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鷺沢くんのシャープペン  作者: 三千
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鷺沢くんのシャープペンを狙う


私が、高校卒業まであと半年、という中途半端な時期に恋に落ちたのは、通学で使うJRの車内でのことだった。


私は毎朝、家を早く出る。


そうすれば、朝から説教か教訓を垂れるかが延々と続く、父親との朝食を回避できるからだ。


学校に早く着いてしまっても、学校や教室の静寂は嫌いではない。


途中で買ったコンビニパンをかじりながら、本を読んだりぼんやりしたりして、授業までの時間を潰す。


心の平穏を保つ、一つの方法でもあった。


いい頃合いの時間になってぽつぽつと生徒が入ってきても、誰も私には声を掛けてこない。


それは私に声を掛けても、無愛想にしか返ってこないか無視されることを知っているからだ。


無関心で無反応。


それは厳しい父親に叱責されながら身を縮こまらせて育ってきた環境から得た、生きる知恵のようなものだ。


けれど、高校に入るまでに、その方法しか身につけられなかった今までの自分を、心底バカだったんだなと思った。


周りの人たちのやり方を見て、父親やそんな父親を野放しにする母親を回避する方法が色々とあったんだと知って、私は一度だけ奈落の底なるものに転げ落ちて傷を作った。


家は家、学校は学校と、二人の自分を演じ分ければ良かったんだ、ただそれだけのことだったんだ。


そんな結論を導いて、膿んだ傷を抱えたまま、ようやく穴から這い上がった。


そうやって人形のような毎日を過ごしていると、外の世界に触れる感覚まで麻痺して狂ってくるらしい。


「M子ってさあ、つまらん子だね」


つまらない人間と言われて、学校の帰り道、初めて涙が零れ落ちるのを止めることができなかった。


けれど、泣いた顔で帰っても、母親はいたっていつも通りに「今日は晩ご飯食べるの?」と訊き、それが可笑しすぎて私は部屋でも笑いながら泣いた。


そんな風に細く浅い呼吸を繰り返しながら毎日を過ごしていたので、恋に落ちる、そんな劇的なドラマがこの身に起きるなんて思ってもいなかった、という。


私はいつもと同じ時間に乗る電車を待っていた。


早朝だから、いつも乗客は数人しかいない。


見覚えた面々を視界に入れながら、私はホームに入ってきた電車に乗った。


乗客を乗せ終わってドアが閉まるという時、バタバタと駆け込んできた男がいて、その反動で電車がわずかに傾いだ。


その浮遊感で、顔を上げると、そこには見覚えのある顔。


同じ学校、同じクラス、野球部のその人は私の斜め前で、いつも背中を丸めて座っている。


もちろん話したこともなく、顔を見合わせて視線を交わしたこともない。


名前は確か、サギサワだったな。


けれど、それと同時に、私は驚いてもいた。


鷺沢くんは何と、赤いランドセル背負った女の子を右脇に抱えていた。


「……ふは、はあ、はあ、何とか間に合ったな」


右脇に抱え込んでいたオレンジ色のスカートの女の子を下ろすと、私が座っているシートの前にどかっと座り、斜めがけにして背負っていたスポーツバックを隣に下ろした。


女の子はそのバックの反対側にそろりと座った。


幼女誘拐。


不穏な言葉が頭の中に浮かんだけれど、そんなことあるわけないかと呆れながら、私は目を伏せた。


いつもは会わないのに何で今日は、と心で一度だけ思った。


遠くで、ピィーっと笛の音が響く。


ドアが閉まる音と鷺沢くんの荒い息が重なって、耳へと滑り込んでくる。


「あ、」


その声で、私は思わず顔を上げた。


鷺沢くんが驚く顔って、こんななんだと思ったけれど、私はすぐに目を伏せた。


すると今度は、鈴を転がすような可愛いらしい声が。


「お兄ちゃん、知ってる人?」


「……ああ、同じクラス」


ぶっきらぼうに、そう言うのが聞こえて、私は更にぐっと目を瞑った。


このまま駅まで、絶対に絶対に目は開かない、それぐらいに強く思いながら。


「お兄ちゃん、どんなお友達なの?」


野球部で、背が高くて、優しくて、それに加えてカッコいい、そんなお兄ちゃんだから心配なんだね、そう心で毒づく自分を心で舌打ち。


まったくもって、私は相当にひねくれたイヤな奴だ。


「女の子で、髪は一つで後ろ結び……カバンにクマが付いてる。えっと、名前は……ま、まきた」


私はその言葉で、つい目を開けてしまった。


鷺沢くんとバチっと視線が合い、慌てて女の子に視線をずらすと、今度は視線は合わなかった。


分厚いレンズのはまったメガネをかけたその女の子は、これでもかというくらいに目を細めている。


「クマはどんなクマ?」


そこで、私はようやく気がついた。


もしかしたら、彼女は目が見えないのかも、と。


「え、ああ、茶色でふわふわしてる」


「お兄ちゃん、そればっかり。ふわふわしか言わないじゃん」


「だって、ふわふわなんだから、しょうがないだろ」


気がつくと、私はもう一度鷺沢くんを見ていた。


そして彼も。


彼も、妹に話しかけながらも無表情で、私を見ている。


そして、どうしてそんな気持ちになったのかは分からないけれど、私は挨拶くらいはと思い、「おはよう」と言った。


鷺沢くんが少しだけ驚いた表情で、口を開けて、おう、という形を作ると同時に、ころころとした声が車内に響いた。


「おはようございます。いつもお兄ちゃんがお世話になっています」


「あ、あやっ」


「だって、お兄ちゃんのお友達でしょ」


「……そうだけど。お前、誰にでも、それ言い過ぎ」


鷺沢くんの苦笑した、いや、はにかんだ顔。


そして、私はその時、恋に落ちたのだ。


同じ学校、同じクラス、野球部、私の斜め前で、いつも背中を丸めて座っている、だけじゃなく、そこに「妹思い」の項目が新たに追加されて。


「こちらこそ、お世話になってます」


いつも返事をどうやって返していいのか分からないくせに、今回ばかりは口からするりと言葉が出た。


そしてこの時、私の世界が一変した。


何を見ても、何を知っても、何を選択しても白黒の世界だったのに、そんな世界に一つずつ灯りが灯っていって、そして元からそこに存在していた、色とりどりの極彩色を鮮明に浮かび上がらせる。


目の前に、開けた世界が広がっていく。


いつも通りの見慣れた風景が、キラリと明るく輝き始めた。


ゆらゆらと揺れる吊り革。


眠たそうな子どもをあやす母親の優しい手。


ドアが開くたびに忍び込んでくる、少し冷たい空気。


鷺沢くんの優しさを含んだ低い声。


一人っ子の私があまり耳にする機会もなかった、女の子の甘えた声。


「あや、今日は母さんが迎えに行くからな」


「うん、」


「何だ、どうした?」


「ううん、」


「気になるだろ、言えよ」


「だって、お兄ちゃん、いつも家ではママって言うのに変だなって」


「あ、あやっっ」


その端正な顔が、さらに焦ったような困ったような恥ずかしいような、そんな顔に。


私は可笑しくなって、けれど失礼にならないように口の端だけで薄く笑った。


私はこの朝の出来事を、大切に心の中へと仕舞った。


恋に落ちた瞬間も一緒くたにして。


そして、その時心に決めたんだ。きっと、彼のシャープペンを手に入れる、と。


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