第9話
目を開けると、世界が少し近かった。
霧は、昨日と同じくらい濃い。
木も、地面も、変わらない。
なのに――。
「……へん……」
声が、自然に漏れた。
枝が、どこかで軋む。
風が、流れを変える。
音として届く前に、
胸の奥が、先に反応する。
気持ち悪い。
でも、怖いとは違う。
ゆっくり、立ち上がる。
体は、昨日より楽だった。
完全じゃない。
それでも、
倒れそうな感じはない。
「……ぐらど……」
名を呼ぶと、
少し離れた場所で振り返る影。
「気づいたか」
「……なんか……みえる……」
否定は、ない。
霧の向こう。
木の根元。
小さな影。
昨日までなら、
気配としても分からなかった距離。
「……あそこ……」
目が、細められる。
「見えているな」
「……こわく……ない……」
逃げたい感じが、ない。
それが、不思議だった。
「それが、印の影響だ」
「……いん……?」
「拒まれていない者には、
森の中の“ずれ”が見える」
ずれ。
言葉が、胸に残る。
「……じゃあ……ぼくは……」
「今は、違う」
短い。
だが、と続く。
「完全に、森でもない」
どちらでもない。
その感覚が、しっくりきた。
小さな影は、
こちらを見ている。
近づかない。
離れもしない。
ただ、そこにある。
「……なに……?」
「森のものだ」
「……まもの……?」
「人の基準ではな」
しばらく、見つめる。
胸の奥が、静かだ。
前みたいに、ざわつかない。
「……らく……」
「流れが、整っただけだ」
地面に、視線が落ちる。
「力が増えたわけじゃない」
「……じゃあ……」
「使えば、同じように倒れる」
少し残念で、
でも、納得もした。
なんでもできるわけじゃない。
それが、怖くなかった。
「……でも……」
言葉を探す。
「……いき……てる……かんじ……」
少しの沈黙。
「それが、代償だ」
胸が、きゅっと縮む。
「……だいしょう……?」
「近づいたということは」
一拍。
「縛られた、ということだ」
足元を見る。
土。
落ち葉。
根。
触れていないのに、
近い。
「……でられ……ない……?」
「今すぐではない」
だが。
「印を持つ限り、
森は、お前を離さない」
怖い。
それでも。
処刑台よりは、
ずっといい。
「……ここ……
きらいじゃ……ない……」
小さく、零れた本音。
一瞬だけ、
目が開かれる。
何も言わず、
前を向く。
そのとき。
遠くで、
木が軋んだ。
低く。
重い。
今までとは、違う。
胸の奥が、ひくりと跳ねる。
「……また……」
「違う」
視線が、森の奥へ向く。
「今度は――
古い」
霧が、ゆっくり動く。
道のように。
意志を持つみたいに。
知らず、
拳を握る。
守られるだけの時間は、
終わりに近い。
胸の奥で、
印が、静かに脈打っていた。




