第66話 隠し事
冬の舞踏会の日。
空は快晴で、雪はもう止んでいた。地面には雪が降り積もっていたが、馬車道は除雪されている。
すっかり支度を終えたリシェリアは、ヴィクトルと一緒にオゼリエ家の馬車で学園に向かっていた。
窓の外の世界は白い。路肩のまだ誰も踏み入れていない雪に足を突っ込んだ子供が、キャッキャと楽しそうに笑っている。
その様子を眺めながら、リシェリアは向かいの座席に座っているヴィクトルに問いかけた。
「ヴィクトルも討伐訓練に参加するのよね」
「そうだけど、どうしたの?」
舞踏会の翌々日――つまり明後日には、希望者による討伐訓練が始まる。
それにヴィクトルも参加することが決まっている。ちなみにルーカスも。
「……魔物と戦うことが怖くはないの?」
「うーん。怖い、とは思う。実践は初めてだからさ。……でも、持って生まれた力だけじゃなくて、自分の培ってきたこの力で、どこまで戦えるのかが知りたいと思ったんだ」
そう口にするヴィクトルは、意志のこもった瞳で前を見据えている。その瞳は自分の思い描く未来を見ているようでもある。
ゲームとは違い、ヴィクトルは変わった。それもいい方に。
(それなら、私は?)
悪役令嬢に転生して、死にたくなくて自分の姿を偽った。
その結果かわからないけれど、ルーカスのリシェリアに対する態度も少し変わった。
どうして彼がリシェリアのことを気にかけるのかはわからない。リシェリアは彼から逃げてばかりいるのに。
「着いたようだよ」
ヴィクトルの声で我に返ると、もうすでに校門の前だった。
「どうやらお待ちかねみたいだね」
ヴィクトルの言葉に困惑しながらも、窓から馬車の外を見る。
そこにはルーカスが立っていた。正装をしたルーカスは、いつもの学生服とは雰囲気が違って見える。
雪の季節にお似合いな純白のタキシードは、彼の魅力を最大限に引き出していて、窓越しに眺めるだけで心臓が高鳴った。。
(いまから、私は彼の横に立つんだ)
きっと自分はルーカスに相応しくない。
この地味な見た目だけが問題ではない。
ルーカスと婚約してから、リシェリアはずっと彼に隠し事をしているのだから。
◇
会場の大広間にルーカスと一緒に入る。多くの視線が突き刺さってくるのは、ルーカスが隣にいるからだろう。
会場内の視線を独り占めしているルーカスはそんな視線をものともしないで、堂々とした振る舞いだ。
学年を問わず多くの生徒が集まり、楽団員による演奏が会場に響き渡る。舞踏会の始まりだ。
まずはパートナーがいる生徒たちがダンスを踊り、その後は各々好きな相手と踊る。
リシェリアのパートナーはルーカスだ。ゆったりとしながらもリズム感のある音楽とともに、一緒にステップを踏んでいた。
距離が近くなると心臓がうるさくなり、離れるとどこか心細さを覚える。その距離間に、悩まされる。
一曲目のダンスが終わり、お互いに礼をしたあと、ルーカスが口を開いた。
「話をしたい」
ルーカスの案内で、リシェリアは人気のないテラスに出た。
テラスから一望できるのは、白い雪の景色。
本来は寒いはずなのに、寒さを感じない。温度を調節する魔法でもかけられているのだろう。もしかしたら元からテラスで話をするつもりで、用意していたのかもしれない。
いったい、ルーカスの話とはい何なのだろうか。
ルーカスはいつもよりも真剣な顔をしている。それになぜか胸が苦しくなる。
舞踏会が始まって、まだ一曲しか踊っていない。
隔てられたテラスの扉のせいで、音楽もまともに聞こえてこない。こんな人気のない場所にまで呼び出してする話となれば、ひとつしか思い浮かばない。
(もしかして、婚約破棄? それとも解消?)
ゲームのシナリオを考えると、タイミングが早い。
だけどリシェリアはずっとルーカスから逃げ続けてきた。
彼の言動には惑わされたりしたけれど、そんなリシェリアに本当に愛想をつかしてしまい、はやく関係を終わらせたいと考えているのかもしれない。
断罪を開始するためには円満にルーカスとの婚約を解消するのが一番だと思っていた。
だからなるべく目立たないように地味で地味な格好をしてきたのだ。
(どちらにしても、ずっと願っていたことだわ)
「リシェリア」
淡々とした呼び声に、決意をもって顔を上げる。
エメラルドの瞳は、真剣にこちらを見ていた。
きゅっと、リシェリアは下唇を噛む。
「ずっと考えてきたんだ。リシェリアにどう伝えればいいのだろうって」
(ああ、やっぱり、そうなのね……)
「でも、おれは、自分の気持ちの伝え方が、うまくわからないんだ」
ゲームでもそうだったから、よく知っている。
【氷の王太子】。そう呼ばれている彼の感情を溶かしたヒロインに、笑顔をはじめとしたさまざまな感情を向ける。
初めて自覚した自分の感情を、ルーカスは上手く扱えないでいた。不器用ながらもよく考えて感情を伝えてくれる。その姿を、愛おしく思ったのだ。
ルーカスが伝えようとしていることもよくわかっている。
それなら彼が伝えやすいようにしよう。
そう思ってリシェリアは口を開いた。
「リシェリアは、おれは君のことが……」
「わかりました。婚約解消しましょう」
音を置き去りにしたような沈黙。
緊張しながら、彼の返答を待つ。
その静寂を破ったのは、ルーカスの声だった。
「なにを言っているんだ?」
ひんやりとした声に、顔を上げる。
エメラルドの瞳はじっとリシェリアを見つめている。その眉間の皺がなぜか不愉快そうに寄せられている。
(……この顔は――)
あの図書室でのことを思い出す。
「婚約解消」という言葉を誤ってルーカスに聞かれてしまい、唇を奪われることになった、あの日を。
これは、あの日の再来のようだった。
ルーカスが近づいてくる。
「おれは、君と婚約解消なんてしない。そう伝えたはずだ」
ゴクリと喉が鳴る。
「それなら、破棄を……?」
「破棄もするはずないだろう。だって、おれは……ずっと、リシェリアのことを愛しているのだから」
「あいしている?」
思考が止まる。ルーカスの言っていることが一瞬、理解できなかった。
「おれは、あの日――お母様の葬式の時から、ずっと君に惹かれている」
ますます理解できない言葉。
ルーカスがリシェリアのことを愛しているなんて。
そんな夢のようなことが……。
「リシェリアはおれのことなんてなんとも思っていないかもしれない。それでも、おれのなかにはいつも君がいた。……だから、おれの気持ちをもっと知ってほしい」
(これは、夢……? ルーカスが、私のことを……)
嘘だと思うには、エメラルドの瞳は真剣すぎる。
それに、彼のいままでの行いが、彼の言葉を真実たらしめている。
(……ルーカスは、本当に私のことが……)
ルーカスの想いを自覚した瞬間、沸き起こったのは歓びではなくて、もっと胸を震わせるものだった。
例えるなら羞恥心。彼の言葉を受け取るに値しない、自分の愚かさ。
リシェリアは、ずっと彼に隠し事をしている。
その状態で、彼の好意を受け入れていいわけがない。
「いますぐ受け入れてほしいとは思っていない。ただ、知っていてほしいだけなんだ」
リシェリアの手を取り、その指に口付けを落としたルーカスがどんな表情をしていたのか。
なぜだかいまいち記憶に残らなかった。