第137話
最初に気づいたのは、数値の異常ではなかった。
報告書の末尾に付された、短い一文だった。
――該当現象、未発生。
定義上、条件はすべて満たされている。
観測対象も存在し、時間的・空間的なズレもない。
にもかかわらず、
「起きるはずの現象」が、起きていなかった。
誤記ではないかと疑われ、再観測が行われた。
結果は同じだった。
何も起きていない。
正確には、「起きなかったこと」だけが、記録されている。
天界の記録官たちは、しばらく沈黙した。
沈黙の理由は単純だった。
どこから修正すべきか、分からなかったからだ。
数値は正しい。
条件も合致している。
定義にも違反していない。
それでも、結果だけが存在しない。
「例外処理では?」
誰かが言った。
だが、例外と呼ぶには、説明が足りなかった。
例外とは、規則の外にある現象のはずだ。
だが今回の事例は、
規則の内側で、何も起きなかった。
文書が、次々と更新される。
注釈が増え、条件が分岐し、補足説明が追記される。
だが、それらはすべて、
「起きなかった理由」を説明するためのものだった。
現象そのものを示す言葉は、どこにもなかった。
「禁忌存在に該当する可能性は?」
その語が、再び持ち出される。
以前なら、慎重に扱われていた言葉だ。
今は、
空白を埋めるための仮置きとして使われていた。
可能性。
影響。
間接的要因。
どれも断定ではない。
だが、削除もされない。
地上でも、似た混乱が起きていた。
現場では、何も異常は起きていない。
事故もなく、変化もなく、被害もない。
それなのに、報告だけが増えていく。
「今回は説明がつかない」
その一文が、何度も繰り返された。
説明できない、という説明。
判断を保留するための判断。
誰もが、「何かが足りない」と感じている。
だが、何が足りないのかは、誰にも言えなかった。
レイの名は、直接には出てこない。
だが、資料の端や、会話の合間に、必ず現れる。
――関連性は不明。
――影響は確認されていない。
――ただし、排除はできない。
その曖昧さが、
語の使われ方を、少しずつ変えていく。
禁忌。
管理不能。
未定義。
同じ意味で使われているわけではなかった。
それぞれが、都合のいい空白を指す言葉になっていた。
定義は、まだ存在している。
文書も、規則も、体系も、崩れてはいない。
だが、
それらが指し示す現実だけが、
どこにも見当たらなかった。
説明は増える。
理解は進まない。
その事実を、誰も口には出さない。
出してしまえば、
定義そのものが、問い直されてしまうからだ。
そして、問い直す準備は、
まだ、どこにもなかった。




