第19話
朝の森は、静かだった。
だが、それは落ち着きではない。
音が、少ない。
鳥の声がない。
虫の羽音も、遠い。
歩くたび、足元の落ち葉がやけに響く。
思わず、足が止まった。
「……静かすぎる」
小さく、こぼれる。
すぐ後ろで、気配が止まる。
視線は前ではなく、周囲全体に向けられていた。
「森が、こちらを見ている」
低い声。
風が吹く。
冷たい。
枝の揺れる音が、遅れて届く。
自然の動きとは、少しずれていた。
進むにつれ、空気が重くなる。
湿った土の匂いに、別の気配が混じる。
――拒まれている。
理由は、分からない。
だが、身体が先に理解していた。
「ここから先は、修練だ」
「守られていると思うな」
忠告。
黙って、うなずく。
その瞬間。
足元の根が、動いた。
気づいたときには、足首に絡みついている。
引き倒すほどではない。
だが、逃がす気もない。
「……っ」
声が、喉で止まる。
バランスを崩し、膝をつく。
同時に、背後の地面が盛り上がった。
別の根。
数本。
囲むように、伸びてくる。
「来るぞ」
声だけが飛ぶ。
手は、出ない。
周囲で、根がうごめく。
距離を測るように、じりじりと迫る。
考えるより先に、身体が動いた。
腕で払いのける。
力任せ。
すぐに、別の根が絡みつく。
足を取られ、地面が波打つ。
倒れる。
視界が、土で埋まる。
息が詰まり、口の中に土の味が広がった。
――力を使えば。
一瞬、浮かぶ。
胸の奥が、きゅっと縮む。
あの重さ。
冷たさ。
いやだ。
歯を食いしばる。
光も、闇も、呼ばない。
火も、水も、出さない。
それでも、動く。
絡め取られた腕を引き剥がし、
爪が割れても、立ち上がろうとする。
根が、さらに増える。
逃げ場は、ない。
それでも、止まらない。
何度も。
同じ動きを、繰り返す。
しばらくして。
絡みつく力が、わずかに緩んだ。
一本、また一本と、根が離れていく。
地面のうねりが、静まる。
森が、沈黙した。
その場に、座り込む。
息が荒い。
腕も、足も、震えている。
だが、倒れたままではなかった。
ゆっくりと、近づいてくる気配。
「今のが、森の答えだ」
顔を上げる。
「力を見たんじゃない」
一拍。
「やめなかったことを、見た」
完全には、分からない。
それでも。
風が、再び吹く。
今度は、少しだけ柔らかい。
遠くで、乾いた音がした。
木を踏む音。
人の足音。
空気が、張り詰める。
「来る」
ゆっくりと、立ち上がる。
力は、まだ戻らない。
それでも。
森の奥で、何かが、確かに動いていた。




