第129話
朝から、声をかけられる回数が多かった。
「今日の予定、聞いてる?」
「このあと、少しだけ時間ある?」
「念のためだけど――」
どれも、急ぎではない。
重要そうでもない。
ただ、
先に言っておきたい、という調子だった。
レイは、そのたびに足を止めた。
立ち止まる必要があるほどの話ではない。
けれど、立ち止まらないと、話が始まらない。
「今日は外に出ない予定だよね」
「誰かと会う約束は……ない、よね」
確認が、確認を呼ぶ。
一つ答えると、次が来る。
ミラは、少し離れたところで、その様子を見ていた。
視線を向けたまま、近づかない。
声をかければ止められる。
そう思った。
でも、止める理由を言葉にできなかった。
誰も、間違ったことは言っていない。
誰も、強制していない。
「何かあったら、すぐ言って」
「判断は、こっちでするから」
判断、という言葉が出るたび、
空気が、少しだけ固くなる。
昼前には、説明が一巡した。
それでも、終わらない。
「一応、共有なんだけど」
「念のため、もう一度」
同じ話が、角度を変えて繰り返される。
違いは、慎重さの度合いだけだった。
レイは、返事をし続けた。
短く。
否定も、肯定もしない形で。
「分かった」
「そうなんだ」
「今は、特に」
それ以上、言わない。
言えば、説明が増えると分かっていた。
昼食の席でも、様子は変わらなかった。
椅子が引かれる前に、声がかかる。
「今日は、ここでいい?」
「体調は?」
体調が悪いわけではない。
だが、「悪くない」と言うと、
「本当に?」が返ってくる。
ミラは、皿を置く手を止めた。
一瞬だけ、眉が動く。
「……ねえ」
言いかけて、やめる。
ここで口を挟めば、
理由を聞かれる。
説明が必要になる。
それもまた、「念のため」だ。
午後になると、
共有事項が、紙になって回ってきた。
正式な文書ではない。
注意書きでもない。
ただの覚え書きだ。
けれど、行間が多かった。
――当面の対応について
――状況に応じて柔軟に
――本人の負担にならないよう配慮
どれも、正しい。
否定しようがない。
だからこそ、
誰も止められない。
レイは、紙を読み終えても、
しばらく動かなかった。
視線は、文字の上にある。
だが、追っていない。
ミラが、ようやく近づいた。
「……多いね」
それだけ言った。
レイは、少し考えてから頷く。
「説明が」
「うん」
それ以上、言葉は続かなかった。
夕方、
誰かが小声で言った。
「何も起きてないのにね」
否定のつもりではなかった。
確認でもない。
ただ、実感だった。
何も起きていない。
それなのに、
一日が終わるころには、
誰もが、少し疲れていた。
説明は、終わっていない。
ただ、今日はここまでだ。
レイは立ち上がり、
いつもと同じ道を歩いた。
背中に、視線は残る。
声は、もうかからない。
代わりに、
「念のため」が、
そのまま置いていかれた。




