第16話
朝は、いつもと同じだった。
森の匂い。湿った土。冷たい空気。
目を覚ます。
すぐには、立ち上がらない。
昨日のことを、思い出す。
でも、順番はぐちゃぐちゃだ。
沈んだ感触。軽くなった胸。引き戻された身体。
どれが先で、どれがあとだったのか、分からない。
少し離れた場所で、火が揺れている。
小さい。音も、ほとんどない。
朝食は、硬い。
味は、分からない。
飲み込むと、喉が痛い。
それでも、残さず食べる。
食べている間、昨日のことは誰も口にしなかった。
それが、いちばん気になった。
歩き出す。
今日は、遅い。
足を出す前に、地面を見る。
根。葉。土の色。
昨日なら、気にしなかったこと。
進む。
何も、起きない。
音も、変わらない。
空気も、変わらない。
森は、昨日のことを忘れたみたいだった。
それが、少し嫌だった。
昼前、休む。
木の根に腰を下ろす。
水を飲む。冷たい。
喉が、鳴る。
「……何もないな」
独り言みたいな声。
少し間があって、返事が来る。
「ある日は、ある」
「ない日は、ない」
それだけ。
納得はできない。
でも、聞き返すほどでもなかった。
歩く。
また、歩く。
枝を避ける。
石を踏まない。
それでも、何も起きない。
胸の奥が、むずむずする。
昨日のあれは、間違いだったのか。
それとも、今日はたまたまなのか。
分からない。
分からないまま進むのが、少しつらい。
午後、影が長くなる。
風が、止まる。
一瞬、背中が寒くなる。
でも、すぐに戻る。
何も、起きない。
――起きてほしかった。
そんなことを思ってしまう。
思ったことに気づいて、嫌になる。
夕方、野営。
火を起こす。
昨日より、時間がかかる。
火を見つめる。
揺れているだけ。
昨日の沈む地面も、引き寄せる感触も、ここにはない。
夜が来る。
音が、遠くなる。
寝る前、声が落ちてくる。
「今日は、何もしなかった」
事実みたいな言い方。
うなずく。
「……だめ?」
「いい」
即答だった。
それで、少しだけ楽になる。
横になる。
眠りは、浅い。
夢は、見ない。
ただ、暗い。
途中で、目が覚める。
呼ばれたわけじゃない。
静かすぎて、起きただけ。
息を確かめる。
重い。遅い。
それが、ちゃんと自分のものだった。
もう一度、目を閉じる。
森は、何もしてこない。
それが正しいのかどうか、まだ、分からなかった。




