第105話
天界に、召集がかかった。
大規模衝突の直後としては、遅すぎるわけではない。
だが、早くもなかった。
広間には、定位置に光が灯る。
席は、すべて埋まっている。
上位の天使たちは、誰一人欠けていない。
それでも、中央の円卓は、空いたままだった。
議題は、置かれていない。
記録官が、白い板を掲げて待っている。
板には、何も書かれていない。
書くための指示は、まだ降りてこない。
セラフィエルは、席についたまま、翼を畳む。
羽根の先が、床に触れている。
それ以上、動かさない。
「開始は?」
小さな声が落ちる。
問いというより、確認だった。
答えは、ない。
代わりに、天井奥から低い振動が伝わる。
声ではない。
だが、そこに“在る”ことだけは分かる。
上位存在だ。
姿は、現れない。
意志だけが、広間を満たしている。
ルクスは、光の位置を一度だけ調整した。
普段なら必要のない動作だ。
誰も指摘しない。
「裁定は?」
別の天使が言う。
今度は、はっきりと。
沈黙が落ちる。
長くはない。
だが、天界にしては、不自然な間だった。
やがて、どこからともなく言葉が届く。
『まだ、足りない』
それだけだった。
説明は続かない。
条件も示されない。
何が足りないのか。
いつ満たされるのかも、語られない。
記録官の手が、一瞬止まる。
そして、何も書かないまま板を下ろした。
裁くには、材料が足りない。
そう受け取れる。
だが、それ以上の解釈は許されない。
セラフィエルは視線を上げる。
上位存在のいるはずの方向を見る。
そこには、光しかない。
「……被害は、すでに出ています」
抑えた声。
訴えではない。
事実の確認だ。
返答はない。
否定も、肯定もされない。
ただ、その声は、議題として拾われなかった。
ルクスが、静かに言う。
「裁定は、始まらない、という理解で?」
一瞬、広間の空気が張る。
『始められない』
訂正が入った。
短く、正確な言い換え。
始めないのではない。
始められない。
その違いに、
気づいた者だけが、口を閉ざす。
天界は、判断する側だ。
裁く側だ。
定義を与える存在だ。
その天界が、
判断できない位置に立たされている。
それは、敗北ではない。
だが、勝利でもない。
セラフィエルは、手元に視線を落とす。
何も置かれていない。
命令書も、裁定文もない。
ただ、
始まらなかった、という事実だけが、
そこに残る。
召集は解かれた。
結論は出ない。
次の予定も告げられない。
天界は、沈黙したまま、
それぞれの位置へ戻っていく。
裁定は、始まらなかった。




