第60話 ヒロイン
この男がダミアン・ホーリー。
彼がここにいるということは、ミランダの足止めは上手く行かなかったということになる。
「ミランダさんは、どうしたのですか?」
「姉さんでしたら、洗脳をかけ直して部屋で眠ってもらっていますよ。僕の計画を邪魔しようとしたので。……それにしても姉さんの洗脳が解けていたとは予想外でした」
『次にあたしに会ったら、あたしのことは敵だと思ってね』
あの言葉。きっとミランダは自分の身に何が起こるのか理解していたのだろう。
洗脳されたら、また自分の意思では動けなくなる。そうしたらリシェリアたちにとって脅威になるかもしれないから。
(それなのに、この男は)
まるで罪悪感を抱いていないようだ。双子の姉のはずなのに情なんてないかのように。
リシェリアは拳を握りしめる。ミランダのことを助けてあげたい。
だけど、いまリシェリアにできることは限られている。
だからせめて背後のアリナのことだけでもどうにかしたい。
「ダミアン先生。アリナを解放してください」
「いくらオゼリエ嬢のお願いでも、それを聞くことはできません」
「アリナを閉じ込めて、どうするつもりなんですか?」
「それはもちろん、シナリオを進めるんですよ」
「シナリオ?」
一瞬何を言っているのか理解できなかった。でもすぐに思い出した。
ここは、ゲームの世界だ。ゲームにはシナリオがあって、いろいろな分岐をしながらも、エンディングに向かって進んでいく。
もしダミアンが言っているのが、ゲームのシナリオのことなら。
(でも、そうなるとダミアン先生って……)
浮かんだ疑問を口にする前に、ヴィクトルがリシェリアの一歩前に出た。
そこでダミアンは初めてヴィクトルの存在に気づいたようで、白けた顔になる。
「意味の分からないこと言っていないで、アリナさんをすぐに解放してください」
「それはできません」
「それなら。……アリナさん、そこの鍵を取って!」
ヴィクトルが再び鉄格子の向こうにいるアリナに声をかけるが、アリナは無反応だ。声だけではない、存在すら気づいていないかのように。
「呼びかけても無駄ですよ」
「……アリナさんに何をしたの?」
「僕はすこしお手伝いをしようとしただけです。でも、閉じこもっているのは、彼女の意思です」
「どういうこと?」
「実は……」
ダミアンが困ったようにため息を吐く。
「シナリオ通りにするためにアリナさんを洗脳しようとしたら、なぜか反応がなくなってしまって。僕が呼びかけても反応しないんです。もしかしたらもう副作用が出ているのかもと思いましたが、それを調べる前に姉さんに呼ばれたので」
副作用。もしそれが、時戻りの魔法の副作用のことを指すのなら……。
アリナの心は、いま闇に囚われようとしているのだろうか。
「っ、アリナ!」
「アリナさん!」
隣でヴィクトルも呼びかけると、ピクリと体が動いた気がした。
「アリナさん! 僕だよ、ヴィクトルだけど!」
また少し動く。
でもそれだけだった。
背後で、ダミアンがリシェリアにだけ聞こえる声で囁いた。
「姫は、あの子の前世をご存知ですか?」
「っ、やっぱり、あなたも」
「その様子だと知らないようですね。洗脳するとき相手の意識に入り込むことにより、すこし相手のことを知ることができます。その時に見えたのですが、彼女はとてもじゃないけれどヒロインとは異なる境遇を歩んできたみたいです。それに副作用が反応してしまったのでしょう」
アリナの前世。そういえばちゃんと聞いた覚えがない。
知っていることと言えば、リシェリアよりもゲームをやりつくしていたことぐらいだ。
でもその前世と、いまのアリナの状態に関係なんてあるのだろうか。
「彼女を連れ戻すことができるのは、きっと姫ではないでしょうね」
ダミアンはリシェリアから視線を逸らすと、ヴィクトルを見た。
その赤い瞳が怪しく輝いているように見えて、リシェリアはすぐに目を逸らす。
◆◇◆
『僕に任せてください。僕の力なら、あなたの不安を取り除いて、あなたをヒロインにしてあげることができます』
ダミアンのその言葉を耳にした瞬間、襲ってきたのは不安だった。
自分はヒロインになれない。
それはなによりもアリナ自身が知っていることだ。
いくら洗脳で刷り込まれようと、その部分にだけは抗ってしまう。
特に、前世の記憶を思い出したいまだと、なおさら。
「……アリナさん、聞こえていますか?」
口が思うように動かない。なぜか体まで抗っているかのようだった。
それを見たダミアンがため息を吐く。
「やはり、ヒロインの資格がないようですね。……これはもう、はやくシナリオを終わらせたほうが……」
ブツブツ呟き始めたダミアンは、すでにアリナのことを見ていなかった。
アリナはそっと視線を下に向ける。ふと爪が目に入って、それを思わず口に持っていく。爪を噛もうとして、でもヒロインはそんなことしないと押しとどまる。
その時、部屋の中に誰かが入ってきた。甘い女性の声とダミアンが会話していたかと思うと、ふと声が途切れた。
鉄格子の向こうにさっきまでいたはずのダミアンの姿がない。
部屋の電気が消える。
その瞬間、収まったかと思っていた不安が一気に押し寄せてくる。
暗い部屋。まるで前世の部屋のようだ。
あのジメジメとしていて、押しつぶされるような不安のなか、自己嫌悪しながらも閉じこもっていることしかできなかったところ。
まるで闇の中のようで――。
ふと、ゲームの内容を思い出した。
【時戻り】の魔法を使いすぎたことにより、ヒロインは闇に囚われそうになる。
その時、好感度の高い攻略対象との真実の愛により、ヒロインはそれに打ち勝つことができる。
もしかしていまのこの状況は、それと同じなのではないだろうか。
アリナはすでに二回も時戻りの魔法を使っている。副作用が出るのはまだ早いけれど、闇に染まり始めていてもおかしくはない。
だけど転生してから、アリナはゲームのシナリオを進めていない。
誰の好感度も上げていないから、きっと誰もアリナを助けにこないはずだ。
そう考えた瞬間、胸の内側に痛みを感じた。
目の前が、暗く染まったかのようだった。
それからどれだけの時間が経ったのか。
どこからか聞こえてきた声に、ふと指先が反応する。
「アリナさん! 僕だよ、ヴィクトルだけど!」
その名前を耳にした途端、身体が動いた気がした。
「アリナさん、僕の声を聞いて」
(……ヴィクトル様)
ゲームでは自己評価が低く、常に前髪で顔を隠していた推しキャラ。
そんなヴィクトルがヒロインに救われて、前を向いていくストーリーが好きだった。
「だけど、私はヒロインにはなれない……」
ふと口から出た言葉に、さらに気落ちする。
ヒロインとアリナの性格はあまりにも違いすぎる。ヒロインのように真っ直ぐな性格をしていたら、前世であんな失敗はしなかっただろうし、自己嫌悪に陥ることもなかっただろう。
ヒロインや、ヴィクトルのように変われたら。
そう願ったこともあるけど。
「……私は、変われない」
「ヒロインが何なのかはわからないけれど、アリナさんは変わりたいの?」
すこし迷い、頷く。
少なくとも自己嫌悪してしまう、こんな自分なんて嫌だから。
「変わりたいけど、変われないってことか」
ヴィクトルのため息が聞こえてきた。
「……それはわかるなぁ。僕も、昔はそうだったから」
両親から瞳が気持ち悪いと言われ続けて、自信を失ったヴィクトル。
彼は他の人から嫌われるのが嫌で、自分の瞳を隠していた時期があった。
「だけど、オゼリエ家の養子になって、リシェにこの瞳を褒められたんだ。『隠す必要はないの』とか『本当のあなたを見せて』とか言われてね。――それまでは、自分は一生、俯いたまま生きていくものだと思っていたけどさ」
リシェリアは、アリナと同じ転生者だ。ゲームの悪役令嬢とは随分と違っている。それなのに自分がゲーム通りに死ぬかもとかルーカスから好かれているわけがないとか、少し思い込みの激しいところがあるけれど、アリナにとっては転生してからの初めての友達だ。そして真っ直ぐな瞳の人。
「……まあ、当の本人は自分の姿を隠しているんだけど。それは置いておいて。何が言いたいのかというと、僕は昔の嫌な自分を捨てて変わることができた。だからきっと、アリナさんも変わろうと思えば、変われるはずさ。なんなら僕だって手伝うし」
ほんとうに、自分は変われるのだろうか。
ヴィクトルみたいに、自分に自信が持てるのだろうか。
「まあ、でも僕としては、いまのアリナさんのままでもいいと思うけどさ」
「……っ、でも、いまのままだとダメだから……」
「なにがダメなの?」
「……え?」
「誰かにそう言われたの?」
誰かに言われたわけではない。
だけどこの体はこの世界のヒロインのもので、アリナはそれに相応しくないと思っていた。だから代わりのヒロインを探して……。
――ああ、でもここはゲームの世界だけど、現実だ。
ヒロインとか悪役令嬢とか、攻略対象とかは関係ないはずで……。
「誰にも言われていないのなら、いいんじゃない。アリナさんは、アリナさんのままで」
「私は、私のまま」
「うん。ヒロインになる必要なんて、ないと思うよ」
(ヒロインになる必要はない。……そうか。そうなんだ)
アリナはヒロインにはなれないけれど、いまの自分を受け入れてくれる人がいるのなら……。
目の前の闇が晴れていく。
その先にいたのは、金色の瞳を隠すことなく、真っ直ぐこちらを見るヴィクトルの姿だった。