【1話】狩人、猫、ガラス。【起】
何度目の新作だ、と。
過去の小説たちは、まっピンクの脳を電車に置いていってしまったので夢の跡となりました。久々に小説を書く用の脳を取り戻したので若干の誤字脱字設定ミスがあるかもしれませんが、お楽しみいただけるとありがたいです。
面白くなければ何処ぞも知らぬ終着駅へ、面白ければ「完結」という名の終着駅へたどり着くことをお祈りいただけると、全くその通りになると思います。
以上です。
ハードワークはいつの日も、俺たちの人生を狂わせる。そんなことを思いながら最上 隼人は物思いに耽っていた。しかし決して校舎の窓際に似合うような内容ではない。
いつかの校長先生だか教頭先生だかが言っていた「みなさんには無限の将来性があります。」についてだ。なんとなく生きてなんとなく働き、なんとなく過ごしたい隼人にとってはありがたいお言葉であったが、現状は変わってきていた。
Aiが仕事を奪う。前々から言われ続けていた由々しき事態が今、当然のように現実味を帯びてきている。どこぞのレジやなんらかの窓口、散髪、病気の診察まで。奪えるものは全て奪わんと、ここ数年で一気に労働者を辞職においやっていった。たとえ、自分がなりたい職業になったとしても、いつかはAiに取って代わられる。隼人は高校三年生にして諦めの境地に至っていた。
既に人々はAiに生かされている。生殺与奪をもって今日もレジや窓口に立ち、散髪や病気の診察をしている。古くなった社会の歯車を取り替える時期がもう始まっている。と、拗らせた思考を少しでも落ち着かせるためか、それとも暇ゆえに体が勝手に動いているのか。彼の右手にはもはや消しゴムそのものに等しいサイズのねり消しをコネていた。
隼人は昔からマイペースだった。そのマイペースに拍車がかかったのは高校に入ってからのことだった。高校といっても地方特有の小中高一貫に等しい生徒のラインナップで、高校デビューなど簡単にしてみれば顔馴染みから笑いものにされること間違いなしだったが、さほど話題にもならず、煙たがられることもなく時は過ぎ、隼人はいつしか高校三年生の春を生きていた。
「ねえ、風見さん。最上くんっていつもあの調子なの?」
そんな中一人、学ランとセーラー服に混じったブレザーの女性がクラスメイトに小さな声で話しかける。
誰だったか。きり、きりしま…
隼人の脳内の話題が彼女の名前に切り替わる。ねり消しをこねるスピードがさらに早くなった。摩擦熱と幾度の柔軟でねり消しが程よく柔らかくなったところで、彼の目に鈍い光が宿った。
桐島 詞音。そうだ詞音だ。印象的な名前だったから逆に忘れてしまっていた。
校長によると剣道の全国大会に入賞する実力の持ち主だそうだ。
そんな経歴を持つ彼女が受験で大変な時期に転校してきた。彼女に対しての生徒の人気は凄まじく、始業式に見せつけた美麗なヴィジュアルと凛としたその所作には多くの男女が彼女に好感と尊敬を持った。まさに才色兼備の権化である。…そのころ隼人は、虚ろな目で別の世界へトリップしていたが。
しかし彼も年頃の青年だ。偶然彼女のことを見たとしても空っぽの脳みそが胸か尻しか見ようとしなかっただろう。入学初日から性的な目で見られることがなかったことだけでも彼女にとっては幸い中の幸いといえる。まあどちらにせよ、男子の「好感」はそちらのエッセンスも含んでいたのだが…それは今語るべき話ではない。
「そうだよ。…もしかして詞音、あいつのこと気になってるの!?やめときなやめときな!!めんどくさいだけだよあいつ!」
詞音の前の席の風見 波美子が必死で彼女を諭す。トーンアップした声は教師の耳に入るほどに教室に響いた。もちろん隼人にも聞こえたはずだ。世の男子は普通に腹が立つ案件のはずだが、彼は動じもせずにねり消しのコネすぎでだるくなった指を休めて、窓の外をじっと眺めている。授業や陰口なぞ隼人の眼中にはない。
「風見さん。恋バナは授業の後にしなさい。聞こえてるわよ。」
小さな笑いが起こる。風見は両手をあわせて反省の意を先生に示した後、再び振り返り、『 ま、じ、で』と口パクで訴えた。
「そういうわけじゃなくて。いつもああやってボーッとしてるの?」
少し顔を赤らめて話す詞音。
「あ…あらら。ごめんね。早とちりしちゃって。うん。いつもあんな感じだよ。」
「ダメじゃない。もう受験の時期なのに…」
流し目で寂しげな表情を浮かべる詞音。
「…なんか詞音ってエモいね。そういう優しいところも詞音の良いところだと思うけど、あんまりあいつと関わんなくてもいいと思うよ。変なやつだし、受験中なんだし。」
悲しげな表情のまま頷いた後、じっと隼人を見つめる詞音。
『 何をやっても無駄だったんだ。そうだろ?』
知らぬ間に重なり合った過去と今が、彼女の心をひどく傷つけていた。
お昼時、隼人の対面にはニヤニヤ顔のヘッドホンの男が座る。性は安東、名は十士真。首から下げた高そうなヘッドホンからは洋楽か何かが流れている。
「国語の松野ってさぁ、絶対ズラだよなぁ。なんでもう少しまともなヤツ被らねぇのかなぁ。」
安東はそう言ってズズズズと紙パックのジュースを啜ると、ヘッドホンから好きなフレーズが流れてきたのか、デタラメな英語を口ずさみながら音楽の愉悦に浸る。隼人は当然のように無反応だ。
安東との出会いは5歳の時だった。当時はまだ明るい性格だった隼人は、さっぱりとした性格の安藤と意気投合した。それから幾年間、別の友達と遊ぶようになったり、別のクラスになったりもしたが、やっぱこれだね。と言わんばかりに、安東が(一方的に)付き合いを続けている。
「で、考えてくれたか?廃墟探索。」
ニヤニヤしながらパンを頬張る安東。隼人は無表情で鮭おにぎりを頬張る。
「それにしてもよぉ、お前ここんところいっつも鮭おにぎりしか食ってねえよなぁ。…パンいるか?廃墟探索と引き換えだけどな。」
そういって安東は我らが桜が丘高校購買部名物、水墨チョコパンをさし出した。水墨画のような濃淡のチョコがパン全体に広がった白パンで、コンビニに置いてある似てるアレより遥かに美味しい。
「…いらない。」
「なんでやねん!お前ここのオープンキャンパス来た時、このパンめちゃくちゃ気に入ってたやないか!」
モーション付きで下手な関西弁が目立つ、ベタベタのツッコミを入れる安東。多分ゆうべにお笑いでも見たのだろう。チッ。と舌打ちをする音がどこかから聞こえた。
正体は波美子だった。ゴミを見るような目だ。隣で詞音が苦笑いを浮かべている。
スベりを自覚したのか、周りの冷ややかな目と、特に鋭い隼人の極冷視線を苦笑いで受け止めながら、パンを強くさし出す。
「お、おい。受け取ってくれよ…こんなにキレイにスベったんだからさ。」
「これが好きなんだ。これ以外だとダメなんだよ。昼は。」
隼人はそう言っておにぎりを食べ終わると、静かに席を立った。
「…ま、いっか。」
教室の外へ出ていく隼人を目で追いながら、ミントタブレットを口に入れた。
屋上。どこぞの学園モノのように、開けた視界と、ちょうど横になれる幅のベンチ。そして複数人の生徒が優雅な昼を過ごすような場所ではない。
フェンスで四方を囲まれ、ベンチなど無く、人も滅多に訪れない。そして端っこのほうには、幾度となく雨ざらしになったパリパリのヤングなマガジンが放置されている。壁には低レベルな下ネタが小さく書かれていて、オマケに床の8割は湿気にやられたのか海苔の色に汚れている、限界空間である。隼人はそこに来ていた。
いつも通り無事な2割の床に寝転び、緑のアイマスクを着ける。
緑は目に良いといつかの何かで聞いたかららしい。目を酷使しているわけでもないのに。
目を瞑ると、まるで世界と一体になったのような気分に陥る。遠くから聞こえるキジバトの鳴き声と、風に揺られる草木の微かな音。考え込みすぎる癖を齢17歳にして改善することを諦めた隼人の生き甲斐はここにあった。何もかもを考えることなく、まるで僧侶の座禅のように心洗われる一時。
ギギっ、と屋上の扉を開ける音がした。何かを躊躇っていたのか、閉まるのに若干の間があった。ハッキリとした足音が徐々にこちらに近づいてくる。タバコを吸おうとした先生か、屋上を見に来た新入生の興味本位な歩みか。いつの間にか世界という一体から抜け出し、隼人という個人の思考が展開される。
「最上君。ですよね?」
予想とは裏腹に、聞き覚えのある声が名を呼んだ。
「…き…きり…桐島さんだっけ?」
隼人は童貞のような臆病な話し方になってしまったが気にしない。童貞だが。
「はい。桐島詞音です。こうやって話すのは初めてですね。」
凛とした話し方で隼人と接する詞音。声の聞こえる位置からして、わざわざしゃがみ込んで話しかけてきたようだ。隼人にも礼儀という社会のマナーは持ち合わせている。とりあえず、とアイマスクを外した。
パンモロ。という言葉が記憶の倉庫から銃弾の如く飛び出してきた。決してそれはギターの奏法のひとつでもないし、某アニメ映画に登場した犬神に破裂音を加えたものでもない。
黙れ小僧と言わんばかりの、太ももと太ももの間から映える、圧倒的なパンモロに数秒間目を奪われていた。
「…眠っていたんですね。起こしてしまってすみません。」
それでもなお清楚に立ち振る舞う詞音。どうやら全く気づいていないらしい。なぜ、こういう真面目で凛とした人間ほど、どこか欠落したものがあるのだろうか。隼人はボサボサの髪を掻きながら、目の前の光景が焼けついてしまいそうなほど凝視する。
「いや、いいんだ。おかげで目が覚めた。」
図らずとも意味深ともとれる発言をして、ゆっくりと上体を起こす。
「で、優等生のあんたがなんの用だ?俺と絡んでるとこ見られて、変な噂広められても知らないぞ。」
すると彼女は悲しげな表情を浮かべた。おやつをすんでのところで貰えなかった犬の表情に似ている。
「そんなこと言わないで。私は最上君が心配なんです。受験も近いのに心ここにあらず。って感じだから…受験は団体戦なんだから、何か思いつめてることがあるなら遠慮なく」
詞音は穴の開いたフェンスから山をボーッと見つめている。
「…あれ?私、今…」
「どうした?用が無いなら戻った方がいいぜ。」
「は、はい!そうしますね。ボーッとしてました!失礼しました!」
詞音は深々と一礼すると、小走りで階下へ向かう扉へと向かった。チラリと隼人の方を振り返ると、さっきのようにアイマスクを再びつけて眠りにつこうとしている。
「…りぃ。また面倒なのが増えたな。」
後ろで閉まるドアの軋む音と共に、隼人の気だるげな声が聞こえた。
キンコンカンコン、と6限の終わりを知らせるチャイムが鳴った。授業中にも関わらずクラスが騒がしくなる。中にはカバンを机に置き、帰宅の準備を始める輩もいた。そんな教室の雰囲気に嫌気がさしたのか、教師の飯田はチョークをそっと置いた。
「…今日はもうここまで。…ああ、忘れていた。連絡事項だ。ここ数ヶ月でうちの生徒数人が行方不明になっている。まあ家出だとは思うが…気をつけて帰るように。以上。解散。」
そう言うと教材などを持って早々と出ていった。行方不明。その言葉に桐島詞音は疑念を抱いていた。
「ねえ波美子ちゃん。先生が言ってた行方不明って」
「あーそれね。あんまり気にしなくていいと思うよー。」
波美子が食い気味で答える。周りの生徒も怯える気配もなく、気にしている素振りも見えない。
「あのね。ここ数ヶ月で行方不明になった生徒っていうのが全部不良でさ。多分あたしたち一般ピープルには関係ない話ってわけ。どっかの女と駆け落ちでもしてんじゃない?」
「そう…それならいいけど…」
詞音はアンニュイな顔で猫のストラップの付いた学生鞄を持ち上げる。
「また暗い顔してる。全く詞音は悲観主義なんだから。ほら!帰るよ!」
波美子に手を引かれて歩き出す詞音。無理をして笑顔を浮かべる彼女を隼人はじっと見ていた。
「でさぁ、その黒いのが襲いかかって来たと思ったら急に辺りが眩しくなってさぁ。」
女子高生の二人が楽しそうにごく平凡な田舎道を歩いている。
波美子がご自慢の奇妙な体験談を話していた。その内容は支離滅裂でありながらも真実味を帯びており、決して信用ならないわけではないが、何もかもを一人で解決している辺り、脚色の気配を感じたのは詞音だけではない。特に詞音が初めて聞かされた話の結末が、
「緑のフードとマントを着けた謎の人に助けられた。」
である。もはや「こうなってほしい。」という理想なのではないかと疑いたくなるものだが、あまりにも彼女が真剣にかつ熱く語るものだから、否定しようとする人間はほとんどいない。
「彼は現代のロビンフッドなのかもね。まだ一回も顔を見せてくれたことがないの。」
ロマンチックな気分に浸る波美子の潤った瞳に、嘘は何一つなかった。
そんな詞音も先程とは違ってにこやかな表情を浮かべている。二人は出会って間もなく意気投合した仲だ(ほぼ波美子の強引な会話によるものでもあるが)。二人の通学路は方向は一緒。詞音は桜ヶ丘二丁目に新しく出来た住宅地、波美子はその先にある櫓神社に。
「何を隠そうアタシは櫓神社の跡取り、風見の波美子様とは私のことよ!」
と、出会って1日もしない間に言われた詞音も、楽しそうに微笑んでいた。あながちミスマッチにも見える彼女らではあるが、確かに気はあっているようだ。
「そしたらその光がごおおおって音出しながら」
パリンッ
「…今なんか聞こえたよね。…聞こえたよね?」
突然真顔になり、音の方を見つめる波美子。十字路の右手のその先には立入禁止と書かれた看板。半開きの錆びた門の向こうには古びた家と荒れ放題の庭が見える。この辺の住人は近寄ろうともしないただの廃屋ではあるが、明らかに波美子の様子が変だったのを、詞音は見逃さなかった。
「どうしたの?向こうの家って空き家なんだよね?もしかして…良からぬ噂があったりとか…する…の?」
波美子は目鼻立ちの整った顔を強ばらせながらも、口角を上げて鼻息を荒くしている。
「するのね。」
力強く何度も頷く。どうやら相当興奮しているらしい。
「うん!詳しくは言えないけど、ここではやばい事がおこ…いや、噂があるの!」
「うん…それで、その感じだと中に入りたいのよね?波美子ちゃん。」
「うーん。行きたいけどちょっと怖いかな〜〜?」
一緒に来て欲しい。そんな気を隠せずにいる波美子を優しい表情でじっと見つめる。自分の身長を活かした上目遣いが炸裂した。
風見波美子は口から産まれてきたという悲しき業を背負うものの、そこそこの美貌の持ち主である故に、「残念美人」と影で呼ばれている。そんな彼女が口を閉じればそこそこ無敵
「だめよ。」
のはずだった。
「やった!ありが、え!?」
真面目な波美子には通用するはずもない。そこそこ無敵の戦術が早速破られた。波美子は微笑を浮かべ続ける。
「お化けに取り殺されたら洒落にならないわ。それに行方不明になった生徒たちをどうにかした元凶がいるかもしれないのよね。」
少し的の外れた正論が波美子を襲う。が、波美子は当然引き下がる。
「いいや!アタシには行かなきゃいけない理由があるの!櫓神社の跡取りの私がいる限り、私たちの安全は保証されたようなものよ!それにこんな所で誘拐だなんだが起こっていたら周りの住民からバレるに決まってるわ!」
「帰ります。」
「行こう!」
「帰ります。」
「詞音お願い!黙って私と来て!」
真剣な眼差しがお互いを見つめ合う。幾度となく通行人が通ったが、二人とも気にすることなく視線のぶつかり合いは続く。
「…どうやら、私の負けみたいね。」
いつまで見つめあっていたのだろうか。先に折れたのは詞音だった。まるで波美子の保護者ような立ち振る舞いである。
「やった!ありがとう!詞音大好き〜〜!」
喜んで小躍りする波美子。それに反して詞音の表情はまるで、巌流島へと向かう宮本武蔵。命のかかった戦いへ赴く戦士そのものであった。
「延々と睨み合ってても仕方ないもの。さあ、行きましょう?あなたに何かあったら私が護ってみせるわ。」
波美子の熱い抱擁をさらりと無視し、錆びた鉄門に手をかける。ギギギと嫌な音をたてて動くと思いきや、すんなりと門は開いた。
「いやちょっと待ってちょっと待って!詞音ってば切り替え早すぎ!それに守るって何!?私がそんなに頼りないわけぇ!?」
スタスタと歩き出す詞音とそれを困惑しながら追いかける波美子。その様子をずっと後ろの方から見つめる人影があるのに、彼女たちは気づかなかった。
「うぅん。なにもないですね。」
家の周りを探索し終えた詞音が土まみれになった靴を手で払いながら言う。一方、開け放たれた家の中をとうに調べ終わっていた波美子は暇を持て余し始めたのか、庭で拾った、トマトなどを育てるときに用いる支柱を振り回すと、詞音がまるで3歳児の愚行を止める母親のような素振りでそれを止めた。
「むー…あんたほんとに保護者みたいね。保護者面するために産まれてきたんじゃないの?」
波美子は彼女のそのスタンスに不満があるようだ。ほっぺたを膨らませて不機嫌のアピールをとる。
先程のガラスの割れるような音と一致するような物は落ちてはいなかった。それどころか、廃屋の窓ガラスにもヒビひとつ入っておらず、庭にもバラバラになったプラスチックの植木鉢がそこらじゅうに散らばっているだけだった。家の裏手にも割れるような物は一切置いてありはしない。
「ねえ、あの何かが割れたような音、本当にここから出た音なのかしら。もしかしたらここのお隣さんが、グラスか何かを落としたのかもしれないわ。」
詞音が小さめの声で波美子に言った。自分が的外れな事を言っているのは承知だった。しかし、ここまで探してガラス片の一つも見つからないのはおかしすぎる。
異様な事がここで起こった。その不鮮明な事実だけで胸騒ぎが止まらない。
「何言ってんの〜!この私が聖の櫓で見たんだから間違いなんてありゃしな」
バリン
音とともに静寂に包まれる空間。凍りついたように動きを止めた波美子に、詞音はそっと近づく。
「こ、詞音。今、む…向こうの方で…」
「分かってる。波美子はここにいて。私が見に行ってくるから、何かが来たらすぐに逃げなさい。」
「で、でも。そんなことしたら詞音がぁ…!」
「私なら問題ありませんよ。自分の身は自分で守ります。」
自分だけならいざ知らず、詞音という大事な存在を連れてきてしまった重みが強くのしかかる。今までは一人で危険な所に入ってきて、(彼女曰く、)強大な危機を回避してきた。誰かに来てもらう。ということは、その誰かにも危険が及ぶということ。正義感の強い真面目な詞音は身を呈してでも波美子を守ろうとするだろう。今まで様々なまぐれに助けてもらったが、今度は詞音の命を伴ったものになるのかもしれない。そう思うと涙が止まらなくなった。
「もういい!行かないで!詞音がいなくなるのが怖いよ!…早く一緒に逃げよう!」
「大丈夫。こう見えても私、武闘家の名門の生まれなの。」
笑わせようとして言ったのか、それとも真面目に言ったのか。その真意はわからないが詞音は颯爽と行ってしまった。取り残される孤独感より、一生どこかに行ってしまうのではないかという不安が、波美子の心をギリギリ痛めつける。
家の裏手が見えるまであと数歩のところで、詞音の足が止まった。ゴソゴソと、物音が聞こえる。何かを漁っているような音だ。家も軋み、土壁の土が零れ落ちてくる。
誰かが、いる。
その場にしゃがみ、壁にもたれてカバーの体勢をとった。近くの山から降りてきた熊ではひとたまりもない。彼女は軒下に落ちてあった物干し竿を拾った。水で所々腐敗して、穴が開いているが、使えないこともない。
今しか正体を確かめるチャンスはない。遠くの雑木林の方を一瞥したあと、彼女は意を決して飛び出した。
…何もいない。しかし詞音の視線はその家の壁にあった。
土壁が歪に凹んでいる。土壁が「凹む」という表現は間違いではない。すさまじい衝撃があったであろう跡形の周りには、まるで落としてしまったスマートフォンのような蜘蛛の巣状のヒビが広がっていて、下にはこれまたガラス片のような壁の破片が散らばっている。さっき周辺をうろついた時にはこんな跡はなかった。
一体誰がこんな人間、いや、動物離れしたことができるのだろうか。詞音はそこそこ無敵女子のワガママを聞いたことを後悔していた。
「ひっ…!いやっ!やめて!」
しまった。と目を見開く。恐怖におののく声が表で聞こえた。波美子だ。パリン。というさっきの音が命の危険をさらに想起させる。
得体のしれない恐怖に怯える暇もなく、詞音は走り出した。
詞音が最初に見たのは、建物の低い田舎故に強く照りつける西日と、その後光に包まれながら、フードを被った学生服の人物に羽交い締めにあう波美子の姿だった。桜ヶ丘の制服だ。
次に目についたのは、一部を粉々に砕かれて夕日を乱反射する緑の何か。…それはまさしく、今さっき波美子が振り回していた支柱であった。しかし明らかに様子がおかしい。プラスチック製品の持つ輝きではない。まるで緑の一升瓶のような輝きだ。それはまさしく…
「ガラス…!?」
非現実的な考えが確信へと変わる。先程の不可解な壁と合わせて考えると合点がいった。しかし何故、それらがガラスとは気づかなかったのだろうか。
「詞音!…私はいいから早く逃げて。」
案外冷静沈着な波美子が、震える声を押し込めるように言った。
「何言ってるの!そこのあなた!彼女を離しなさい!」
物干し竿を背の高い人物に向けてにじり寄る。その構え方は棒術を彷彿とさせる。どうやら武闘家から教えを受けたのは事実だろう。
「ほう。あの壁の有様を見てもまだかかって来るのか。ビビって逃げると思ったら、なかなか気の強い女じゃねえか。」
声からして男。痩躯ではあるが、波美子の抵抗を難なく押さえつけるあたり、体は出来ているようだ。
「黙って。早く離さないとそのおしゃべりな喉を突くわ。」
喉がおしゃべりとはどういうことだ。喉仏がやたらと上下しているのか。と、そんな冗談を言っている場合ではない。
突っ込みづらい詞音の天然が炸裂したが、確かに狙えない距離ではなかった。見たところ凶器を持っておらず、さらには身長差のせいで己の身を庇えないという、誰のせいでもないミスを犯した以上、詞音曰く武闘家の娘というステータスは、フードの男にとって不利以上の何物でもない。
しかし、男はどっしりと構え、フードのから除く口をにやりとさせる。
自信に溢れたその不敵な笑みを警戒してか、それとも例のガラスの怪現象を恐れてか、桐島詞音は動かない。
「どうした。かかってこないのか。ほら、こいよ。」
「あんたなんて!あの人がイチコロなんだから!ていうかあんたフード被るのやめなさいよ!キャラ被ってんのよ!」
波美子が別のベクトルで怒りだしたのを見越して、男は面倒くさそうに波美子の両頬をつまんだ。
「む〜〜〜!!」
カップルの戯れのような光景だ。波美子も顔を赤らめているので余計そういった関係に見える。
「今。」
途端、詞音の強烈な踏み込み。右に持った物干し竿を切り上げの要領で、波美子の腕、肩を掠めるようにして男の右顎を直撃する。はずだった。
刹那であった。男の右腕が物干し竿を受け止める。その瞬間、そこの空間ごと破れてしまったかのように、光り輝く何かが拡散する。
強烈な破砕音が辺りに響く。周囲には鋭利なガラス片が舞散り、粉塵と化したものが夕日を照らし返す。詞音の体勢がまるで、何かに押し飛ばされたかのように崩れた。一方男はピンピンしており、舞ったガラスから波美子を守るジェントルな一面すら見せている。
『なんで!?私の攻撃が読まれていたの…?だとしても、こんなガラス、一体どこから…』
右手の物干し竿に目をやる。しかしそれはガラス。無残に砕かれたガラスだった。物干し竿の中にガラスを仕込んでいたのだろう。腕との強烈な衝突で耐久力がなくなったそれは無残に弾け、予想もせず虚空を振り切った腕が平衡感覚を狂わせたのだ。なんたる不覚。
『ああ、そうか。私…』
敗北。その二文字が頭に浮かぶ。しかし、何があっても波美子を守る。あの時護ってくれたあの人のように。意地でも。
詞音は何を思ったか、手で銃の形を作る。そしてそれを男の頭に向けてぶっ放した。
「ばん。」
気の抜けた発砲音を発したあと、満足気な笑顔を浮かべたままゆっくりと、目を閉じた。
「お疲れさん。後はゆっくり寝てな。」
どこかで聞いたことのある声が彼女を労った。意識が遠のいていく。
「大丈夫。絶対あの人が来てくれる。詞音のことを助けてくれる。」
自分を暗示にかけるように繰り返す。緑のマントを風になびかせて、全速力で来てくれる。
その時、波美子は確かに聞いた。遠くの方から聞こえる銃声が。
その時、波美子は確かに見た。ガラス片を庇う男の腕の間から、確かに見た。雑木林から一筋の光がこちらに向かってくるのを。
光。多分あの人だ。
その光は波美子の右上を通過し、男の体を強く震わせた。男のちょうど眉間辺りに命中するのを確かに見た。
「…馬鹿な。」
力強く拘束していた腕がするりと離れ、体の緊張と共に、動悸を伴ったスローモーションも解除されて、ガラスがあれよあれよと地面に落ちる。幸いコンクリートではなかったので破片の破片が再び飛び散ることはなかった。
「…!詞音!?」
つい自分のことだけを考えすぎていた。我に返った波美子が詞音がいるはずの空間に近寄ろうとする。しかし、緑のカーテンがそれを拒んだ。
「…なにこれ?」
よく見るとその緑にはガラスが刺さっており、その部分から赤い染みがじわじわと広がっていき、痛みに苦しむ呻き声が聞こえる。
「ロ、ロビンフッド!?」
「…無事だったか。さすがは櫓神社の跡取り、だな。」
「喋った…ていうか血塗れじゃない!早く手当しなきゃ」
「俺のことはいい。人のこと心配してないで自分の心配してな。」
「大丈夫、怪我してない。私のことはいいから…詞音は無事なの?」
何事もないかのように立ち上がり、辺りを見渡す通称ロビンフッド。深く被られたフードは濃く黒い影を落とす。血塗られたマントの先には詞音が倒れていた。外傷は見当たらない。どうやらロビンフッドが守ってくれたようだ。気を失っているのか、目を瞑ったまま動かない。
「よかった…」
緑のマントが翻り、ロビンフッドがもう一人のフード男の方に向かう。
「野郎…逃げやがったか。」
男が倒れた位置に、少しの血溜まりがあった。隙を見て逃げたようだ。
「嘘…頭を銃で撃たれてまだ動けるなんて…」
「…何?銃?」
「…?あなたが撃ってくれたんじゃないの?そこからここまで一瞬で来て詞音を守ってくれたんでしょ?」
「銃か…彼女か?」
波美子を華麗にスルーして現場検証をつづけるロビンフッド。
「血溜まりの中にはガラス片。どうやら奴は相当厄介かもしれない。触れたものをガラスのようなワレモノにするようだ。」
波美子の頭に大量のクエスチョンが浮かぶ。今なんて?と言いたくなるような発言だ。
「俺が今言ってたこと、そのまま彼女に伝えておいてくれ。じゃあな。」
「待って!…せめてあなたの怪我だけでも診させて!」
波美子は頭がバグりそうになりながらも男を呼び止めた。
「…絆創膏くらいしか持ってねえくせに。ちょっと後ろ向け。」
そう言われると素直に、男を背に後ろを向いた。沈み行く夕日が目に眩しい。
「いいか。もう俺のことは忘れて今を生きるんだ。俺みたいにならなくていい。」
頭を優しく撫でられる。幸せな気分。このまま、何も考えないでゆっくりと
「波美子ちゃん!!」
「…あれ?」
我に返った時、彼の姿はもうなく、夕日も沈んで夜を迎えていた。波美子の目の前には詞音が強ばった表情で必死に肩を揺さぶっている。
「ちょっと!痛いよ…それより詞音…目が覚めたの?」
波美子の気の抜けた返事に、詞音の顔から緊張が消える。ホッとしたのか、いつもの微笑が戻ってきた。
「えぇ。なんとかね。目が覚めたらあなたが一人でボーッと突っ立ってるからびっくりしたのよ?」
「あれ…?そういえばロビンフッドは…?」
波美子はまだ呆然としている。詞音は彼女の状態を察して優しい口調で話しかける。
「…いいえ、もういないわ。例の彼が私たちを助けてくれたのね。とりあえず明るい所に行きましょう?」
「ねえ、何が起こったの?私今…ロビンと一緒に…」
詞音に手を引かれて歩き出す波美子。周囲はまるでさっきの出来事がなかったかのように静かで、弱々しい月光。まるで時間を「えぐり取られた」かのような状況だ。
この何とも言えない奇妙な状況に波美子はともかく、詞音は動揺と恐怖を隠せずにいた。
『あのフードの男、頭の額ど真ん中に『あの一発』を受けても無事でいられるなんて。相当危険な相手だわ。
…それにしても波美子ちゃんのあのボーッと症状、どこかで…』
波美子が後ろを振り返った時、不気味に月明かりに照らされる空き家の屋根から、小さく黒い影がじっと彼女を見つめているのに気づく余裕は今はなかった。
後書きです。
後書きといいましてもこの物語、1話ごとに、起、承、転、結、の4部と、ジョー○○ー家は数回代替わりしているであろう構成になっております。
これを日によってバラバラに投稿するかは私投稿者の気の迷いで変わるとは思いますが、安東のクソみたいなギャグ同様、突き刺さるような冷たい視線をお送りいただけると…どうなるんでしょうね。多分怖がります。
とにかく早く書く努力はすると思うので、お客様は神様を超えた上位体だといわんばかりの威圧的なレビューをよろしくお願いします。感想でも批評でもなんでも構いません。ハゲみますので。
残りの承、転、結もどうぞよろしくお願いします。