちょろ、という軽い音。
遠くはない。
足が、自然と速くなる。
喉が、からからだった。
「待て」
声が飛ぶ。
でも、止まれなかった。
水だ。
飲める。
それだけで、頭がいっぱいになる。
枝が、腕に当たる。
痛い。
それでも、進む。
「レイ」
名前を呼ばれる。
強い声。
音が、近い。
地面が、ぬかるむ。
湿った匂い。
――あった。
岩の隙間から、細く流れる水。
光を、少しだけ返している。
「……水」
しゃがみ込み、手を伸ばす。
「触るな!」
遅かった。
指先が触れた瞬間、
ひどく冷たい。
水じゃない。
皮膚が、じんと痺れる。
「っ……!」
手を引く。
指先が、白い。
「動くな」
腕を掴まれる。
強い力。
水面だった場所が、歪む。
音が、止まる。
地面が、盛り上がる。
岩だと思っていたものが、動く。
ぐにゃり、と形を変え、
泥のようなものが絡みつこうとする。
「離れろ」
引き寄せられる。
足が滑る。
背中から、叩きつけられる。
息が詰まる。
泥が、近づく。
遅い。
でも、確実。
身体が、動かない。
腹が、重い。
腕を掴まれる。
冷たい。
感覚が、消える。
――呼べ。
一瞬、浮かぶ。
でも、分からない。
グラドが前に出る。
杖を、地面に突き立てる。
重い音。
空気が、震える。
「――下がれ」
泥が、止まる。
完全ではない。
迷っている。
こちらを、見ている。
「……ごめん」
勝手に、口から出た。
「謝るな」
短い声。
「覚えろ」
杖が、もう一度、地面を叩く。
泥が、後ずさる。
音が、消える。
そこには、窪みだけが残っていた。
水は、ない。
最初から。
引き上げられる。
膝が、震える。
指先が、まだ冷たい。
「……おなか、すいてて」
声が、小さい。
歩き出す背中。
「空腹は、判断を歪める」
振り返らない。
「理由にはならない」
唇を噛む。
処刑場では、
水は、水だった。
ここでは、違う。
「……次は」
声が、揺れる。
「どうすればよかった?」
「確認する」
「止まる」
「一人で決めない」
三つだけ。
指先を見る。
白さが、少し戻っている。
歩く。
腹は、まだ減っている。
でも、足は慎重だった。
水のない窪みが、背後に残る。
選んだ先に、なにもなかった。
それだけは、忘れなかった。
森の奥で、風が動く。
冷たくはない。
それが、少しだけ、救いだった。




