第132話
事故の報告書は、静かに揃えられていた。
血の量も、破損の程度も、判断の遅れも、
すべて数値と時刻に分解されている。
そこに、不足はなかった。
少なくとも、形式の上では。
紙の端はきれいに揃えられ、
余白も規定どおりだった。
読み返す必要はない。
内容は、すでに全員が把握している。
「直接的な要因は確認されていません」
天界の記録官がそう告げる。
淡々とした声だった。
感情も、評価も、含まれていない。
「器具の劣化も基準内。
判断者の行動も、規定を逸脱していません」
水鏡の上に、
事故当時の地上の映像が浮かぶ。
誰かが立ち止まり、
誰かが待ち、
誰かが一瞬、
確認のために視線を逸らした。
その間に、起きた。
ただ、それだけのことだった。
「では、なぜ起きた」
問いは、
誰に向けられたものでもなかった。
だが、その言葉が置かれた瞬間、
場の空気が、わずかに張る。
「説明が必要です」
別の声が重なる。
それは要求というより、
前提に近かった。
沈黙のあと、
書類の一部がめくられる。
音は小さい。
だが、その動作自体が、
次の整理を促していた。
「事故当時、現場周辺に――
例の存在が滞在していたことは、
確認されています」
名前は出なかった。
だが、誰もが
同じものを思い浮かべていた。
「関与は?」
「ありません。
接触も、指示も、
誘発行動も確認されていない」
即答だった。
否定は、明確だった。
それでも、
紙の端に小さな注釈が加えられる。
――影響可能性:低
――因果関係:未確定
未確定、という言葉が置かれたことで、
空白は消えた。
「直接原因ではない。
だが、“条件”には含まれる」
誰かが、そうまとめる。
言い切りではない。
だが、戻す余地も残さない言葉だった。
反論は出なかった。
地上では、
別の整理が進んでいた。
「慎重になりすぎたんだと思います」
そう口にした者は、
言い訳をしているつもりはなかった。
むしろ、正直な感想だった。
「いつもなら、
もう少し早く判断していた。
でも……念のため、
確認してしまった」
念のため。
その言葉を、
誰も否定しない。
「彼が悪いわけじゃない」
「もちろんだ」
「ただ、あの場にいたから」
因果は、
形を持たないまま、
共有されていく。
レイは、
その話し合いに呼ばれていなかった。
呼ぶ理由が、なかった。
彼は何もしていない。
それは全員が分かっている。
だからこそ、
説明が必要だった。
天界の文書には、
新しい整理が加えられる。
――直接的影響:否定
――間接的影響:検討対象
検討、という語が入ったことで、
事故は
「説明可能な枠」に収まった。
誰も嘘は書いていない。
証拠も、捏造されていない。
ただ、
空白が許されなかった。
因果がなければ、
報告は終わらない。
原因がなければ、
次の判断ができない。
だから、
置かれた。
レイは、その夜、
普段と変わらず部屋に戻った。
廊下ですれ違った者たちは、
挨拶のあと、
ほんの一拍だけ、間を置く。
その間に、
何かを確認しているようだった。
彼自身は、
何も感じていない。
体調も、
周囲の空気も、
昨日と変わらない。
ただ、世界のほうが、
彼の存在を
「説明に使える形」に
整え始めていた。
それはまだ、
疑いではない。
責任でも、
糾弾でもない。
説明のための、
仮置きだった。
だが、
一度置かれた因果は、
簡単には消えない。
紙の上で整えられた整理は、
少しずつ、
現実の見え方を変えていく。
何もしていない存在に、
何も起きなかった理由が、
結びつけられていった。




