第112話
天界の記録庫は、いつもより静かだった。
書架に並ぶのは、出来事ではなく、定義だ。
存在。役割。序列。由来。
世界は、それらを書き留めることで、保たれている。
記録官の一人が、新しい頁を開いた。
項目はすでに用意されている。
――名称
――分類
――起源
――観測上の特記事項
だが、どれも空欄だった。
「……名称は?」
問いは出たが、返事はなかった。
セラフィエルは、少し離れた位置でその様子を見ていた。
介入する権限はない。
ただ、視線を外すこともできなかった。
「仮称では?」
「不可です」
即答だった。
「仮称は、残ります」
記録官は頁から目を離さない。
「残るものは、定義になります」
別の者が、書架に指を触れたまま続ける。
「定義は、管理を生みます」
そこで、言葉が止まった。
誰も続きを言わない。
全員が、その続きを知っていたからだ。
「……空白で」
しばらくして、そう決まった。
名称欄は何も書かれない。
分類も同じだった。
異例ではある。
だが、前例がないわけでもない。
今回は――そのままにする、という判断だった。
「観測番号は?」
「不要です」
「識別は?」
「――足ります」
空白のままで。
セラフィエルは、一歩だけ前に出た。
「それは……残す、という扱いなのですか」
記録官は、すぐには答えなかった。
頁を閉じる。
指先で角を揃える。
「記録は、残ります」
静かな声だった。
「ただ――呼べません」
名を呼ぶことは、近づくことだ。
呼ばれることは、関係を持つことだ。
呼べない存在は、触れられない。
そして、守る対象にもならない。
頁は空白のまま、戻された。
そこに書かれたのは、何も書かれていないという事実だけだ。
セラフィエルは、その書架から目を離せなかった。
名がない。役割もない。
それが、どういう扱いなのか。
この場では、誰も言わなかった。
⸻
最初に変わったのは、音だった。
天界では、回廊を渡る風の音が途切れた。
白い柱の間を抜けていくはずの気配が、途中で消える。
セラフィエルは足を止め、振り返った。
何もない。
壁も、扉も、結界の光もない。
ただ、先が続いていなかった。
「……閉じた?」
誰に向けた言葉でもなかった。
連絡路は、静かに折り畳まれていた。
封印ではない。
破壊でもない。
使われなくなった、というだけだ。
記録官の一人が、指先で空をなぞる。
そこにあったはずの座標が、反応しない。
「観測は?」
「生きています」
「干渉は?」
短い沈黙。
「――不可です」
セラフィエルは、頷かなかった。
否定も、しなかった。
ただ、その場に立っていた。
⸻
魔界では、境界の裂け目が自然に塞がっていった。
黒い岩場の奥。
かつては熱と声が漏れていた場所。
今は、ただの影だ。
ヴァルは、武器をしまわなかった。
しまう必要が、なかった。
「引いたな」
誰にともなく言う。
奪うには、早すぎる。
関わるには、脆すぎる。
それだけの判断。
上位の気配は、すでに遠い。
命令も、制止も、届かない。
「……まあいい」
魔界は退いた。
勝ちでも、負けでもない。
ただ、手を出さなかった。
⸻
地上では、変化はもっと分かりにくかった。
空は、いつも通り青く。
夜は、変わらず暗い。
それでも、ある朝から――
祈りに返事がなくなった。
届いていないわけではない。
聞かれていないわけでもない。
返らない。
監督官は、報告書を閉じる。
異常値はない。
被害も、増えていない。
「問題なしか」
そう書くしかなかった。
保護対象は存在する。
監視網も維持されている。
ただ、誰も近づかない。
規則ではなく、空気として。
⸻
三界の境界は、同時に閉じた。
鍵を掛けた者は、いない。
命令を出した者も、いない。
世界が距離を取っただけだ。
衝突は、起きない。
それを誰も確認しに行かなかった。
助けも、言い訳も、届かなくなった。
セラフィエルは、最後に一度だけ振り返る。
向こう側は見えない。
閉じられたのは、境界か。
それとも、覚悟か。
答えは、どこにも書かれていなかった。




