難儀な恋路の一歩手前
※この作品はフィクションであり、実在する一切とは無関係です。また、政治的宗教的意味合いもございません。あしからず。
かつて私は、彼女をいつも「お嬢様」と呼んでいた。
本名で呼ぶのがはばかられるからではなく、それが使用人として自然のことだったからだ。
*
十年前、私はフランス人ながら、カサブランカの屋敷で住み込んでいた。
アラビア語も理解できなければ、イスラム教徒でもなかった私にとって、人生初のモロッコ生活は毎日が発見の連続だった。
「パリから来た若者というのは、君かね?」
「はい。レオンといいます。よろしくお願いします」
「屋敷内の植物を管理しているアッバスだ、よろしく。さて、早速だが、ここでの仕事のいろはを覚えてもらおうか。……いや、邪魔な荷物を置くのが先だな。君の部屋は、こっちだ。ついておいで」
「あっ、はい」
アッバスさんは、モロッコ独立前にマルセイユで働いていたことがあるらしく、フランス語も堪能だった。
敷地内には中庭の他に温室があり、そこにはパリの花屋でもおなじみの植物から一風変わった植物まで、多種多様な草花が栽培されていた。
私が好奇心に任せて見回していると、アッバスさんから最初のミッションを言い渡された。
「手始めに、パリの花屋に勤めていたという君の審美眼を試させてもらうよ。ここにある植物を好きに使って、そこの花瓶を思うままに彩ってごらん」
「了解です。どの花を摘んでもいいんですね?」
「ああ、いいとも。もうすぐ正午になるから僕は少し席を外すが、君は作業を始めていてくれ」
「はい」
アッバスさんは屋敷の中で一番聖地に近い部屋へと向かって行った。
温室に残された私は、美麗でしょう、素敵でしょうと胸を張っているかのように咲き乱れる面々に注目することにした。
折しも時期は、七月の花盛り。
選択肢の多さに迷っていると、一輪の真っ白な花が目に留まった。
その花の名は、街の名と同じカサブランカ。
ユリの仲間で、活けるときは、花粉が飛ぶ前におしべを切り落としておく必要がある。
そうしないと、せっかくの白い花弁に斑点がついてしまい、見栄えが悪くなるからだ。
私は、女王のように誇らしくたたずむそれを注意深く摘み取り、花瓶の中心に据えてみた。
幾何学模様の花瓶に収まるカサブランカは、玉座に腰を下ろしたような風格と安定感を備えているように見えた。
しかし、女王ひとりでは物足りないので、より白さが映えるよう、周囲を緑が鮮やかな草葉で囲ってみる。
これで、キャンバスを華やかにする額縁も決定。
あとは背景として、同系色のジャスミンの花も添えることにしよう。
ちょうど完成したとき、タイミングよくアッバスさんが礼拝から戻ってきた。
どんなコメントが返ってくるかとドキドキしていると、アッバスさんはしばし無言でしげしげと観察したあと、ハマムに持っていくぞとだけ告げ、花瓶を台車に乗せて移動させはじめた。
良いとも悪いとも、何点だとも評価されないことにモヤモヤしつつも、私はアッバスさんの背中を追った。
ちなみにハマムとは、厳密には違いがあるものの、おおよそサウナのような設備だと把握してもらえれば差し支えない。
温室を出て中庭の端を横切り、通用口から屋敷内に入り、旦那様たちの部屋を避けるよう遠回りしながらハマムに向かった。
ハマムの出入口は男女別に二つ並んでいて、花瓶は二つの出入口の間の壁際に境界のように置かれている飾り台の上に据えられた。
ここでも、何の説明もないままだった。
大きくうなずいたアッバスさんは、私のほうを向いてこの調子で来月も任せたとだけ告げ、空の台車を押して来た道を戻っていった。
*
アッバスさんの意図が判明したのは、それから更に月日が経ち、モロッコで三度目の夏を迎えたときだった。
この頃には、日常会話レベルのアラビア語を覚え、中庭の草花の手入れや温室の植物の管理などの仕事も板につき始めていた。
自然が相手なので、思い通りにならないことや面倒くさいことも多々あるのだが、同時に面白みもわかってきたところだった。
旦那様と、あるいはアッバスさんをはじめとする使用人たちとの関係も、徐々に距離感がつかめてきていた。
もはや毎月恒例のイベントと化していたハマム生け花を済ませた私は、厨房の隅で食事をしていた。
ホブスと呼ばれるパンに野菜炒めを挟んでは口に運んでを繰り返していると、アッバスさんから呼び出された。
私はかじりかけのホブスを口に押し込み、廊下に立っているアッバスさんのそばに駆け寄った。
アッバスさんは、泥はねやトマトソースの跡が残っている私のシャツを見ながら、旦那様がお呼びだから、すぐ着替えてくるようにと言った。
「旦那様。レオンを連れてまいりました」
「ご苦労、アッバス。あとは、二人きりで話したいんだ。席を外してくれるか?」
「承知いたしました」
「……さて、レオンよ。そんなところに立っていないで、そこへ腰かけなさい」
何か粗相をやらかしただろうかと脳内で記憶をたどりつつ、おずおずとソファの端に座った。
ここで、ちょっと考えてみてほしい。
貫禄たっぷりの中年男性が、にこにこと笑みをたたえてこちらを見ている姿を。
正直、怒っているぞとばかりに眉間にしわを寄せているよりも、何倍もそらおそろしさを感じる。
「君の働きぶりは、アッバスから聞いている。それに、ハマムの前に飾っている花を見ても、仕事の手を抜いていないことが分かろうというものだ。いやぁ、フランスの若者だから、すぐストライキやデモを始めるんじゃないかと思っていたんだがね。はっはっは」
「……ありがとうございます」
リアクションに困るジョークをスルーしつつ、私は賞賛からどこまで突き落とされるのかと身構えた。
しかし、旦那様の口から飛び出してきたのは、まったく予想もしていない言葉だった。
「それで、お話というのは?」
「実は、そのうちパリに新しくオフィスを設けようと考えていてね。君には、そこの支店長を任せたいのだが、どうだろうか? 有能な指南役と秘書もつける」
「待ってください。ろくに会社勤めをしたことがない私に、そんな大役が務まるとは思えません」
「まぁまぁ、そう難しく考えることはない。住み慣れたパリに戻れるし、オフィスも小規模にまとめる予定だから、なんとかやっていけるはずだ。悪い話ではないと思うんだが、いかがかな?」
これは、文法的には疑問形だが、決して質問ではない。
パリの花屋で見かけた私を雇い入れた時点から、旦那様は私を未来の支社長候補として審査していたのだろう。
そして、その裏事情をアッバスさんも知っていたはずだ。
そう考えれば、活けた花に対してノーコメントを貫いてきたことにも、それなりの理屈が通る。
「……わかりました」
「そうか、わかってくれるか! よしよし。それでは、次の話題に移ろう」
「まさか、また別の大役を任されるのでしょうか?」
「いやいや、ビジネスの話は終わりだ。ここからは、プライべートな話になる。引き受けてくれると助かるという点では、同じだがね」
「その、プライベートなお話、というと?」
「何を隠そう、わが愛娘ヤスミンのことだ。これは娘に限らず、最近の若い女性に多い話なのだが、どうもこの国の男女を区別する在り方に不満があり、できれば海外で暮らしたいと考えていてな。花の都パリで生活できたら、なんて素晴らしいだろうとまで言っている」
「……まさか、結婚してパリで一緒に暮らせというおつもりですか?」
「はっはっは、そういう話ではない。ただ、娘がパリから来た君に好感を持っているのは、否定できないところでね……」
父親として愛する娘の意見を無視できないが、同時に自国の文化になじんでほしいという思いも強く、頭を悩ませているのだという。
そこで考えついた案というのが、私をパリに戻し、現地のリアルな日常をデメリットもろとも包み隠さず伝えれば、諦めもつくのではないかというもの。
「つまり私は、日常茶飯事をつぶさに書き記したレポートを、月に一度ほど旦那様に送ればよろしいのですね?」
「そういうことだ。なるべく脚色なく書いてくれると嬉しい。ほめそやすだけなら、観光誘致のパンフレットと大差なくなってしまうからな」
パリ暮らしが楽しいことばかりでないことはよく覚えていたので、たやすいミッションだと思った。
これがたやすくないばかりか、予想外の結末に導く引き金になってしまったとあわてるのは、パリで働き始めてからのことになる。
*
長くなってきたので、そろそろ結果をまとめよう。
私のパリ生活の現実ありのままレポートは、旦那様の予想とは裏腹に、お嬢様のパリへの憧れをより強めてしまった。
そして、お嬢様は大胆にも幾多の障壁を乗り越え、ついには私に会いにパリまで来てしまう。
だが、その話をはじめると大長編になってしまうので、それはまた別に機会にしよう。
ひとまず今は、これが私とお嬢様の難儀な恋路の第一歩だったと記したところで、筆を止めておく。