第140話
その場に、命令はなかった。
正確に言えば、誰も「動くな」とは言っていない。
誰も「来るな」とも言っていない。
ただ、誰も彼に判断を求めなくなった。
会議は続いていた。
記録も取られていた。
定義案は更新され、
注意事項と補足と但し書きが、静かに増えていく。
レイは、その端に立っていた。
立っているだけで、席は用意されない。
発言を遮られることもないが、
声を向けられることもない。
彼の存在は、排除されていない。
だが、前提にも含まれていなかった。
資料をめくる音。
小さな咳払い。
沈黙の合間に、「念のため」という言葉が落ちる。
念のため。
万一を考慮して。
誤解を避けるため。
そのすべてが、彼を見ない理由になっていた。
レイは、動かなかった。
抗議もしない。
問い返しもしない。
自分を説明する言葉も、選ばなかった。
彼自身、何を拒めばいいのか、分からなかった。
命令は出ていない。
強制もされていない。
選択肢が、示されたわけでもない。
ただ、世界が彼を扱いかねている。
その事実だけが、そこに残っていた。
定義は、彼を守るために作られたはずだった。
だが今は、触れないための理由になっている。
「彼が問題なのではない」
「問題が起きていないことが、問題だ」
言葉は増える。
説明も整っていく。
けれど、その中心に、彼の意思は含まれない。
レイは、一歩も引かなかった。
同時に、一歩も踏み出さなかった。
拒まない。
だが、同意もしない。
決められていく流れの中で、
決まらないまま、立っている。
その姿が、
世界の定義を、
静かに揺らしていた。




