第120話
距離が、決められていく。
誰かが口に出したわけではない。
線が引かれたわけでもない。
ただ空気が、少しずつ変わった。
朝、レイが歩くと、人が一歩ずれる。
避けている、というほど露骨ではない。
けれど以前より、近くに立たなくなった。
話しかけられることも、減った。
命令でも拒絶でもない。
「判断を避けている」沈黙だった。
触れない。
近づかない。
決めない。
それが配慮だと、理解しているからこそ、
レイは何も言えなかった。
誰も、彼を危険だとは言っていない。
誰も、敵だとは言っていない。
むしろその逆だった。
――扱いづらい、というだけだ。
それは非難ではない。
評価ですらない。
ただの、運用上の問題。
天界から届いた通達には、名前がなかった。
「対象」「当該存在」
そうした言葉だけが並び、文末はすべて慎重だった。
断定しない。
断言しない。
責任を持たない。
完璧に、整えられた文章だった。
ミラは何度も、それを読み返していた。
守る、という立場を取ったはずだった。
危害を加えさせない。
排除させない。
それが、自分の選択だと思っていた。
けれど今、彼女の周囲でも距離が生まれている。
レイに触れれば、判断になる。
言葉をかければ、立場になる。
そばに立てば、意味が生まれてしまう。
だから皆、少しずつ離れていく。
ミラもまた、同じだった。
近づこうとして、止まる。
声をかけようとして、黙る。
守るために、触れない。
守るために、何もしない。
それが正しいのかどうか、もう分からなかった。
レイは、その様子を静かに見ていた。
誰も怒っていない。
誰も敵意を持っていない。
それでも、自分だけが輪の外にいる。
以前なら、理由が分からなかっただろう。
だが今は、分かる。
皆が、自分を「どう扱えばいいか」迷っている。
その迷いが、距離になる。
昼。
食事の場でも、席が一つ空くようになった。
誰かが座るはずだった場所。
誰も座らない場所。
その空白は、偶然を装っている。
だが偶然ではない。
レイは、そこに目を向けなかった。
目を向ければ、何かを選ぶことになる気がした。
夜。
一人で歩く廊下は、以前と変わらないはずなのに、
やけに広かった。
自分は、何もしていない。
力も使っていない。
何かを選んだ覚えもない。
それでも、世界の側が距離を決めていく。
触れられない距離。
踏み込めない位置。
判断されない代わりに、関与もされない場所。
レイは立ち止まり、手を見た。
誰にも触れていない手。
誰にも、掴まれていない手。
その手が、少しだけ冷えていることに気づく。
言葉にすれば、簡単すぎる気がした。
だから、何も言わなかった。
ただ、距離の中に立ち続けた。
世界が決めるまで。
言葉が追いつくまで。
自分が、まだ何者でもないままで。




