第136話
その日も、特別な出来事はなかった。
朝はいつも通りに始まり、空気も、人の声も、目に映る景色も、昨日と変わらない。
ただ一つ違っていたのは、
誰も、レイに判断を求めなかったことだった。
質問は回避され、意見は先回りして処理され、
決定事項は、すでに整った形で渡される。
「今回は、こちらで決めてあるから」
その言葉に、悪意はなかった。
むしろ、配慮だった。
負担をかけないため。
余計な責任を背負わせないため。
混乱を招かないため。
そう説明されるたび、レイは頷いた。
頷くことに、理由はいらなかった。
拒む理由も、抗う言葉も、
まだ、見つからなかったからだ。
彼自身、困っていたわけではない。
何かを奪われた、という感覚も薄い。
ただ、
自分が「そこにいる」ことと、
「決定に関与している」ことが、
ゆっくり切り離されていくのを感じていた。
不快ではない。
恐ろしくもない。
それが、いちばん説明しづらかった。
昼過ぎ、簡単な確認作業が行われた。
本来なら、彼の意見を聞くのが自然な場面だった。
だが、誰も振り返らない。
視線は資料の上を滑り、結論は、すでに共有されていた。
「問題ないな?」
その問いは、全体に向けられていた。
レイに向けられたものではない。
彼は一拍置いてから、小さく頷いた。
それで、話は終わった。
胸の奥に、かすかな引っかかりが残る。
怒りではない。
悲しみでもない。
もっと曖昧で、
もっと言葉にならない感覚。
――このままだと。
不意に、そんな考えが浮かんだ。
このままだと、自分は、何かを「選ばされる」。
いや、
選ぶ前に、選ばれた結果だけを受け取る。
その予感は、確信には届かない。
だが、消えることもなかった。
夕方、ひとりになった時間。
レイは、壁に背を預けて座り込んだ。
考えを整理しようとして、やめた。
整理できるほど、はっきりした問題ではない。
誰かが悪いわけでもない。
何かが間違っていると、断言できるほどでもない。
それでも、納得していない。
その感覚だけが、静かに、確かに、残っていた。
拒否するほどの理由はない。
受け入れるほどの同意もない。
その中間。
拒否未満。
レイは、まだ何も言わない。
言葉にしてしまえば、それは「判断」になる気がしたからだ。
今は、ただ立っている。
選ばれない場所で、
選ばれる未来を、感じながら。




