第95話
最初に変わったのは、音だった。
低く、遠くで鳴るはずのない響きが、地面の下から伝わってくる。
雷とも違う。崩落にしては、間が長すぎた。
人々は足を止め、互いに顔を見合わせたが、誰も理由を口にしなかった。
次に、揺れた。
激しくはない。立っていられないほどでもない。
ただ、棚の上の器が触れ合い、窓枠がかすかに鳴る。
その揺れは一度で終わらず、呼吸のように、間を空けて戻ってきた。
通りの端で、石が落ちた。
屋根の縁に積もっていた小さな石が、理由もなく転がり、地面に当たって止まる。
誰かが拾い上げるには、あまりに些細だった。
踏めば砕ける程度の重さ。
それでも、そこに残った。
建具が割れた家が一軒あった。
古い木戸の一部が外れ、内側に倒れ込んでいる。
住人は無事だった。怪我もない。
ただ、戸は元に戻らなかった。誰も直そうとしなかった。
監督官は、空を見ていた。
雲の動きが早い。だが、風はない。
報告書に書くには曖昧すぎる。数値に落とすには、理由が足りなかった。
監督官は記録を保留し、周囲に注意を促すだけに留めた。
その時点では、誰も「衝突」という言葉を思い浮かべていない。
――天界。
干渉制限の調整が行われていた。
境界の歪みは検知されている。だが、数値は許容範囲内だった。
最小介入で十分。そう判断され、手順どおりに処理が進められる。
修正は、静かに行われた。
力は抑えられ、影響は局所に留められるはずだった。
記録上、その操作に問題はない。規定どおりであり、裁定に該当するほどの事象でもない。
誰も、地上の石を思い浮かべなかった。
――魔界。
境界の動きは、違和感として伝わっていた。
不安定だが、危険ではない。だが、試す価値はある。
威嚇と呼ぶには弱く、確認と呼ぶには強い。
そんな動きが、一度だけ行われる。
狙いはない。
対象も定めない。
ただ、反応を見るための接触だった。
その結果が、どこに現れるかは、誰も確かめていなかった。
――地上。
揺れは収まった。
人々は動き出し、通りは元のざわめきを取り戻す。
落ちた石はそのまま残り、割れた建具の前を、誰かが避けて通った。
破片が、路地の隅に集まっている。
拾う者はいない。片付ける理由も、急ぐ必要もなかった。
ただ、そこにある。
誰の攻撃でもない。
誰の判断でもない。
それでも、三つの世界の距離は、ほんのわずかに、だが確かに変わっていた。
戻すための手順は、まだ用意されていない。
そしてその事実を、まだ誰も、問題だとは呼んでいなかった。




