第15話
朝は、昨日よりも静かだった。
音がないわけじゃない。
ただ、間が長い。
歩いている。
考えながらではない。
足が、勝手に前へ出る感じ。
後ろに、気配。
距離は、昨日より少し遠い。
昨日のことは、覚えている。
立ち止まったこと。
横にずれたこと。
進まなかったこと。
――今日は、大丈夫な気がした。
理由は、ない。
でも、昨日ほど胸が重くない。
木々の並びが、少し変わる。
地面が、乾いている。
足跡が、残りにくい。
気づかないうちに、歩幅が広がっていた。
「……」
声は、かからない。
振り返らない。
そのまま、進む。
小さな段差。
根の露出した坂。
昨日なら、立ち止まったかもしれない場所。
今日は、止まらなかった。
足が、根を踏む。
少し滑る。
でも、転ばない。
――行ける。
そう思った瞬間、胸の奥が、ふっと軽くなった。
息が、楽になる。
頭が、静かになる。
考えなくていい。
それは、心地よかった。
気づかない。
その感覚を、昨日も感じていたことに。
「いやだ」と思ったはずの、それと同じだということに。
風が、吹く。
冷たくない。
葉が、揺れる。
昨日より、優しい。
森が、静かに道を作っているように見えた。
――ほら。
そんな声が、どこかにある気がした。
足を速める。
前が、開ける。
小さな空間。
光が、落ちている。
あたたかくはない。
けれど、暗くもない。
立ち止まる。
何も、起きない。
追われない。
拒まれない。
それが、少し不安だった。
次の一歩を出したとき、地面が、わずかに沈んだ。
ぐに、と嫌な感触。
足を戻そうとして、戻らない。
「……?」
視線を落とす。
土が、靴を包んでいる。
泥ではない。
重い。
引き抜こうとすると、逆に、沈む。
胸が、きゅっと縮む。
そのとき、背中に、何かが触れた。
風ではない。
手でもない。
でも、確かに、近い。
――あ。
遅れて、分かる。
昨日、立ち止まった場所と、同じだ。
似ている。
でも、少し深い。
力を使えば、抜けられる。
それは、分かる。
昨日より、ずっと簡単だ。
胸の奥が、また軽くなる。
呼ばなくても、集まってくる。
――楽だ。
その瞬間、地面が、さらに沈んだ。
足首まで。
冷たい。
怖くなって、息を吸う。
「……!」
声にならない声。
次の瞬間、身体が、前に引かれた。
転ぶ。
手をつく。
指先が、しびれる。
引きずられるほどではない。
でも、逃がす気もない。
――選ばれた。
そう思って、違う、とすぐに分かる。
選ばれたんじゃない。
寄せられた。
楽なほうへ。
背後で、足音。
重い音。
次の瞬間、身体が、後ろへ引き戻された。
倒れる。
息が、詰まる。
「……止まれ」
低い声。
杖が、地面に突き立てられている。
その周囲だけ、沈みが止まっていた。
森は、静かだ。
怒っていない。
助けてもいない。
ただ、見ている。
「行けたと思ったか」
問いではなかった。
答えられない。
胸が、苦しい。
軽かったはずの場所が、今は重い。
「……昨日と、同じだと思った」
やっと、言う。
否定は、すぐには来なかった。
「同じじゃない」
短い声。
「昨日は、止まった」
「今日は、進んだ」
それだけ。
視線が、足元に落ちる。
土が、まだついている。
「……悪かった?」
「判断が早すぎた」
責める調子ではない。
「分かった気になるのが、一番早い」
杖が引き抜かれる。
地面が、ゆっくり元に戻る。
「今日は、ここまでだ」
「……」
「戻る」
うなずく。
歩き出すと、さっきまで軽かった足が、重い。
でも、それが、少しだけ安心だった。
振り返る。
さっきの場所は、もう分からない。
道も、空間も、消えている。
森は、何も言わない。
教えもしない。
ただ、踏み出した足跡だけが、少し深く、残っていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第二章は毎日18時に5話ずつ更新していく予定です。




