第94話
最初に異変を検知したのは、天界だった。
「……誤差?」
観測盤の光が、わずかに揺れる。
数値は正常。
理論も崩れていない。
補正値も、想定の範囲内。
それでも――合わない。
「境界層に、偏りが生じています」
報告は淡々としていた。
危機を示す言葉は、どこにもない。
警告音も、発令条件には達していない。
ただ、定義できない“ズレ”だけがある。
「観測誤差では?」
「複数系統で確認済みです」
短いやり取り。
結論は、出ない。
“異常ではないが、正常とも言えない”。
その状態が、保留されたまま残る。
――同時刻、地上。
「気のせいだと思うが……」
ミラは、窓の外を見ていた。
空は、いつもと同じ色。
雲の流れも、変わらない。
街の音も、普段通りだ。
なのに、距離感が狂う。
近いはずの建物が、妙に遠い。
歩幅は変えていないのに、進みが遅い。
一歩の重さが、昨日と違う。
扉の位置が、わずかにずれている気がした。
昨日、触れたはずの壁が、指先に届かない。
「……境目が、曖昧になってる」
誰かが、そう呟いた。
誰だったのかは、分からない。
その言葉は、空気に溶けて消える。
証拠はない。
説明もできない。
ただ、前と同じではない、という感覚だけが残る。
魔界では、それを歪みとは呼ばなかった。
「揃ってきたね」
イグニス=ラ=ヴェルは、軽く言う。
指先で、何もない空間を弾いた。
「観測されて、
触れられて、
意味が置かれた」
彼は、境界を越えない。
触れもしない。
命令も、契約も、必要ない。
それでも、反応は起きている。
天界は、判断を保留したまま様子を見る。
地上は、範囲を広げて守ろうとする。
正しさが、少しずつ重なる。
レイは、その中心にいた。
何もしていない。
何も選んでいない。
それでも、空気が変わったことは分かる。
視線が、重い。
距離が、近い。
気配が、皮膚の内側に染み込んでくる。
見られている、という感覚が、
いつの間にか、触れられているものに近づいていた。
「……もう」
小さく、息を吐く。
「見られるだけじゃ、終わらない」
返事はない。
ただ、
戻らない感覚だけが、そこに残っていた。




