第106話
被害報告は、朝から続いていた。
破損した建物。
使用不能になった結界装置。
負傷者と、数えきれないほどの精神的混乱。
監督官は、机に並べられた報告書を一枚ずつ確認しながら、深く息を吐いた。
「……数は、揃っているな」
数値としては。
だが、そこに「答え」はなかった。
誰が引き金を引いたのか。
誰が事態を拡大させたのか。
誰が止めるべきだったのか。
どの報告書にも、明確な責任者の名は書かれていない。
代わりに並ぶのは、似た言葉ばかりだった。
「守るためだった」
「他に選択肢がなかった」
「被害を最小限に抑えようとした」
監督官は、隣に立つ補佐官に視線を向けた。
「現場の判断は?」
「全員が、正しい行動だったと主張しています」
「……だろうな」
否定はしなかった。
事実、それぞれの判断は、単独で見れば合理的だった。
問題は、それらが重なったことだった。
ある者は守ろうとし、
ある者は隔離しようとし、
ある者は介入を最小限に留めようとした。
そのすべてが、同時に行われた。
「誰も、間違っていない。だから――」
監督官は、言葉を切った。
「誰も、責任を引き受けられない」
部屋の空気が、重く沈む。
報告に立ち会っていた一人の関係者が、ぽつりと口を開いた。
「……あの子を、守ろうとしただけなんです」
その言葉に、誰も反応しなかった。
否定も、肯定もできなかった。
別の者が続く。
「危険だと判断したのも、事実です。
だから距離を取ろうとした」
「それが、間違いだったと?」
「……分かりません」
沈黙が落ちる。
そこには、怒りも糾弾もなかった。
ただ、自分たちの判断が、どこで重なり、どこでずれたのかを、誰も説明できない感覚だけが残っていた。
監督官は、ふと気づいた。
この場で、まだ一度も名前が出ていない存在に。
「――対象個体についての直接的責任は?」
問いは形式的だった。
だが、返ってきた答えは予想通りだった。
「現時点では、ありません」
「原因としても?」
「はい。
あの子は、あくまで“状況の中にいた”だけです」
レイ。
その名は、報告書の注釈にすら、ほとんど記されていない。
守ろうとした人間がいた。
危険視した人間がいた。
距離を取ろうとした人間がいた。
だが、誰も彼を「裁く対象」としては扱っていなかった。
監督官は、書類を閉じた。
「……結論は出ないな」
それは、敗北宣言に近かった。
誰かの悪意を見つけられれば、話は簡単だった。
だが、残っているのは、善意の残骸だけだ。
「本件は、引き続き保留とする」
誰も異を唱えなかった。
善意は、誰かを守るために使われた。
そして今、その善意は、誰の責任にもならない形で、静かに積み上がっている。
監督官は、最後に一言だけ付け加えた。
「――忘れるな。
これは終わった話じゃない」
部屋を出る者たちの背中は、誰一人として軽くはなかった。
守ったはずのものが、
何だったのか分からないまま。




