第115話
最初に起きたのは、異変ですらなかった。
天界の記録庫では、日々、裁定前の報告が整理される。
分類し、番号を振り、適切な会議へ回す。
その流れが、ひとつだけ、わずかに滞った。
書類は不備なく揃っていた。
観測結果も、数値も、照合も終わっている。
それでも、次の欄が埋まらない。
――裁定区分。
担当官は一度、筆を置いた。
迷ったわけではない。
判断できなかった、という感覚でもなかった。
ただ、どの欄にも当てはまらなかった。
危険指定には、根拠が足りない。
保護対象とするには、前提が欠けている。
敵対存在と呼ぶには、行動が静かすぎた。
担当官は、保留の印を押した。
よくある処理だった。
だが、その書類は、翌日も、次の日も、
同じ場所に戻ってきた。
理由は付記されていない。
差し戻した者も、引き継いだ者も、
「まだ問題ではない」と判断しただけだった。
地上では、別の停滞が起きていた。
村の境に立つ少年を、人々は見ていた。
視線は向けるが、声はかけない。
追い払う理由もなく、迎え入れる決断もない。
「害はないだろう」
「だが、近づけるのは違う」
「様子を見よう」
結論は、いつも同じ言葉に落ち着く。
まだ何も起きていない。
それは事実だった。
彼は何も壊していない。
何も奪っていない。
何も与えてもいない。
だから、判断が遅れた。
魔界では、その状況を報告として受け取った者がいた。
読み終え、巻物を閉じる。
「決められない、か」
それ以上、言葉は続かなかった。
提案も、介入もない。
ただ、記録の端に、小さく印を残した。
――未定。
三界それぞれで、同じ現象が起きていた。
誰も口にはしないが、
どこかで同じ感触を共有している。
扱えない。
だが、排除する理由もない。
問題にならない。
だが、無視もできない。
天界の会議場では、
その件が議題に上る直前で止まっていた。
正式な議題にするには、言葉が足りない。
だが、沈黙のままでは、整理ができない。
円卓の周囲に集まる者たちは、
まだ、その存在をどう呼ぶか決めていなかった。
名前は、記録上、残っている。
――レイ。
だが、その名に、意味は付されていない。
評価も、役割も、方向もない。
ただ、処理されないまま、そこにある。
会議開始の合図が、静かに鳴った。
誰かが言葉を探し、
誰かが、それを待っている。
この時点では、
まだ、裁定の話ではなかった。
整理が、必要になっただけだった。




