【一話】狩人、猫、ガラス。【承】
承です。犯人はヤスなんでしょうか。
夜更けの2時。寝ぼけ眼の安東が紅の流星でおなじみのプラモデルの最終工程に取り掛かろうとした時、机の上の携帯が震えた。
「うわ待て待て。揺れるな揺れるなプラモがこける…」
メールだ。隼人からだった。高校生になってから向こうから連絡することが滅多に無くなっていたからか、少し嬉しそうに口角を上げる。
隼人
今日休むわ
寝ろや2時やぞ
どした?
腰やった
そうか
言っとく
頼む
しんどいならはよ寝ろって
なあ
既読つけろや
「なんだよぉ〜…」
口は文句を垂れるが久々のマトモなやり取りにニヤつく。いつぶりだろうか。隼人と会話が続いたのは。
それは唐突だった。隼人が無口になって、妙に神経質になって素っ気ない素振りになったのは。大して彼の身の回りに変化はない。いわゆる高校デビューにしては見切り発車感のある初々しさはなかった。何が彼を変えてしまったのだろうか。
もしかして俺が悪いのか?と頭を悩ませる日もあった。何日か距離を置いたこともあった。でも、他の友人よりも隼人を諦めきれない自分がいた。誰よりも気が合う大親友を、諦めたくなかった。
隼人が何故あのような性格になってしまったのかの事情は全く分からないが、安藤は友達として彼と共に駄弁るという選択肢を選んだ。それが少しでも彼の支えに、癒しになることを信じて。
「…そばにいてやんないと。」
目が疲れているのか、歪む視界にプラモデルの紅色が鮮明に映える。安東はついさっき怪我した額を撫でた。
翌日の朝。まるで昨日の出来事を忘れてしまったかのように、波美子が待ち合わせの場所に立っていた。
「詞音ーー!こっち!」
満面の笑顔でこちらに手を振る波美子。ブレザー姿の詞音は笑顔で手を振り返す。が、彼女の意識はそこにはなかった。家の後ろ、屋根の上、路地裏の影。物陰という物陰に気を配る。その明らかに何かを警戒している瞳の移動過多に、波美子は気づかないわけにはいかなかった。
「詞音…あのねぇ。」
「しっ!静かに。…今あの家から物音が聞こえたわ。」
指指す先にはありふれた民家。
「窓に人影が。なにか音を鳴らしてるわ。」
言った通り人影が見えるが、水音とカチャカチャと聞こえる音から察するに
「…お皿洗いでしょ。あのねぇ、昨日のことが気になって仕方ないんだろうけどさ。人通りのある所で襲ってくるバカはいないよ。なんてったって私にもちゃんと対策はあるんだから。」
波美子はそう言うとカバンから千枚通しとスタ
ンガンを取り出した。
「ね、どっちがいい?詞音ちゃんのために持ってきたの。」
くしゃくしゃの笑顔で凶器を差し出す。詞音はあきれながらも千枚通しを手に取った。
「波美子ちゃん。あなた人を傷つけたことは?」
「えへへ…言葉なら…あるよ?」
「没収。こんなもの持ってたらあなたも危ないわ。」
そういうと保護者の擬人化は千枚通しを当然のように自分のカバンの中に入れた。幼児の擬人化は納得がいかない。と不満の表情を昨日のいつかのように浮かべている。
「そのスタンガンはあなたが持っておいて。それも凶器だけど…もしものためにね。使い方は知ってるの?」
「うん!何回か使ったことあるから!安東に!」
「…やっぱり没収したほうがいいかしら。」
何事もなく通学路を行く二人。すれ違う人はどれも見知った顔で凶悪性の欠片もない。
田んぼのど真ん中を行く道や、澄み切った綺麗な小川がそばに流れる小道。詞音は引越ししてから1ヶ月経った今でも、この風景に飽きることはなかった。
父はマーシャルアーツの研究家兼武道家。母はとある会社の大役という、マンガの設定でもなかなか見られない意味不明な家庭に生まれた詞音。
元々住んでいた東京の町は無機質な喧騒と灰色のビルの山々で溢れかえっていた。しかし、ここ桜ヶ丘町には落ち着きに溢れた空間が広がっている。緑溢れる自然と同居するささやかな人間の文明。素晴らしい。
先々月、年中仕事漬けの日々を何年も過ごしてきた母親から、ここへ引っ越す話を聞いた時はどうかと思ってはいたが、ここに来たのは間違いではなかった。初めてこの眺めを見た時そう思えた。
「えー別に綺麗とも何とも思わないけどなー。さっさとショッピングモールかなんかでも建ってほしいよ!全く。」
撃てども撃てども止まらない無限弾倉のマシンガントークを朝から快調に飛ばす波美子。
十字路を真っ直ぐに進む。約30mの真っ直ぐ。その先に見える校門までの一本道だ。
右の方から見覚えのある男が呑気に歩いてくる。詞音と波美子に気づいた途端、手を振って小走りで近づいてきた。
「お、ナミ!やっと通学路のおしゃべりの相手が見つかったのか!」
「…うわぁ。本物の不審者が来ちゃった。なによその帽子。ダサいわ。」
腫れぼったい目のヘッドホンを首から下げた男子生徒がフレンドリーに近づいてくる。
「安東くんですね。おはようございます。」
「ナミ、お前ちょっと黙ってろよ?…桐島さ〜ん!まさかそっちの方から話しかけてもらえるとは思わなかったなぁ〜。」
安東は幸せそうな表情で詞音に小走りで急接近。 波美子がとびっきりの嫌悪感を向ける。
「また女の子に色目使って…」
「うっせぇ!…昨日の昼に大スベリしたから嫌われたかと思ってたんだよぉ〜嬉しいなぁ。」
「そんな!そんなことで嫌いになるわけないじゃないですか。これからも仲良くしてくださいね?…それと…」
詞音が赤面してモジモジし始める。
「まさか…詞音!?」
波美子がこの世の終わりかと言わんばかりの悲鳴を、安東がこの世の絶頂期を思わせるような雄叫びをあげる。
一本道という脱線不可のレールに乗っかかってしまった今、もう逃げ場はない。超スピードでお付き合いを始めそうな天然と変態の純情物語が幕を開けようとしている。詞音が安東を上目遣いで見た。変態の笑みが最高潮に達する。
「あの…『うっせぇ』ってなんですか?波美子ちゃんのあだ名?それとも方言?…こんなこと聞くの恥ずかしくて…」
あんぐりと口を開ける二人。詞音も二人を見てぽかりと口を開ける。歩みを止めた一行を怪訝そうな顔で通り過ぎる生徒たち。波美子の部活の後輩2人ほどが気まずそうに挨拶をして、足早に通り過ぎて行った後、詞音が、
「あの…どうかしましたか?」
不安そうに呟いた。
人間には必ず欠点がある。諸説あるのだがエジソンやベートーベンなどの天才は特に、人間的欠落や、社会を生きるには致命的なモットーがあったという。
つまり才能を有するもの程、難のある欠点を持ち合わせているのだ。
ならばおそらく、才色兼備の権化の彼女が有する欠点はドが付くほどの天然。本来なら生きづらくてもおかしくないその天然ぶりをその才色でカバーしているのだ。
そんなことはつゆ知らず人間というシステムの器用さの表れを実体験した二人。
「あー…あ。桐島さんってもしかしなくても天然?」
「…うん。流石に今みたいなレベルの天然ボケは初めてだけど。心臓に悪いわ全く…」
「『うっせぇ』って言うのは『うるさい』の訛った言い方だよ。方言でもなんでもない。これは…俺が悪いなこりゃ。」
「すみません。気が付きませんでした…私たまに変なこと言っちゃうみたいで…」
「いや、これは誰も悪くないよ。あんたも悪くない。悪いのはむしろあたしだね。一人で騒いじゃってさ。」
「いやぁ俺も浮かれてたから。すまん。」
「うん。…止まってないで歩こう!行くよ詞音!」
波美子と安東が間髪入れずに詞音にフォローを入れあう。
「へへ…ナミの奴、今みたいにうるさいかもしんないけどさ、まあ仲良くしてやってくれよ。俺の大事なダチなんだ。」
「…ばか。ほら行くよ!」
少し傷んだアオハルを展開しつつ、三人衆はすぐそこにある校門に歩き出した。
「うわぁ最悪。」
素の低い声が出た波美子を先頭に立ち尽くす三馬鹿の先に広がるは長蛇の列。その先の仁王立ちの男はまさしく、生活指導担当の鬼教師、信楽 円一郎その人だった。ガタイはそれほどでもないが、太い眉毛と手に握られた竹刀にはチープな威圧感を感じさせる。
「いいかお前ら!!二列に並ぶんだぞ二列に!!隠れて裏から入ろうとしてもバレるからな!!いいな!!?」
「な、な、なんですかあの人は!?この学校には体罰許可証持ちの先生もいらっしゃるのですか!?」
「なんだよその許可証。ねーよ。…あー見えても暴力は振るわないわよ。ただ熱いだけ。」
詞音の狼狽えに波美子が答える。狼狽えるのも当たり前だ。波美子のスタンガンならまだ、…まだといってもギリギリアウトな気もするが、まだ自衛で誤魔化せる。
しかし今自分の鞄の中には殺意の塊に等しい千枚通し。裁縫セットも布も何一つ無い、必要なものだけを入れた鞄が仇となった。
「どうしましょう!!このままじゃ私指導されちゃうわ!?」
まるで他人の死を目撃した女貴族のように慌てふためく詞音。しかし取り乱すブレザーとは対照的に、シンプルな学ランの少年とセーラー服の少女は落ち着くどころか、信楽に向けて嘲笑を浮かべていた。
「この学校そんなに偏差値高くないのに校則はやたらと厳しいんだよなぁ。これもあるあるかね。」
「トシ、出番。」
「はいはい。しゃあないなぁ。ホントのところは500円だが…今回はタダでいいぜ。詞音さんのだろ?」
「いや元は私のなんだけど…とにかくお願い。」
なにやら刑事ドラマの出だしで見たような動きをとる二人。
「まあ心配しなさんな。お嬢さん。俺にゃあこれがあるからな。」
そう言って学ランの中身を春を迎えた変質者のように広げて見せた。
一見なんの変哲もない学ランの内側だが、よく見るとあるべきではない場所に内ポケットがあるのが見える。着るとちょうど右の腰辺りの位置だ。
「ここに入れたらいいの?」
千枚通しを容赦なく入れようとする詞音。
「違う違う!ってかなんだその武器は!?普段からこう、感覚研ぎ澄ましてる感じか?」
「いや違います。違いますけど感覚は結構研ぎ澄ましてますね。」
「真面目に答えなくていいから。…正解をここよ。」
波美子が服の脇の下をまさぐる。するとマジックテープのめくれる音と共に第三の内ポケットが現れた。
「さっきの内ポケはフェイク。改造服着てるの、幻滅しないでね。」
「すごい…全然わからなかった。こういうの私好きかも…!」
「えっ…!?」
「おい、あんたたちはまた同じ失敗をするのかバカ。集中しなさいよ。」
ハンカチで分厚さを調節して準備は完了した。波美子のスタンガンは500円払うのが癪だったからか、安東の前でバチバチと凶暴な音を立たせてから自分の鞄にしまった。
「おい!!そこのお前!何してるんだ!」
抜き打ち検査が目の前に差しかかる寸前、グレーの髪色の不良生徒がダッシュで校舎へ走り出した。結構な距離だが、彼のスピードと信楽のポジションからしてギリギリ間に合うだろう。しかし校舎の窓が空くかどうかだ。
「アニキ!こっちへ!」
その時1階の教室の窓が開き、ニヤニヤ気味の悪い笑みを浮かべたいかにも舎弟顔の下級生が合図する。
「止まれ!その髪の毛全部剃ってやる!」
「やかましいっ!わざわざ美容院で染めたこの髪の毛だけは絶っっっ対に守り抜くぜ!」
信楽が目の前で青筋をくっきり浮かび上がらせるのを見つめるしかない三人。怒り狂って放り投げた竹刀が軽い音をたてて転がる。
案の定、グレーヤンキーは見事に逃げおおせた。信楽の無表情な仁王立ち。怒りを通り越してむしろ平常に見えるというヤツだろう。
「…やっぱスタンガン預けとけばよかった。」
「自己責任で。」
「で、なんでこの学生服はポケットが一個多いんだ?ああ?前にも言ったよなぁたしか。」
カモフラージュ用のポケットをペラペラとめくる青筋筋骨生活指導員。しかしさすがは安東。おののきもせずにいつもの調子で喋りだす。
「だからこれ兄貴のお下がりなんすよ〜…縫うのも考えたんですけど僕裁縫苦手で…」
「…ぬう。次はテープでもなんでも良いからポケットを塞ぎなさい。…それと!」
右手の激しい残像が安東の前を通り過ぎる。
ついにやった。1面記事だ。とどの学生も思っていたがそれは杞憂に終わった。
彼の教師としてのプライドのように高く掲げられたのはヨレヨレのアダヅスのキャップだった。
「えっ!?ちょっとちょっちょっちょっ!!!」
取りに取り乱して額を隠す安東。その滑稽さに後ろの列から笑いがこぼれる。
「学校では帽子を被るのは禁止だ!!言い訳無用!…まあ、せいぜい前髪を切りすぎたかデキモノを隠すためだろうが。」
信楽の推察通り、安東の額には絆創膏が貼られていた。詞音の表情が強ばる。
昨日の一件。あの時確かに撃ち抜いたはずの額ど真ん中。少しの流血だったとはいえ、絆創膏だけで済むような怪我だろうか。それを考えればただの怪我かもしれない。…しかし偶然にしては出来すぎている。
「ご、ご名答です…ゆうべ怪我しちゃって。」
恥ずかしそうに手で傷を隠す。事情を信楽が聞こうとしたが当然、一言も理由を話すことはなかった。
「理由は知らんが!帽子の着用は特別な理由無しでは認めん。覚えておくように!」
安東は後ろ手を組んで通り過ぎていく信楽の背を見届けながら、二人に向けて腰元に小さくVサインをしてみせる。
「ま、俺兄貴いないんだけどね。」
詞音は安東の言葉に引きつった笑顔しか返すことができなかった。
「あのおっさん案外理解あるのね。『防犯意識が高いのはいいことだ!しかしちゃんとカバーか何かをつけておかないと危ないぞ!』って。…今度木刀かなんか持っていってやろうかしら。自己防衛よ、自己防衛。」
早朝からいらぬ緊張を強いられたからか、波美子は怒りを爆発させている。
「まあいいじゃんか。怒られなかったんだしさ。見せたくもない怪我がバレた俺よかましだろうさ。あ、桐島さん、これ。」
そう言って千本通しを詞音の机に置く安東。詞音は驚きで体を大きく震わせる。
「あ、ありがとうございます…」
「…おう。なんかあったらまた頼ってくれよな。」
安東が額の絆創膏を前髪で隠しながらニコリと笑った。
もちろん詞音は、さっきと変わらず不安を隠せずにいた。まさか犯人候補がすぐ近くにいるとは。しかも平然と私たちの前に現れて、今もなお無駄口を叩いている。まさにサイコパス。こんな平穏で美しい町にこんな狂気が潜んでいるなんて。
チャイムが鳴った。生徒のざわめきが担任教師の入場で静まる。
「おはようございます。田森です。ホームルーム始めるぞ。」
美形で女子生徒からも人気のある男性教師で、必ず授業やホームルームの前に自己紹介を挟むのがチャームポイント。入学三日目に波美子が教えてくれたのを思い出す。
「動画投稿者かよ。」
怒りがまだ収まらない波美子が呟く。たしかに有象無象の動画の始まりにありがちな名乗りだ。しかし名前からお昼の番組か深夜の番組を想起する者も多くない。「タ○リ」と書かれたネームプレートを教壇に置いた輩がいる時点で間違いはないだろう。今は笑えた状況ではないが。
右斜め前の席に彼がいる。この学校という守られた状況で襲ってくることは考えられないが、相手の背中に位置できるのは大きい。しかし、こんな状況がこれから毎日続いては精神的にもたない。口の中が乾いて手に自然と力が入る。
それでも人を…おそらく…殺してのうのうと生きていられる彼を、許してはおけない。
「出席は…えーと。誰か最上見てないか?」
いつもはだるそうに机にへばりついてるはずの彼が、今日はいなかった。病欠かなにかだろうが、詞音は妙に胸騒ぎがしていた。
昨日の昼、安東は隼人の机でご飯を食べていた。昨日の寒いギャグ。隼人の冷たい対応。それはいつものささいな会話なのかもしれない。それでも、安東が…彼が隼人に殺意をもっていたとしたら…
「先生!隼人欠席っす。昨日メール来てました。腰痛って。」
安東が思い出したかのように言う。クラス一同の笑いが響く中、冷や汗が流星群のように詞音の背中をつたった。
「今日はここまで。明日…あーいや明後日は三段落目以降から始めるから。一回さらっと読んで予習しといて下さい。田森でした。」
チャイムが鳴った。教室の内外問わず生徒のざわめきが大きくなっていく。
詞音といえば、結局授業に集中出来ていなかった。
「詞音ちゃん…どうしたと?さっきからずっとしんどそうね?」
左の席の佐々木瑠美が話しかけてくる。
「あ…大丈夫だよ。朝ごはん食べてないからお腹へっちゃって…」
「そっか…なら購買でなんか買ってきちゃろか?お代は後で貰うけん。」
「ふふ。助かるわ。…でもお昼までもうちょっとだから。我慢するね。話しかけてくれてありがとう。」
「そう。なんかあったら言うんよ?あたしのパン分けてあげるきに。」
なんとか空腹のせいにして疲労の正体を隠したが、もう詞音には安東の注視を続ける余裕は残っていなかった。
武闘家の血筋故か、それとも心配性故か。詞音はこの1時限の間ずっと安東の動きを読み続けていた。ささいな動きも全て攻撃に繋がる。親であり師範でもある父の言葉を胸に、頭を掻いた時の大きな動きから、安東本人も気づかないような親指の小さな震えも見逃さなかった。
バカ真面目というかバカというか。鋭く研ぎ澄まし続けた彼女の灰色の脳みそは疲労で限界だった。
「あぁもう…だめ…だ。」
がくりと頭をうなだれて動かなくなる詞音。ゴツン、と鈍い音が教室に響く。佐々木が青ざめた顔で急いで詞音に駆け寄った。
「詞音ちゃん!?どんだけご飯食べとらんの!?」
その時ガラリと扉を開けたボサボサ頭の男はのそのそと体を引きずるように教室へ入り、しばらく彼女をじっと見つめていた。
「おい方言集合体。桐島さん運ぶの手伝え。」
「あ!隼人!やっぱり仮病じゃねえかよ!」
朦朧とした意識の中で、男の声が遠くから聞こえる。
「…おつかれさん。ゆっくり寝てな。」
聞いたことのあるフレーズが、詞音の意識の扉を閉ざした。
目の前にはひじきをのせたご飯を一面に敷き詰めた光景が広がっていた。いや違う。天井だ。詞音が目を覚ましたそこは、周りがカーテンで囲まれていて外から体操をしている男女の声が聞こえることから、どうやら学校の保健室のようだ。
少なくとも一回学校案内で訪れたことがあるから一見さんではない。見知らぬ天井ではないが見知った天井でもない。
…安東の件は自分の思い過ごしなのかもしれない。1時間じっくりと見つめ続けてはいたが 、不審な動きはほとんどない。もしも彼が学校で私たちを襲うとしてもそれは二人きり、もしくは三人きりになるような状況だけだ。…そういう状況を作らない限り問題は無いだろう。
と、落ち着いた詞音の脳みそが思考を整える。
「…ん、起きたか。とりあえず開いた口閉じろ。バカに見えんぞ。」
眠たそうな声が左の方から聞こえた。ボサボサの髪の毛に眠たそうで虚ろな目。隼人だった。
「最上くん。無事だったんですね…」
「…無事って何が?俺はただの腰痛だぞ。長めに寝たら治った。…桐島さんはどうなの。」
壁にもたれかかってだるそうに話す隼人。しかし語気は優しい。これがツンデレというものなのでしょうか。と、安心しきった詞音が心の中で呟いた。
「最上くん、昨日誰かに襲われたりしてない?噂の行方不明の件もあるし、もしかしたら最上くんもいなくなっちゃったんだと思って…」
詞音の思い詰めた顔をじっと見つめる隼人。
「あんた気にしすぎだよ。…こないだ廊下走ってた奴らに本気で怒ってたろ。あれと一緒だよ。俺が屋上で寝てるのも、腰痛で遅刻したのも、ヤンキーが行方不明なのも。全部日常的なことさ。何も起こらない。しばらくしたら勝ち誇ったような顔で帰ってくるさ。」
「…でも。」
「…そういう真っ直ぐな所はいいかもしんないけどさ…なんか桐島さん、『おかん』みたいでさ。」
そう言うと隼人はクスリと笑い、窓の外を眺めだした。
「おかん?…私そんなに怖いこととか、恐ろしいことしてますか?」
「それ悪寒でしょ。詞音!起きてたのね!」
保健室の扉がいきなり音を立てて開かれる。息を切らした残念美人がけたたましい音を立てて現れた。
「隼人。先生にあんたが学校来て早々保健室に寝に行ったって伝えたから。
せいぜい昼まで寝てるといいわ!べー!」
時間的に考えて授業を抜け出してきたのだろう。真っ赤な顔で舌を出して挑発する波美子。
「波美子ちゃん…ご心配おかけしました。私のことはいいから授業に戻って?大事な時期なんだから…」
「ナミ、なんでこの人敬語なん。同い年じゃろ。飛び級でもしとるんかこいつは。」
「詞音はそういう喋り方なの。てかお前もそういう喋り方じゃないでしょうよ。バカにするのも大概にしなさいよ。」
ニヤリと笑いを浮かべる隼人。その光景に詞音は少し衝撃を受けていた。
「最上くん…私、あなたを少し誤解してたのかもしれないわ。」
「何がさ。」
「最上くんって結構、…ユーモラスなんですね。授業中も外をずっと眺めてるし、屋上でも寝てばかりみたいだから…その、…人生に絶望してるんじゃないかなって。」
詞音にそう言われたきり、しばらく隼人は下を向いて考えこんだ。沈黙が続く。
「また始まったし。…私戻るわ。詞音!また後でね!お大事に!」
何かを察したかのように波美子が出ていった。隼人はまだ下を向いている。詞音は黙ってゆっくりと待った。
「…君が初めてだよ。俺にそのことハッキリ言ってくれたのは。」
隼人が口を開いた。詞音の方を見ると、いつもより見開かれた大きな瞳でこちらを見つめ返している。
「その通りだ。俺はこの社会に絶望している。だってよく考えてみなよ。俺たちが生きてる中でAiや機械の自動化はどれだけ進んだ?コンビニとかスーパーのレジはほぼ自動化したろ?そしたら今度は出荷や経理が自動化するとかしないとか言ってる。これからもそういう事例がもっと増えるだろう。…俺たちがどれだけ頑張って勉強しても無駄だ。いずれAiは人間を蝕むよ。」
吐き捨てるように隼人は言った。詞音はうなずきながら聞いている。
「…なんて言ってるが、俺は考えすぎなのかもしれない。考えないで行動出来る奴が羨ましいよ全く。…桐島さん。悪かったな。愚痴ったりして。」
「いいんですよ。最上くんの思いはちゃんと伝わりました。そうやってちゃんとこれからのことを考えてるんだから、私は間違いじゃないと思いますよ。」
笑顔で言う詞音。
「私…人のことをすぐに気にしちゃう節があって。危ないこととか、その人にとってよくないことがすごく嫌で…私変ですよね。自分のことでもないのに…」
「いや、変じゃない。誰だってそうするべきなんだ。…俺にはそんなこと言える立場が無い。…何もやれるような事はないさ。俺みたいな人間に」
「そんなことないんじゃないですか?」
今まで聖女のように微笑んで話を聞いていた詞音が口を挟んだ。思わず隼人も口を噤む。
「だってあなた…昨日助けてくれたじゃない。あなた、ロビンフッドでしょ?」
隼人のなごやかだった表情が強ばる。
「…何が?何そのロビンフッドって。」
平静を装ってはいるが何か動揺を隠しきれていない。ポーカーフェイスは上手くいっているのに声が上ずっている。
「…なんでもないです。それより私、授業に戻らないと。」
何事もなかったかのようにベットから起き上がり、歩きだす詞音。
「お、おい。具合は大丈夫なのか?せめて昼まで寝てけよ。」
すっかり動揺しきった隼人が詞音を引き止める。すると彼女は立ち止まり、笑顔で言った。
「…私たち、似てますね。考え方から…隠し事まで。」
詞音が波美子の開けっ放しにした扉を丁重に閉めた。隼人は不貞腐れてベッドに勢いよく寝転ぶ。
「痛ってっ!…知らねえよ、勝手に言ってろ。倒れても知らねえからな。」
ふふふと静かに笑う音がドア越しに聞こえる。そして足音がゆっくりと遠ざか…らない。周辺をウロウロしているようだ。
「右の階段上がって左!方向音痴かお前は!」
大きな声で叫んだからか、背中の傷がズキズキと傷んだ。
「詞音ちゃん、ほんとに大丈夫なのかえ?私不安だべ。」
十二時九分。五分前には必ず授業を終えて車内でタバコを吸うことが有名な冠城先生のいない教室は既に、十人十色の弁当の香りで充満していた。
かたや教室の隅でスマホをいじりながら歓談する地味な男たち、かたや教室の真ん中でバカ笑いをする男女。そしてなぜか教室の引き戸の前でクラウチングスタートの体勢をとる男。…安東。
そのどちらでもない小グループの一つ、三人の女性たちのうちの一人の瑠美が、明らかに笑いを誘っているような語尾で気にかけてくる。周囲の生徒たちはもう慣れているからかクスリとも笑わないが、詞音は笑いを抑えきれなかったのか、机に突っ伏して小さく震えている。
「瑠美、あんたのせいで悪化するから普通に喋ってあげて。癖になってるのはわかるけど。」
「わかってるけども…もう慣れすぎちゃって治らんきに。…なんでこのキャラで4年も通したんやろか。」
波美子の忠告をしてもなお止まらぬ方言。佐々木瑠美は引っ越して中学二年生の頃、転校初日の朝の情報番組の下らないトピックに天啓を得た。それこそまさに「方言女子」であった。
親の度重なる転勤で身につけたにわか程度の各種方言をフル活用し、意識して喋り続けた結果がこの方言集合体を生み出してしまったのだ。
「まあ無理してたの1ヶ月もすればみんな分かってたからね。詞音はちゃんと素のキャラクターみたいだけど…まぁそれもそれでキツいわ。」
「詞音ちゃんは失敗しないでちょ。」
詞音がまた大きく吹き出し、うつむき加減に体を震わせる。
「…あんたそれ方言じゃないわよ。おっさんが使う奴よそれ。」
二人の質の悪い漫才のような会話に口を挟むように、昼休みを知らせるチャイムが鳴った。
「おぉれのパンに近寄るなぁあ雑魚どもぉおおお!!!」
安東がチャイムというスターターピストルと共に走り出した。流石元陸上部。軽快な滑り出し。
他の教室でも命すらかけていてもおかしくないような形相の生徒たちが全力ダッシュをしている。その中には今朝の持ち物検査で見たグレーの髪の男とその子分も混じっていた。
「オラどけコラっ!!俺より先に並んだ奴は全員シメるぞ!!」
「うっせえ地方のヤンキー!でけぇ土地持ちでもねえ家の出の癖によぉ!イキリ散らしてんじゃねぇぞバカが!」
おそらく暗黙の了解以上の禁断の了解を余裕綽々と言い放つ安東。グレー頭の後ろを走る子分がバツが悪そうに言う。
「…気にしちゃ負けだよ!アニキ!」
「黙れ坊!!…ぉ、俺は投資家になって大金持ちになるから関係ねえんだよぉぉお!!!」
「ヤンキーの癖にインテリなでけぇ夢持ってんじゃねえよ!プレミアム水墨パンはワシのもんじゃワレぇ!!?」
もはや必死すぎて友情すら感じる魂の会話を繰り広げつつ、彼らは渡り廊下を走っていった。獣の群れが大地を揺らすサバンナの如きその騒動に、しばらくの間目と口を奪われていた詞音だったが、我に帰ったと思えば弁当を素早く食べ終わり、カバンにしまった。
「むぐ。詞音ちゃん。よう噛んで食べんとまた調子悪くなりよるよ?」
「ごめんね。用事思い出したから。ちょっと行ってきますね。」
「もしかして…ちょっと!そのタイミングで行ってもパンは売り切れよ!」
「可能性はあるから!」
そう言って走り出したのはサバンナの動物たちの向かった方とは別の方向。残された二人は顔を見合わせてため息をつくしかなかった。
誰だ!わざわざ屋上でこんなものを捨てるヤツは!
昼休み、屋上にて隼人はそう思いっきり叫んでやりたい気持ちを抑えていた。
屋上の湿気のない床。その部分に置かれていたのは、ご丁寧にはさみで袋とじを開封したあとのアダルトな本だった。風でペラペラと捲られていくページがまたもやご丁寧に袋とじの小冊子ど真ん中で止まる。まあそれはそれは過激なショットである。神のエッチなイタズラであろうか。
隼人はそれをフェンスの外に投げ捨てた。無論、一通り目を通してからだが。
フェンスに身を預け、痛みに歪んだ表情のまま目を閉じる。そのまま手探りでアイマスクをポケットから探り、装着した。その瞬間、まぶたの裏でも感じ取れる白い光が、鉄臭い匂いと共にどす黒い暗闇に変わった。
驚いてアイマスクを取って目を開けると、それはまるで誰かの戦友の形見かのように血に濡れていた。
「うわぁ。気に入ってたのにな…パパゾンで売ってないかなコレ。…てか制服大丈夫かこれ。」
そう言いながらスマホの電源を入れると、緑のフード付きマントを身につけた射手が目に飛び込んでくる。
「…買い替えるか。目立たない色にしよ。」
錆びついた重い扉を力強く押し開ける。二度目の屋上は不思議と道に迷うことがなかった。相変わらずの気持ちいい微風と程よく静かな空間が、走った後の心臓の鼓動を落ち着ける。
「来たか。」
隼人の声がした。屋上に出て右後ろの隅。まるで何かを隠すかのように角のフェンスに背中を預けて座っていた。まるでここに来るのを見通していたかのように。
「…あなたの背中のケガ。どうしても気になって。」
「…ハッ。嬉しいね。ケガのくだりがなけりゃまるで恋人みたいだ。どうせまた来ると思ってたんだ。」
隼人は脱いだ学ランを毛布のように体に掛けている。
「見せてちょうだい。あなた、色んな人にそうやって嘘ついてるんでしょ。背中なんて自分で手当できないじゃない。」
詞音は早歩きで近づくと、半ば強引に隼人の学ランを剥いだ。
「後ろを向いて。」
大胆な行動に内心驚きつつ、隼人は首だけを後ろに軽く捻る。
「ほれ。これでいいか?」
「いい加減にして。昨日の夕方、あなたは私をかばってガラスの破片を背中で受けた。破片がまだ体に残っていたら危険なの。もしそうなら病院に行かないと。」
右腕を掴み引っ張る詞音。心なしか彼女の目は潤いを帯びているように見える。相当隼人のことが不安なのだろう。しかし隼人はその手を払い除けた。
「もうやめてくれ。俺は一人で静かに過ごしたいんだ。」
「『ロビンフッド』…なんでしょう?不思議なこと…つまり能力者と戦う、ナミちゃんのヒーロー。」
「うっ…それで頼むからそれで呼ばないでくれ。」
ついさっきスマホで見た緑マントの英雄が頭をよぎる。
「できることならあなたのことを支えたい。正体を知ってしまったからには、…私を助けてくれたからには!私にはあなたを気遣う権利があるわ!」
「もういいって…」
「あなたは一人じゃない!」
「いいか!あんた!あんたが俺の正体を知ってるのはわかってる。でも俺はあんたらと絡むつもりもないし、恩を売ったつもりもない!わかったら二度と近づかないでくれ!」
徐々にヒートアップしていく二人。しかし、悪意なき善意の怒りの目を向ける詞音を見つめているうちに、隼人は観念したかのように右手を差し出した。
「わかったよ。右手も怪我してるからまずそっちを看てくれ。」
「わかってくれたのね!ちょっと待ってね、消毒液を…」
詞音が隼人の右腕に触れる。しかし、見たところ外傷は見られない。
「…残念だけど忘れてもらうぞ。」
隼人が左手を詞音に向けた。右手はブラフだった。その手はゆっくりと詞音の頭の方へと向かっていく。
「あの時の…!」
その動きに合わせるように、詞音も空いた左手を上げた。傍から見れば何をやっているか一切わからない。
それに応えるかのように、一筋の閃光が熱を持って隼人の左頬を掠める。隼人は驚いて動きを止めた。
「…やっぱり『ガラス男』撃ったの、あんただったか。…俺の事殺す気?」
隼人の真横横のフェンスの網目の部分が抉れている。その部分からは少し煙が出ていて、どこからか発射されたものが熱を持っていたことを簡単に想起させた。
「…『ガラス男』。あなたはそう呼んでいるのね。でも…この情報も、あなたの『記憶を消す能力』で忘れてしまうのでしょうね。」
詞音がそう言った途端、隼人は、未だ詞音に強く掴まれたままの腕を立ち上がった。
「どうやらよっぽど『ガラス男』について知りたいらしいな。…あと、俺の能力はそんなんじゃないぜ。『記憶を消す能力』だったら消されるまでの過程も消すだろ。普通。」
「あ…そうですね。」
いつものはんなりとした調子に戻る詞音。
「それより。あんたの能力は一体なんなんだよ。このフェンス…レーザービームか何かか?」
すると詞音はニッコリと笑った。別に隼人は笑いを取りに行った訳ではないのだが。
「ええ…向こうの校舎を見てください。」
そう言って詞音が指を指した先、もう一つの校舎には。
「…おい。嘘だろ?」
「驚きました?隼人くんはまだ知らないのかしら。『ヴィジョン』には色んな形があるんですよ。」
猫がいた。茶トラの色をした猫が猫らしく日向に寝ていた。
「…あいつがなんなんだよ。あの猫がビーム撃ったってのか?ていうかヴィトン?えーと、ヴィジョンってなんだ?」
「あいつじゃないわ。ペスって言うの。本当の名前は『ワイルドキャット』。」
そう言うと詞音は右手で拳銃を形作り、階下へ繋がる扉のすぐそばの壁に向けた。
すると猫が起き上がり、大あくびをした。その時、明らかにサイズオーバーの大きな口径の銃口が口から飛び出た。肝心の猫は嫌がる素振りもせず、これから起こる出来事に備えて四足をずっしりと構えている。そして…
「こうやって…ばんっ。」
右手の銃を放った。それと同時に猫の体が激しく震える。そして再び凄まじい破裂音。当然、発射された物体は隼人の目に一筋の光としか認識されなかった。発射されたそれはすさまじいスピードで壁の端のほうを削り取った。
「すげえなおい…猫にレーザー銃って。あれって桐島が動かしてんの?それとも桐島自身?」
珍しいものを見られたからか、少し興奮した様子を見せる隼人。
「私であって私じゃないんです。…多分、信じられないでしょうけど。これが私の能力です。で、…あなたの能力は一体なんなの?ヴィジョンは?」
「あ?俺はなんでもねぇよ。あとヴィジョンってなんだよ。…また見せるべき時に見せてやる。」
さっきまでの態度は一体なんだったのか、己の能力について聞かれると急に態度を変える隼人。
「ひどい!私の能力だけ種明かしさせておいて自分は何もなしですか!幻滅しました…」
「だから。見せるべき時に見せてやるって言ったろ?俺は無駄が嫌いなんだ。初お披露目は能力持ちと一発やり合う時だろうな。…どうせあんたも『ガラス男』とやり合う気だろ?」
思考を見透かされていた詞音は顔を赤らめる。どうやら桐島詞音という生き物の「何かやましいことがあると顔を赤らめる」癖は、既に隼人に見破られていたようだ。隼人は鼻で笑って続けた。
「図星だな。まあ俺も奴を探してる。情報があったらまた教えてくれ。…もうあんたを止める気はないよ。じゃあな。」
「ちょっと!あなたはガラス男について教えてくれないんですか?」
詞音の言葉を無視し、後ろ手で手を振り、一人でスタスタと扉の方へ歩いていく隼人。
「あーだりぃ。」
扉を開けてすぐに言った彼のその言葉には、いまや詞音にとっては重い一言でしかなかった。私が支えなくちゃならない。そう決意して閉じ掛けの扉を押す瞬間。
「だからお前はお呼びでないって。察しろよバカ…」
小さい声ではあるが、少しぶっきらぼうな声で隼人が言った。心無い暴言が詞音のこころに突き刺さる。ガチャりと音をたてて閉じた扉。
「…あなたは、一人じゃない。一人じゃないのに…」
目の前の扉を、詞音はしばらくの間力なく見つめることしか出来なかった。
怪しい人物がたくさん出てきましたが僕はヤスがクサいと思います。転へ続く。