第93話
噂は、最初からあった。
正体不明の存在が、どこかで保護されている。
力を隠しているらしい。
いずれ、何かが起きる。
誰も断定はしない。
ただ、口にする。
魔界は、それを聞いていた。
「面白くないね」
イグニス=ラ=ヴェルは、指先で宙をなぞる。
何かを描くでもなく、ただ、なぞる。
「待っても、何も動かない。
話し合いは、綺麗に終わった」
少し間を置く。
「だから――少しだけ、足そう」
彼は、力を振るわない。
命令もしない。
契約も、結ばない。
ただ、“起こり得ること”を、
“起きたこと”の手前に置く。
場所は、小さな町だった。
街道沿いの、ありふれた宿。
人の出入りも多く、記録には残らない。
夜更け。
裏口で、物音がした。
誰かが扉を開けようとして、
足を滑らせる。
転倒。
打撲。
それだけだ。
だが、倒れた先が悪かった。
積まれていた荷が崩れ、
木箱が割れ、
中身が床に散らばる。
酒瓶。
破片。
赤い染み。
「……っ!」
大事には至らない。
命もある。
傷も、いずれ塞がる。
それでも――
「見たか?」
「今の、変じゃなかったか」
「近くに、あの噂の……」
言葉が、つながる。
偶然と噂が、
ひとつの形を持ち始める。
翌朝。
話は、少しだけ形を変えて広がる。
「怪我人が出た」
「力の余波だ」
「管理が甘いからだ」
誰も、嘘は言っていない。
ただ、選ばなかった部分があるだけだ。
天界は、すぐに反応した。
「兆候あり」
短い報告。
感情は、含まれない。
地上も、動かざるを得ない。
「想定内だ」
「だから管理が必要だった」
「判断は、誤っていない」
言葉が、重なっていく。
イグニスは、それを遠くから見ていた。
「……ほら」
声は、小さい。
彼は、レイを見ない。
見る必要が、なかった。
この一手は、
誰かに選ばせるためのものではない。
止まっていた流れに、
わずかな角度をつけただけだ。
世界は、静かに傾く。
まだ、戦っていない。
まだ、裁いてもいない。
それでも――
“何かが起きた”という事実だけが、
その場に残った。
それは、
簡単には消えない。




