天生樹
今までネストで休むからといって都市の人間は別段生活に変化はなかった。
しかし、タイチにとっては今大きな意味を持っている。
カルガが大きな緑の葉の上に身体を乗せると、軽い震動がカルガから伝わる。
葉との距離は既に30メートルを切っていた。
カルガが葉の上を歩き、身体が上下するときの最下点でノアは無言で飛び降りた。
そして見上げるようにしてタイチを見つめる。
新しい世界に踏み出す緊張と興奮を手の汗として握りながら、タイチも葉の上に飛び降りた。
葉に触れたときの質感は龍地とは全く異なっている。
どこか瑞々しく湿り気を帯びている。
タイチはノアの後を追い、急いで腹部に押しつぶされないように移動した。
カルガはゆったりと身を葉に沈め、身体を休めている。
カルガが身体を休めている高さは雲海の上辺りだった。
時折、白い靄のようなものがタイチの周りに漂っている。
葉の下を恐る恐る眺めると、黒いうねりがより一層鮮明に見える。
「タイチ、速く擬薬を呑んで」
ノアの注意で直ぐ様擬薬を複数口に放り込んだ。
後は何とかゼノアに気付かれないように、別の龍を待つだけだった。
タイチとノアは黒い物体が蠢いているゼノアを避けるようにして、大樹の葉の付け根に歩みを進めた。
そして、首を折るように傾ける。
天に腕を広げるようにして天生樹の枝や葉が編み目のように広がっている。
まるで繭のように頭上を覆い、雨よけになっているみたいだった。
枝になっている赤い物体が万物の果実だろう。
「上に行くほどゼノアの数は多い。だからこの辺で待つのが良い」
ノアとタイチは腰を下ろし、別の龍がネストで休憩するのを再び待つ。
問題はタイチの擬薬と偽擬薬の数が持つかだった。
なるべくゼノア化しないように偽擬薬を多めに呑んでいきたいが、服用する量が少ないとゼノアに気付かれるかもしれないというジレンマがあった。
時折横を不気味な姿で通り過ぎるゼノアには肝を冷やした。
段々とやることがなくなり、筺の転位の位置を確認するために舞を踊っていると、ノアがタイチを見続けていることに気付く。
ノアはちらちらと視線が合うのも気にせず、タイチを見つめ続ける。
どうにも気恥ずかしくなり、タイチは舞をやめて言った。
「何だよ、こっちばっかり見るんじゃねぇよ」
「タイチ……手貸して」
ノアに言われるがままに、タイチが指を差し出すと、ノアはそのまま小ぶりな唇でそれをくわえ込んだ。そしてちろちろと指を舐める。
「ほぁ!? てめぇ何しやがる!」
とりあえず、ノアの頭をぶっ叩き、指を引っこ抜く。
叩かれても尚ノアは純粋な瞳でタイチの瞳を覗き込む。
何だか自分が悪いことをした気分だ。
「言われた通り、人を観察してる。それだけじゃわからないから指を舐めた。だめ?」
「ダメに決まってんだろ。指を舐めて何がわかるんだよ」
「味がわかれば、タイチがわかる」
「あー違う違う。人を構成物質とかそういうので見るんじゃないんだよ。もっと、人の表情や言葉からその人のことを見ろって言ったんだ。そうすることで相手のことを理解するんだよ、人は」
むぅと小さくノアは唸ってから黙り込んでしまった。
「ノアはもっと自分の心のうちを話せ。黙ってても今までは通じてたんだろうが、今は人と同じだろ? 心のわけのわからないこととかも全部言えよ、教えてやる」
ノアは再び下の葉を見つめて黙りこくった。そこで決然と面を上げると、
「お腹減った」
一体どんな感情が飛び出すかと思っていたのだが、タイチは呆れてしまった。
「またかよ、お前は食いしん坊だな」
タイチが龍肉を取り出して渡してやると、全部食いやがった。
自分の分まで食べられてしまい叱ってやろうと思ったが、ノアの少しだけ幸せそうな表情を見ると怒る気持ちが萎んでしまった。ノアがふと視線を上げてタイチの顔を見るものだから、そんな気持ちを察されたと思った。
「……お前なんか大っ嫌いだよ」
ぶつぶつとタイチが言葉をこぼすとノアは少しだけしょげた声で言う。
「ノアのこと、嫌い……?」
「はぁ? そんなんじゃ、ねぇよ」
「でもタイチそう言った。ノア、ちょっと嫌な気持ちになった」
ノアは瞳を伏せて少しだけ落ち込んだ風に見えた。
自分の複雑な気持ちをどう説明しようかとか、ノアの姿を見て怒りを静めたとか……そんな自分を見せたくなかった。
「ノアのことどうしたら好きになってくれる?」
何だかノアの感情が素直で純粋で、それがタイチには眩しすぎた。
飲み込みは速いようでタイチに言われたとおり、感情を言葉に出し、好きという言葉の意味も間違っていない。
「あぁ、もうわかったよわかった! ノアの姿見てなんか、許してしまった自分が恥ずかしかったんだよ。それでつい、嫌いとか言っちまった。本当は嫌いじゃない! これでいいか? あん?」
ちくしょう。何でこんなこと言ってんだ……。
半ばやけくそ気味だったがタイチは言ってやった。
ノアは全てがまだ理解できていないようだった。
「ノアのこと、嫌いじゃない?」
「あぁ、嫌いじゃない」
それだけでノアは満足したようだった。
ノアはしばらくの間黙りこくり、何とか今の気持ちや感情を整理しているように見えた。
純粋な感情を持ち合わせているノアといるとタイチは自分が如何に屈折しているかを知るのだった。
数度日をまたいだときに、カルガはその巨体をネストから起こし空へと飛び去った。
自分の住処が離れていく様を見つめていると、少しだけ心の内に寂しさが芽生える。
未練がましく追いかける視線を剥がし、タイチは別の龍がどこからか来るのを見張る。
擬薬の飲み過ぎのせいで、雑音が激しく頭を揺さぶる時間が続いた。
ゼノアが近寄って来たときにはノアが上手くタイチとゼノアの間に割って入り、極力接触を避けさせた。やがて擬薬、偽擬薬、そして食料である龍肉も底をついた。ノアの自分の身体を食べるかというバカげた発言に突っ込みを入れたのがいつだったかはもう覚えていない。
日の感覚が薄れ、無駄な体力を消耗しないように眠る時間が続いていたある日のことだった。
いつまでも変わらずに広がる青い空に奇妙な点が浮かんでいた。
朦朧とする視界が見せた幻覚かと思ったが、その点は次第に大きさを増し、やがてタイチの視界を埋め尽くすほどに変わった。
「来た……ようやく来やがった……!」
今までの疲労が吹き飛び、思わず声を上げていた。
その声はゼノアに届く前に、龍の翼の羽ばたく轟音にかき消された。
カルガより二回りは多く龍皮や龍肉を蓄えている巨体。
鈍重とでも呼べそうなほどに、翼が空気を打つ速度は遅い。
カルガの青色に対して、この龍は灰褐色だった。その龍はでっぷりと太った身体を休めるように、葉に身を置いた。葉から衝撃が伝わり、一瞬天生樹が大きく揺れる。
龍を目前にして、人とのスケールの大きさの違いを改めて実感する。
その背には確かに繭で覆われた都市が存在していた。
別の都市。
カルガ以外の世界。確かに、別の世界はそこにあった。
「ノア、行くぞ!」
傍らのノアを引っ張り起こして叫んだ。ノアは暴食なので食料が少なくなると、疲労が多く溜まっていた。
自然とノアは動くことを面倒に感じるようになり、タイチの背中へと飛び乗ることを覚えてしまった。ついでに寝ることもできるから一石二鳥らしい。
「ごーごー、タイチ」
背中にノアを抱えながら、タイチは幹に龍刃を深々と差し込み一段一段幹をよじ登っていく。
その龍はカルガが休息した大きな葉より二つほど上の葉にいた。
二つほど上と言っても実際には何百メートルも離れている。
命水の力を借りてはいるが、溜まりに溜まった疲労で身体が思うように動かない。
しかし、疲労に埋もれながらもタイチの胸の奥底には希望があった。
リアラがあの都市にいるかもしれない。会えるかもしれない。
その想いの一心でタイチはカルガを抜け出した。タイチは想いを糧に疲労仕切った身体に活を入れて最後まで登り切った。息が上がり、思わずタイチは葉に寝転がった。
「はぁ……はぁ……ようやくついた、ぞ」
寝転がるタイチからノアは飛び起き、タイチを見据える。
「はやくする。龍がどこかへ行く」
「俺の背に乗ってたからそんなこと言えるんだよ!」
ノアに罵声を浴びせた力で身体を無理矢理起こす。
龍に近づくごとに視界には灰褐色の物体が広がる。タイチは龍皮に手を掛け、側部を登る。
もちろん、ノアは背中にいる。
側部の厚い龍皮から龍肉を取り出して食す。今では額一杯に広がった証紋から熱さが次第に薄れる。
タイチはようやく登り切り、背の上に移動した。
カルガより遙かに大きい龍だけあって、背の上の都市もカルガより大きい気がする。
ついに、二人は適当な場所から繭を通過して都市に入った。