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あの人の言葉

作者: 琥珀ルイ

前に投稿したものの、削除してしまった「言の葉」という作品の「言葉は誰にでも使える魔法」というセリフの意味を回収するために書きました。

良ければ是非!

 水の中を漂っているような感覚だった。


 意識は朦朧として目を開けることすら難しい。


 僕は何故ここにいるのか、そもそもここが何処なのかも分かっちゃいない。


 ただひたすら優しく全身を包み込まれている。


 けれど、それが本当に水なのかも分からない。


 安心感だけが僕の胸の内に顕在していて、他のことは気にならないほどに満ち足りていた。


 それだけで十分だと、僕の内側から誰かが言った。


 ふとあの人の言葉が、まるで突然水面へと浮かび上がってくる水母のように頭の中で浮上した。


「言葉はね、誰にでも使える魔法なの」


 意味がさっぱり理解出来なくて、忘却の彼方へと追いやっていた言葉だ。


 これを聞かされた時、僕はいくつだったろう。


 小学校に入学したばかりの頃だった気もするし、それよりも前だったような気もする。

 とにかく曖昧なのだ。


 あの人はもういないし確かめる術もない。


 僕を産み落としてから体調が徐々に悪くなっていき、病に冒されていった。病名は知らない。


 教えてくれる人は誰一人いなかったし、別に訊こうともしなかった。


 小学四年生の体育の授業中でだった。顔を強張らせた隣のクラスの担任が体育館に駆け込んできた。


 僕のクラス担任に耳打ちをすると、僕の担任は血の気の引いたような青ざめた顔になり、一点をただじっと見つめていた。


 その視線が何処に向いているのかは、火を見るよりも明らかだった。


「横井君。今すぐお母さんの所へ行きましょう」


 半ば強引に腕を掴まれ、体操着のまま担任の車に乗せられた。


 授業は隣のクラスの担任が引き継いだらしい。


「お母さんが今とても危ない状態らしいの。お父さんから学校に電話があったみたい。心配だと思うけどもう少し待ってね。病院まで遠いけどできるだけ急ぐから」


 かなり呼吸を荒らげた様子で、言葉が驚くほど早口だった。


 僕は「はい」と短く答えるしかなかった。


 移動時間は驚くほど長く感じられ、誰かの悪意のように信号に何回も足止めをくらい、病院についたのは結局二時間後だった。


 病室に着いた時には、もう母に医療器具はつけられていなくて、父が母の手を強く握りながら子どものように泣いていた。


 いや、鳴いていた。


 僕はその瞬間、大人の男も声を出して泣き叫ぶことがあるのだと知った。


 担任は僕を連れて来たことも忘れて、母のベットに駆け寄る。


 涙をポロポロこぼしながら、父と同じように泣いた。


 家族でもない彼女が、どうして一緒になって涙を流すのか僕には疑問で仕方なかった。


 今になってみれば、当時の担任は余程感受性が豊かだったのだろうという風に思うことが出来るし、到着が遅れたことへの罪悪感も少なからずあったのだと思う。


 僕は母の最期に間に合わなかったからと言って彼女を責めるつもりはないし、むしろ遠くまで車を出してくれたことへの感謝しかない。


 到着が遅れたのは仕方の無いことだったのだ。


 二人の大人が普段とは異なる一面を見せている間、僕は立ったままベットに横たわる母を見ているしかなかった。


 大人でさえも、子どもに戻ったように泣かせてしまう「死」というものを、この時初めて僕は認識した。


 十分ほど経っただろうか、父は僕に気が付いた。隣にクラス担任がいたことにも今気付いたみたいだ。


「あ、どうも。すみません。ありがとうございます」


 父は赤くなった目をこすり、さらに赤くしながら担任に頭を下げた。


「いえ、私まで泣いてしまい申し訳ありません。お邪魔になってはいけませんので、これで失礼させて頂きます」


 担任もまた、目を赤くして父に頭を下げる。


 父は無理をして作ったような汚い笑顔で

「彼女もきっと喜んでいます。死んでしまうのは悲しいことですが、先生にまで涙を流してもらえて彼女も報われるでしょう。息子を送って頂きありがとうございました」


 お前もお礼しろと父に頭を掴まれ、今度は一緒に頭を下げた。


「それでは、私はこれで」


 と担任はハンカチで目元を押さえながら病室を後にした。


 父に促され、母のベットへと近づく。


 気持ちよさそうに眠っているようにしか僕には見えなかった。


 けれど、そこにいるのは心臓の鼓動が止まってしまった肉の塊だ。決して母ではない。


 今はもう、母だったモノでしかない。


 それをどうして、母だと思い、悲しむことができるのだろう。


 母は死んだのだ。母の亡骸は母ではない。


 この時だった。


 僕が母を「あの人」と呼ぶようになったのは。


 何故そう呼ぶことにしたのかは、はっきりと自分にも分からない。


 ただ、自分の母は死んでこの世にいないのだと自覚するためだったのかもしれないし、何か別の意図があったのかもしれない。


 これは当時の僕に訊いても首を傾げるだろう。


 自分のことを一番理解しているのは自分だと、そんなことを口にする人たちは多くいるけれど、僕はそうは思わない。


 むしろ一番自分を知らないのは自分だと、僕は思っている。


 他人に言われないと自覚出来ないことの方がはるかに多いと感じるからだ。


 だから「あの人」と呼び方を変えたことの理由を、意味を、僕は知らない。


 あの人にどんな言葉をかけたのだったか。


 もう忘れてしまった。


 あの人の言葉の意味を僕は考える。


 言葉が魔法。


 その意味は彼女にしか分からない。


 でも、「言葉」とはどんなものよりも強力な力を持っているのだとは僕も思っている。


 辛い時や悲しい時にかけられる言葉は、普段よりも温かく、優しく、じんわりと染み込んでくる。


 人間は言葉一つで、気持ちを簡単に変化させられる。


 実に単純で複雑な生き物なのだ。


 それはもちろん良い場合もあるし、悪い場合もある。


 落ち込んだ気分を明るくもできるし、明るい気分を落ち込ませるのだってできる。


 言葉は薬だ。正しく使えば良い効果をもたらす。しかし間違った使い方をすれば、悪い結果をもたらす毒でしかない。


 そういった意味では「言葉は魔法」というのも理解出来なくもない。きっとあの人も同じようなニュアンスで使ったのだろう。


 僕が母をあの人と呼んだことも、もしかするとこれに関係があるのかもしれない。


 母の死を受け入れたくなかったがために「あの人」と呼ぶことで、自分に魔法をかけていた。


「あれは母ではなく別の人間だ。母は死んでいない。死んだのは『あの人』だ」と。


 そんな風に考えると、それが答えのような気がした。


 母の死を一番悲しんでいたのは僕だったのか。魔法で自分の気持ちを殻に閉じ込めて、別の自分を演じていた。


 母の死という現実から目を背けて。


 ようやく答えにたどり着いた時、不意に眩い光を全身で感じた。


 ゆっくり目を開くとよく知っている天井だった。


 ああ、僕の部屋か。外では雷が鳴り響いている。


 夢を見ていたのか。やけに不思議な夢だった。


 首に電流が走ったような痛みを感じた。

 手で触れると首には縄が縛りついていた。


 状況を把握できずに、重い体を起こし周囲を見渡す。


 足元には倒れた椅子。天井をよく見るとちぎれたロープが垂れ下がっていた。


 急いで鏡で自分の姿を見る。首元にはやはり縄が縛りついていて、皮膚は青く変色していた。


 これじゃあ、まるで、首吊りじゃないか。


 恐怖がこみ上げてきて体が小刻みに震える。


 それを嘲笑うように悪意を持った雷鳴が容赦無く轟き、雨と風がそれに便乗する。


 次に黄色い光が部屋中を包んだ瞬間、僕は気を失った。


 *


 首元の痛みで目を覚ますと、外はすっかり晴れて昨日の悪意は綺麗さっぱりいなくなっていた。


 そして全てを思い出していた。


 自分が首吊り自殺をしようとしたことを。それに至るまで経緯を。


 動機は単純だった、会社での上司のパワハラに耐えられなくなった。それだけだった。


 毎日意味もなく僕を怒鳴り散らし、殴られる日もあった。けれど、仕事を辞めるわけにはいかなかった。


 奨学金の返済もあるし、苦労して決まった唯一の就職先だったためどうしても続けたかった。


 しばらくすれば何か変わるはずだと信じて。


 そんな淡い期待は半年たっても、一年経っても叶うことは無かった。


 ほかの社員も上司に嫌われるわけにはいかず、僕を助けようとは誰もしなかった。


 抵抗するのも途中で止めた。死んだように毎日会社に行った。


 そんな日々が二年半も続いた。


 ストレスで髪は抜け始め、食べ物の味がわからなくなった時はとうとう終わりだと思った。


 もう生きていても仕方が無い。いっそのこと遺書に上司のことを書いて、彼を一生苦しませてやろうと思って自殺を決めた。


 首吊りにした理由は特にない、強いて言えば血が出ないからだろうか。


 実際はよくわからないけれど、首吊りならば警察も処理が楽だろうという勝手な考えだ。


 だから僕は昨日の夜自殺を決行した。

 筈だった。


 首吊りで失敗なんてあるのだろうか。


 気を失っている間見ていた夢。


 はっきりとは思い出せないけれど、夢を見ていた間はとても安心していた気がする。


 もしかするとあれは母が見せていたのかもしれないとふと思った。


 ここに来るのはお前にはまだ早いと。


「言葉は誰にでも使える魔法」


 母はこのことを僕に伝えたかったのだろうか。


 これで現状がどうなるのかはわからない。


 ただ何もしないよりはましということだろうか?


 いや、違う。そうじゃない。


 もっと言葉通り。そのままの意味だ。


 そうか。


 今全てを理解出来たような気がした。


 夢で聞こえた誰かの声は本当の僕だったのか。あの日隠してしまった本当の自分。


 なるほど。そういうことか。


 少しばかり気を張りすぎていたのかもしれないな。


 まずは退職届でも提出して、先のことはそれからゆっくり考よう。


「甘えるな。泣くな。逃げるな。我慢しろ」


 そんな自分を追い込むような魔法を、僕は無意識にかけていたのかもしれない。


 母の死の時といい、今回の事といい、僕はどれだけ自分を律したいのか。なんだか笑えてくる。


 でもそれも今日で終わりだ。


 今度はどんな魔法をかけようか。


 まずは簡単にシンプルに平凡に当たり前に、そんな魔法が良さそうだ。


 それならこんなのはどうだろう。


「生きるのはゆっくりでいいんだよ」


 うん。


 これにしよう。



最後までお読み頂きありがとうございます。

感想などもお待ちしております!

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― 新着の感想 ―
[一言] とても素敵な作品でした。 言葉の重みを実感させられるような、 言葉によって傷つき救われたりするのかなと 思いました。 有り難うございました。
2016/09/24 18:42 退会済み
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