1話 始まり
「嘘の恋人」なるものは物語の世界には溢れているが、現実世界にはないものだと思っていた。たとえば学園アニメでデタラメな権力を持つ生徒会とか、別荘を持っているお嬢様とか、両親が海外にいる主人公とか。そういった物語を盛り上げるためのファンタジーの一種だと思っていた。
だから僕のこの4ヶ月間の記憶は、あるいは僕が作り上げた妄想なのかもしれない。退屈な日々から抜け出したいあまり、自らの記憶を改竄してしまったのかもしれない。もしかすると、僕は今精神病院のベッドの上で夢を見ているのかもしれない。
この4ヶ月は、それほどまでに僕の日常からかけ離れていた。
それまでの高校生活で数えるほどしか人と喋らなかった僕が、青春を謳歌していたのだから。(客観的に見て)可愛い彼女ができ、同級生と青臭い言葉をぶつけ合い、恋愛のいざこざに巻き込まれ、殴り合いの喧嘩までした。これぞ青春といった感じの濃密な時間を過ごした。
「君は自分が人に影響を及ぼすことなんて無いと思っているようだけど、それは君の”思い上がり”だよ。君の存在は君が思っているほど小さくないし、君の言葉は君の思惑とは裏腹に人の心に深く刺さる。」と彼女と付き合い始めた頃に言われたことがある。僕と話すときだけやたら小難しい話し方をする女だった。
そう、すべてのきっかけは彼女だった。前置きが長くなったが、とりあえず彼女の話から始めよう。
千裕と初めて話したのは、まだまだ厳しい暑さの残る9月の初め頃だった。
僕はその日の放課後、学校の図書室にいた。
その頃の僕は、ある事情で僕毎日夜の7時まで時間を潰す必要があったのだ。よその高校がどうかは知らないが、うちは教育に力を入れていることもあり自習室が併設された図書室は夜の8時まで開いていた。放課後は毎日そこで本を読んだり、スマホをいじったり、時には勉強をしたりしながら暇をつぶしていた。
その日の放課後も例にもれず図書室にいた。図書室は冷房が効いていることもあり、様々な生徒がいた。本を読んでいるもの、受験勉強に励む3年生、机で談笑する帰宅部らしき者たち(もう少し声のボリュームを落としてほしい)、そして僕。
スマホをいじって、その日出された数学の宿題を片付け、少し寝て起きると窓から見える外の景色がすっかり暗くなっていた。図書室にはもう僕と司書さんしかいなかった。寝る前はグラウンドからの掛け声なども聞こえて賑やかだった学校が静まり返っている。
壁にかけてある時計を見ると、7時30分だった。少し寝過ごしてしまったようだ。
僕は手早く帰り支度をし、受付に座っている司書さんに会釈をしながら図書室を出た。
玄関で靴に履き替え外に出ると、女の子が立っていた。誰かを待っているのだろうか。僕には関係ないので一瞥もせず校門へ向かう。
「遅いよ奥村くん、30分も待ったよ」
女の子の声が聞こえた。名前を呼ばれたということは僕に話しかけているのか。振り返ると、声の主と目があった。
そこにいたのはクラスメイトの泉千裕だった。僕は人の顔を覚えるのが苦手だが、泉の顔は覚えていた。
それは泉が友達だからではなく、密かに思いを寄せているとかでももちろんなく、彼女がクラスの中心グループに所属していて、おまけに顔がいいからだ。つまり、目立つからだ。
サラサラのボブヘアに整った目鼻立ち、常に作り物みたいな優しい表情を顔に貼り付けている、男ウケの良さそうな女の子だ。僕の嫌いなタイプの女の子だ。
「ええと、誰?」もちろん僕は彼女が泉千裕だと知っているがとぼけて答える。特に理由はない、なんとなくだ。
「ええっ!?」
泉が素っ頓狂な声を出した。
「同じクラスの泉千裕だけど……、もしかして覚えてない?」
不安そうに確認してきた。泉のような人気者にとって自分のことを知らない人間というのは珍しいのだろうか。そんな顔をさせたかったわけではないので慌てて訂正する。
「冗談冗談、もちろん知ってるよ、泉さん。なにか用かな?」
この子が泉千裕だということはわかるが、話しかけてきた理由は全く検討もつかなかったので聞いてみた。泉との接点なんて同じクラスであるということくらいだ。さっきの口ぶりからするに僕のことを玄関で待っていたらしいのでますます意味不明だ。
「よかった~、自己紹介からしなきゃかと思ったよ。奥村くんって人に興味なさそうだし本当に私のこと知らない可能性もあるなっておもって信じかけちゃったじゃん。」
その言い方だとなんだか僕が斜に構えた痛い人みたいに聞こえるからやめてほしい。別に僕は人に興味がないわけではない。積極的に関わろうとしないだけだ。
「それで、俺になにか用があったの?」
話をすすめるために同じことを繰り返し聞く。僕はなるべく早く帰りたいのだ。
「まあ用っていうか…話があるというか…。とりあえず帰りながら話してもいいかな? こんなところでする話でもなくてさ…」
一体どんな話をするつもりなのか。なんだか長くなりそうだな。適当な理由つけて早々に立ち去ろう。
「あー、でも俺東駅だけど…」
帰り道が違うから今日はもう解散作戦だ。
うちの高校の最寄駅は2つ、西駅と東駅があるがほとんどの生徒は西駅を利用している。駅の方向は間逆なので、こう言えば今日のところは諦めてくれるだろう。
ちなみに僕は西駅だ。つまり嘘をついた。東駅から自宅までは定期券外なので地味に痛い出費だ。
「あ、うん、私も東駅だから同じ方向だね!」
まじかよ。今更断れなくなってしまった。
この日僕は自分のついたくだらない嘘のために、随分と遠回りをして帰宅するはめになった。
日が長い季節とはいえ8時近くだからあたりは暗かった。
住宅街を歩いているとそこかしこからいい匂いがしてくる。ちょうど夕食時だ。どこかコンビニでも入って買い食いしたい衝動に駆られるが、その分泉といる時間が長くなってしまうので我慢した。
泉はすこし早足で僕の隣を歩いている。僕よりも身長が低い彼女にとって、僕の歩くペースに合わせようとすると早足にならざるを得ない。僕はそれに気づいていたが、歩調を合わせようなんて気持ちはなかった。
「そういえば、奥村くんはなんでこんな時間まで学校に残ってたの?」
泉はこちらをちらりと見て、話を振ってきた。とりあえず雑談から始めるらしい。
「勉強してたんだよ。図書室だと家より集中できるからさ。」
嘘である。今日はスマホを少しいじってからずっと寝ていた。
「へぇ、勉強熱心なんだね。今度勉強教えてよ~」
「ああ、俺で良ければ。」
泉の言葉は当然社交辞令である。”今度”は永遠にやって来ない。それをわかった上で引き受ける。
会話はそれ以上弾まず、沈黙が訪れた。お互いのことをよく知らない者同士で会話を続かせるのは難しい。片方に続かせる気が無いからなおさらだ。
それから数回、泉が会話マニュアル本に書いてありそうな質問をし、僕が答えて会話終了、ということが繰り返された。泉もこんな質問をするために一緒に下校しているわけではないのだろうから、会話を盛り上げる気は微塵もなかった。僕はできる限り人と仲良くなりたくないのだ。何度目かの沈黙の後、泉がすこし真剣な表情になった。ようやく本題か。
「奥村くんはさ、彼女とかいる?」
泉の発言はそれまでの会話の流れからすれば唐突なものだったが、僕にとっては予想していた通りのものだった。
それは別に僕が常日頃女の子からアプローチをかけられているからとかではない。そもそも僕は容姿こそ平均的だが、社交性が致命的にかけているので人に好かれることがない。女友達どころか、男友達すら一人もいない。漫画やドラマでこういったシチュエーションになったら大抵恋愛がらみの話が繰り広げられるという知識があっただけだ。よくあるパターンというやつだ。
ただ、こうなることは予想していたが、なぜこうなるのかは全くわからなかった。
「いないよ、俺モテないからな~。絶賛募集中!」
僕はおどけた感じで答えた。彼女がいないのもモテないのも本当だが、募集中は嘘である。しかし「彼女なんかいらない」などと言ったらたとえそれが本心だったとしても強がりだと捉えられかねない。だからとりあえず普通の男子っぽいことを言っておいた。
彼女は表情を変えずに「そうなんだ、ちょっと意外かも」と言った。本当に意外だと思っているなら少しは意外そうな顔をしたほうがいいぞ。
「あはは、でもなんで急にそんなこと聞くの?」と僕は質問の意図を尋ねた。僕にしては珍しい、100%本心からの発言だった。
「いや、一応確認しておこうかなと思って」
まさか
「彼女募集中ならさ、私と付き合わない?」