プロローグ カレーが生んだ復讐心!
「ママ、なんで泣いてるの?」
澄んだ緑色の目をした少年は、困惑した様子で、隣に座っているブロンドの髪の白人女性に訊いた。
時間は真夜中。タクシーの車内。
ラジオからは、ユーゴスラビアで開催されているという、冬季オリンピックの中継が流れていた。
この日の都心近郊の天気は、珍しく大雪。
除雪された車道の脇には、10数センチの高さまで雪が積もっていた。
エンジン音を響かせて走るタクシーの窓には、降りしきる雪が、へばりつくように当たってきていた。
「……」
少年の問いかけに、女性は何も答えず、ただ嗚咽し続けていた。
両手を顔で覆っていて、その顔はよく見えなかった。
しかし、その手の隙間からは、涙に濡れた、少年と同じ緑色の目が見えた。
「電話で、パパのこと話してたけど、何かあったの? カレー対決では、負けちゃったけどさ」
少年が言っているのは、この日の夜にテレビ中継されていた、料理人どうしのカレー対決のことだった。
彼がパパと呼ぶ男性は、この対決に出場しており、残念ながら、決勝戦で相手の料理人に敗北していたのだ。
「……」
しかし、そんな少年の問いかけにも、女性は答えず、嗚咽を続けていた。
「ママ……」
何かただならぬことが起きたのだ。
少年は、子供なりにそれ察して、それ以上訊くのをやめた。
しばらくすると、タクシーはとある総合病院の裏口に到着した。
出入口の扉と、守衛室のみが明かりで照らされており、その他は真っ暗であったため、異様な雰囲気に包まれていた。
「ここで、待ってて」
女性は、少年を車内に残したままタクシーを降りると、守衛室へと向かった。
やがて、かなりの年と思われる男性守衛がそこから出てきて、女性とともに少年に近づいてきた。
「先生たちから、お話を聞いています。こちらへどうぞ」
守衛は事情を知っている様子であり、少年と女性を裏口へと先導した。
今何が起こっていて、自分はなぜ病院に連れてこられたのか。少年はこのとき、さっぱり状況が呑み込めていなかった。
薄暗い病院内が、彼の不安をさらに大きくしていった。
* * *
少年と女性が連れてこられたのは、病院の地下にある、隔離された部屋だった。
廊下は、非常口を示すライト以外は明かりが消されており、ほとんど視界が効かない状況だった。
部屋の前に到着すると、すりガラスの窓がある扉の横で、女性看護師が立っていた。
暗いせいで、その表情は、よく読み取れない。
「……さんですね。お待ちしておりました」
女性看護師は、扉を開けて、病室の中へと女性を招き入れた。
少年は、彼女についていこうとした。
しかし――。
「少しだけここで、おじさんと待っていなさい」
守衛の引き留めにより、部屋に立ち入ることができなかった。
(この部屋に、パパがいるのかな?)
少年は、背伸びしながら、病室の中をうかがおうとした。
しかし、病室の扉は固く閉ざされており、背伸びして届いた窓もすりガラスだったため、なかなか中の様子がどうなっているのかわからなかった。
しばらくすると、扉が勢いよく開いた。
女性が、うつむいたまま飛び出してきていた。
先ほどまで、嗚咽し続けていた彼女だったが、何かしらの覚悟を決めたのか、落ち着きを取り戻していた。
「ママ。ここにパパがいるの?」
「……」
「ママ?」
少年の二度の呼びかけに、女性はようやく顔を上げ、しゃがんで彼と向き合った。
涙は止まっていたものの、その目が真っ赤に充血しているのが、暗がりの中でもはっきりと分かった。
「パパと……お別れしようか」
女性は立ち上がり、少年の手を引いて、病室の中へ再び入っていった。
何が何だかよくわかっていなかった少年だったが、病室に入った途端、女性の言葉が何を意味していたのかを理解した。
今にも切れそうな白熱灯に照らされた室内には、ベッドが一つ置かれており、布団にくるまった人間が一人、横たわっていた。
顔には、白い布がかけられていた。
ベッドの周りには、白衣を着た小柄な医師一人と、先ほどの看護師が、ベッドを見つめながら立っていた。
「あ……あ……」
少年は、ベッドに近づき、布団の脇から出ている左腕をつかんだ。
その腕は、既に冷たくなっていた。
「ママ、お医者さんとお話があるから、ちょっとの間、パパにバイバイしてようね」
女性は医師とともに、部屋の隅へと向かった。
このあとの、女性と医師の会話について、少年はよく覚えていない。
彼は幼く、また父の死に激しく動揺していたため、聞き耳を立てる余裕がなかったのだ。
だが、二人の会話の内容は、断片的に彼の耳に残っていた。
「自動車事故、即死です。ハンドルを切り損ねて、崖下に転落されたようです」
「雄吉さん――夫は普段、運転でミスをするような人では……」
「自動車の運転は、運転者の状態に左右されます。極度の疲労や、精神的に強いショックを受けるようなことがあったのでは?」
「疲労とショック……」
少年が覚えている二人の会話は、この部分のみであった。
極度の疲労と精神的に強いショック。
父親がそうしたものを抱えていた理由が、この直前やっていたカレー対決にあるのではないかという想像は、少年にも容易にすることができた。
(カレー対決のせいだ。あの、カレー対決の……!)
少年は、父親の左腕を力強くつかみ、昨夜テレビで見た、カレー対決の様子を思い出していた。
カレー対決の決勝戦。番組終了まであと5分。
出席者から賞賛を受け、賞金と症状を受け取る、対戦相手だった勝者の姿。
対して、敗北し、設置されていたキッチン台に両手をついて、肩を震わせて悔しがる父親――雄吉の姿。
このときから、少年にとって、勝者となった対戦相手は、父親の命を奪った仇のような存在になった。
また、彼にとってカレーは、その仇討ちための道具へと変化した。
父親がすべてを賭け、そして父親の死の原因にもつながったこのカレーで、いつの日か必ず、対戦相手に復讐してみせる。
少年はそう心に誓った。
そして、40年もの歳月が流れた――。
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