憎しみ合い
二人はフーリンの居室を去った。
フーリンがノアに対して何も感じていないことを不思議がっていたが、何とか誤魔化した。
フーリンの話を聞いた今、広場の人間の敵意を明確に意識できる。
まるで刺すような視線の数々にタイチは一々反抗するようににらみ返す。
自分の居場所が次第に狭くなり、肩身が狭い思いになる。
人の流れに身を委ねていると商人と肩がこすれる。謝るより先に商人が口走った。
「いてぇんだよ!」
言葉と同時に飛んできた拳をまともに顎に受ける。
謝る気持ちが瞬間的に蒸発し、直線的な怒りが爆発する。
お前から当たってきたんだろうが!
商人の胸元を掴み、右腕を振り上げたときにふと我に返る。男の怒りに満ちた表情。
今、自分も同じような顔をしているに違いない。普段なら何でもない出来事に違いなかった。
ただ謝れば終わりだった。
だが根源に相手への憎しみあるせいで、怒りの沸点が低くなる。
何でもない所に相手の嫌な部分を見つけて心に怒りを溜めてしまう。
勝手に暴発させてしまう。
「……悪かったよ」
都市間が抱える問題の一端を肌で感じ取った瞬間だった。
怒りが沈んだ瞬間、身体の中心の一点に痛みが走る。
その痛みは身体中を這い回り、全身が軋むような感覚だった。
膝を付きかねないほどの痛みにタイチは顔をしかめる。
先ほど肩を掠めただけでこの有様だった。
シェーアもカルガも大人しく仲良くして欲しいものだ。
シェーアの商人の方も不自然な痛みを感じているらしく、その場に倒れ込んだ。
二人を囲むように民衆が次第に集まり始める。
「あいつがやったのか」「倒れてんぞ」「あのガキがやったに違えねぇ」。
雑音に近い言葉のなかから幾つかの言葉を掴み取った。
二人の事の成り行きを見ていた人間もいたはずだった。
しかし、潜在的な憎しみや怒りがあるせいで、シェーアの人間の思考が歪められる。
いくら言い訳してもタイチが悪者になるだろう。タイチはノアの手を取り、さっさとその場を去った。
フーリンの話を一度は飲み込んだはずだったのに、自分のなかでは上手に消化しきれていなかった。
依然と心の底に溜まっている靄が次第に大きくなる。
先ほどの一件でシェーアとカルガの人間関係の溝を意識してしまった。
そして自分がシェーアのなかではひどく息苦しく思っていることも実感してしまった。
宿屋の寝台に腰を下ろしたときも、妙な徒労感があった。大きなため息を一つ吐くと、ノアがじっとこちらを見つめている。まるで何も知らないような澄んだ瞳だった。
その瞳に映る自分の姿はひどく小さなものに見える。
「タイチ、暗い」
「いつもこんなもんだよ」
「人は暗いときは嫌な気持ちになってる」
ノアの言葉は真っ直ぐにタイチの心に突き刺さる。
いつも自分の心のなかを見ないようにしてきた。
自分の複雑に絡まった感情を紐解かないようにしてきた。
「タイチがノアに言った。心のうちを話せ。タイチは話さない?」
自分がノアに言ったことをそのまま返される。
自分が言ったことが自分が出来ていないとは。自分自身を笑ってしまう。
「タイチは嘘ついた?」
そういうつもりではなかったのだが、どうも自分の境遇を話すというのは恥ずかしい。
ノアはタイチの行動を窺っている。そして腕を唐突に絡める。
「ノアとは仲良し」
「……なんだよ、そりゃ」
仲良しだから話せとでも言うのだろうか。
ノアの突飛な行動で何だか色々とばからしくなってしまった。タイチは重い口をようやく開いた。
「……ずっと一人だった。カルガでも擬士だからって子どもの頃から仲間外れにされてた。自分の居場所がなかったんだ」
結局自分に降りかかる悪意を振り払うには、自分も周りに荒々しい態度を取るしかなかったんだと思った。そうすることで強がり、自分を何とか保っていたのだ。
「俺は結局、リアラに会いたいって気持ち以外にも、逃げ出したいって気持ちがあった。別の場所なら、居場所を作れるかもって思ったんだ」
ノアは身じろぎ一つしない。
「だけど、結局このざまだよ。どこにも居場所なんてありはしないんだよな」
自嘲気味に呟いた。カルガでは居場所がなかった。
しかしシェーアに来ても、龍の喧嘩のせいでタイチには居場所がない。
都市の人間全員に嫌われているなんてカルガよりひどいかもしれない。
結局幼かった頃にするしかなかったように、自分を押しつぶされないように周りに反発するしかない。
ノアを横目でちらりと見る。隣にちょこんと座ったノアは瞳をタイチに注ぐだけだった。
ノアはタイチの心情を理解できただろうか。
多分、ノアにはまだ難しいだろう。
タイチが立ち上がろうとした瞬間、ノアがタイチの腕を引いた。
バランスが崩れたタイチはそのままノアの膝に頭を預ける格好となった。
「お前……なにして――」
「タイチには、ノアがいる。ノアが傍にいるから」
感情なんてこもっていない。いつもの淡々としたノアの口調。
タイチの頭に手を置き、ゆっくりと何度も撫でる。
「よしよし、タイチ。元気だせ~」
思わず苦笑してしまった。まるで母親にあやされる赤子のようなものだった。
ノアは一体どこでこんなものを覚えてきたのだろうか。
「これ、親が子どもにするようなもんだぞ?」
「ノアが親。タイチが子ども」
「笑わせるな」
冗談を覚えたというのだろうか。
いや、ただゼノアには親子の関係が存在しないから、適当に言っているだけだろう。
起き上がろうとするが、ノアにぐっと頭を押し返される。
「だめ。なでなでする」
不思議と抵抗できなかった。ノアの手から体温がじんわりと伝わってくる。
「タイチにはノアがいる」
また同じ言葉だった。どうせ直接的な意味しか持っていないと思っていた。
もしかしてノアはタイチの心情を理解しているのだろうか。
タイチは一人なんかではなく、ノアもいると、そう言っているのだろうか。
「もう暗くない?」
「まぁその……元気にならなくもなかったぞ」
ノアの膝から身体を起こしてから立ち上がる。
ノアは再びぴたりと固まり、何やら思考を進めている。
「……地図のためだから」
ぽつりと呟いてノアも立ち上がる。
タイチはノアに部屋を待たせてから食堂で飯を調達してくる。
一つの大きな皿に特大の龍肉。テーブルに置いてやると、ノアの目が少し輝いた気がする。
「すげぇ」
「ほら、食えよ。うまいらしいぞ」
両手にナイフとフォークを持ち、勢い良く食べようとするが、ぴたりと止まった。
「タイチの、ない?」
「腹減ってないんだよ、俺の分も食え」
こういう所は自分でも本当に直っていないと思う。
ノアは幸せそうに食事を平らげていく。
ノアが食事をする様を呆然と眺めていると、ノアがこちらに気付く。
「……あげない。ノアの」
皿を自分の手元に引っ張りやがった。本当に食い意地がはったやつだ。
「いらねぇよ、別に」
ノアにはタイチが食べ物を欲しそうに見えているのだろうか。
ノアはしばらくタイチの表情を窺っていた。
そして自分の龍肉を切り分けて少しだけフォークに突き刺し、こちらに寄越す。
「少しだけ、あげる」
ノアのフォークから直に口に含んだ。シェーアの食べ物は相変わらず口に合わない。
「ノア、その……ありがとな」
結局ぼかすような言い方でしかお礼を言えなかった。
ノアの言葉で心が軽くなったことは間違いない。
ノアは多分飯をあげたことのお礼だと受け取っているのだろう。
そうなるように、タイチは恥ずかしさから仕向けたのだから。
しかし、依然として状況に変化はない。カルガとシェーアの人間は互いに憎しみ合っている。
タイチも意識するようになってから、シェーアを毛嫌いする感情がときたま浮かぶようになっている。
シェーアの人間と近づくことで龍刃の先で突かれたような痛みも覚えるようになってしまった。
カルガとシェーアの人間は繋がれない。
その事実をまざまざと体感することになっている。
都市に来てから初めて好意的な態度を取ってくれたのはリアラだった。
タイチは知らず知らずのうちに、リアラの好意に甘えて彼女を傷つけていた。
擬士団のフーリンですら顔を歪める痛みをリアラは顔色一つ変えず抑えていた。
リアラはもうタイチと会いたくなくなっただろうか?
嫌いという感情がある限り、そう思っていてもおかしくない。
約束もその場限りでタイチを思ってしてくれただけかもしれない。
繋がれない都市同士を繋げることができるのはタイチだけだ。
カルガが泥に沈む前に移住させることができるのもタイチだけだ。
そんな世界的な問題を解決したいとは思う。だがどうしても全ての気持ちの前には、リアラと会って話がしたいという気持ちがある。しかし、その気持ちを邪魔するのが都市同士の壁という問題だった。あれほど手が届く距離にいたのに、今は触ることすら許されない。
タイチが悶々と頭を抱えていると、
「タイチ、リアラの所へ行く」
「いや、良い。会わない」
ノアは大きく首を傾げてタイチを見る。
「タイチはリアラに会って話すという目的があった。今は目的を達成できる」
「お前なぁ……確かにそうだけど、そう簡単じゃないんだよ」
「意味、わからない」
「とりあえず、リアラに都市間の状況と解決策を伝えてくれ。後伝言を頼む。ノアなら、リアラに対しても普通に会話できるからな。自分がゼノアだってことは言うなよ。後、リアラを追っかけてきたってこともな」