A=B
「は……っ、はあはあっ……!」
紐が緩んだ靴とぎこちなく動く心臓の音。脚が石のように硬い。
吸っても吸っても酸素が行き渡っていないような感覚。吐いても吐いても息が出ないような辛さ。呼吸が役割を果たさない。
走っても走っても、何故か--
「おい、居たぞ!」
「クソ……っ!」
見知らぬ男達に追いかけられ、状況がよくわからないまま街の中を駆け回り、肺と心臓と脚が限界を迎えようとしていた。
一体なんなんだ。誰かと人違いされてるようだったので誤解を解こうと思って話しかけようとしたら暴力ふるってくるし、小さいけれど刃物のようなものを左手に持っていて振り回してくるし、話にならない。刺されるのも嫌なので逃げ出してしまったが、果たしてこの行動が正解だったのか。
「……ッ!!」
左の首筋に激痛が走った。路地裏に回り、倒れこむようにしてその場にしゃがみこむ。本当に今日に限ってここまで運がないのか、この痛みはさっきもキた。もう五回目くらい。太い針でいきなり突き刺される、息が止まるような痛み。
「アイツどこいきやがった!」
「まだ近くにいるはずだ、探せ」
近くからさっきの奴らの声がする。見つかるのも時間の問題だ。
頬を伝う汗を拭い、呼吸を整える。
「どうしろってんだよ……」
心の中の感情を地面へ吐き捨てる。
今鞄の中にあるのはリンゴ一つに暇つぶし用の本、そして少しばかりの金銭。散歩するために外に出たので、持ち物が貧しい。これでは何もできないだろう。
路地裏はまだ奥に続いているようだったけど、下手に奥に突っ込んで行き止まり、そして見つかり袋小路というのもごめんだ。既に周りに敵がいるという面ではもう袋小路かもしれないが。
首の痛みもだんだんと和らぎ、壁に寄りかかりながらゆっくりとその場に立つ。目眩はするものの、なんとか歩けそうだ。でも全力疾走で逃げるということは出来なさそうだった。
「ニャア」
「ん?」
足元に黒と白の斑の猫が現れた。路地裏からやってきたらしい。首には赤い首輪をつけ、この場に似合わない美人だった。その場でクルリと一周し、チラリとこちらを見てから路地裏の奥へ歩き始めた。……着いてこいと言うのか。少し抵抗があったけど、どうせ外にも逃げ場はない。それに猫が奥からきたなら、路地裏の奥にも道が続いているということになるのではないか。都合良く考え、一か八かに頼り、足音を立てぬようゆっくりと猫の後ろを着いて行くことにした。
にしてもこの猫、薄汚い路地裏を来たと思われるのに綺麗だな。汚れ一つない。首輪もしているし、近くに家があるのだろうか。
「ニャー」
「人の言葉で話してくれなきゃわかんないよ。……ん?」
路地裏の行き止まりに、ボロボロのドアとインクが剥げてよく読めない字が刻まれている看板があった。生活感はなく、見た目からして空き家のようだった。スタタタっと駆け足で猫はドアの元に向かい、鋭い爪でガリガリと引っ掻き始める。
「開けろって?」
「ニャアア」
「……わかったよ」
埃かぶったドアノブをはたいてから、右にひねって奥へ押しこむ。思っていたより簡単にドアは開いた。鍵もかけられてない。すぐに猫は僅かに出来たドアと壁との隙間から部屋へ入り、後ろを振り返って「ニャー」とまた一鳴きした。それに続いて僕も足を踏み入れる。
「あ、いらっしゃいませー!」
「え?」
猫に目を取られ、下を向いたまま部屋へ入ったので、突然の声に驚き尻餅をつきそうになる。
視線を上にあげ部屋を見渡してみると外から見たオンボロとは大違いで、赤いカーペットにカウンター席、ビリヤード場やダーツなど、設備もしっかりと整っていた。
奥からパタパタと大きめのスリッパを履いた幼女が出てくる。
「お一人様……いや、お二人様ですか?」
「え、ああ猫は僕のじゃなくって」
「二人よ。私はいつものヤツね」
後ろから知らない女性の声が聞こえ、驚いてそっちへ振り返る。
「ハァイ、ラッキーボーイ」
そこにはさっきまで居なかった、肌の白い外国人の女性がドアに寄りかかり立っていた。スラっと伸びた白い足を交差させ、ニコニコ顔でこちらへ手を振っている。
「あ、あの。どこかでお会いしたことありましたか?」
「いいえ、さっきまで初対面よ」
「さっき?」
「何、覚えてないの? 困ってたアンタを助けてやったじゃない」
「……猫?」
「そう、猫よ。今は猫じゃないけど」
さも当たり前かのように言い放ち、僕の横をスタスタと通り抜けてカウンター席に腰掛ける。髪の毛からふわりと柑橘系の香りが広がる。
カウンターの向こうでは幼女がせっせとワインのボトルを見ては置いてを繰り返し、「あった!」と言ってグラスと大きな氷の入った箱の近くに一つのボトルを置いた。
「立ってるの疲れない? どっか適当に座りなさい」
「いやあの、今そんな持ち合わせなくって」
「良いわよそんなの。アンタ今日からお金持ちになるんだから」
何を言っているんだこの人は。心の中でつぶやく。
幼女がグラスに丁寧にワインを注ぎ、別のグラスに氷を一ついれて女性へ差し出した。女性は「ありがと」と頭を撫で、一口飲んでからこちらを振り向いた。幼女は嬉しそうに笑い、同じくこちらを見つめる。
「アタシの名前はロンド。ロンド=フランス。アンタが追いかけられている理由と痛みの原因を知ってるわ。こっちはユー。6歳と若いけど、この店の店員よ」
「お兄ちゃんよろしくねー! あとお兄ちゃん、多分死期が近いよ!」
「あと今はいないけど、店長に煩いアレイドっていうジジイが一人いるわ。んで、アンタ名前は?」
「え、あ……え?」
突然の自己紹介とカミングアウトに戸惑いが隠せず、顎が外れた人のような喋り方になる。一体いきなりなんなんだこの人は。僕の死期が近い? そしてなんで知らない人が自分の痛みなどのことを知っているのだろうか。驚きが隠せず、頭が真っ白になる。
「名前、無いの?」
「いや、ありますけど」
「悪いコトに使わないから、教えてよ。減るもんじゃないでしょう?」
そう言われると、悪いことに使われそうで怖い。でもまあ僕の名前はそこまで珍しくないし、教えてもすぐには個人を特定できるほどの情報でもなさそうだ。それに向こうも教えてくれたのだから、マナー的にも言うべきか。
「……ラグです。ラグ・オブビリオン」
「ラグね。それじゃあ名字は消しなさい」
「は?」
突然名前を消せと言われさらに驚く僕に、何を驚いてるのよとニコニコしながら相手は話を続ける。
「だって、オブビリオンって忘却って意味よ? 名前に向いてない言葉だし、それに契約もあるし丁度良いじゃない」
「契約?」
「天涯孤独で孤児院に拾われて育ち、その孤児院にも見捨てられて数年前から貧しく一人暮らしのアンタの生活を、しっかりと貯蓄も生まれるほど余裕を持たせる生活にするため、そしてアンタを救うためってやつよ。しかも孤児院を追放された理由も知らないんだってね? その理由、アタシ知ってるけど」
「なんで知って……!」
「何ででしょうね、ふふふ」
誰にも話したことのない、自分の知られたくない見にくい過去と悩みをスラスラと赤い唇から綴られ、また自分も知らない自分のことを知っているという訳のわからない高い音が耳に入る。それでもなお女性は笑みをやめない。
契約? 何のために? 聞く限りでは僕にしかメリットがないじゃないか。それに死期が近いって、この若さで僕は死ぬってこと? 何故そんなことをいきなり、それに無料で教える?
怪しい、でも少し気になるという視線を女性に向け、僕は黙り込む。
「疑ってるわね。でも本当よ。ただし、アンタの思ってる通り、そう簡単にアンタだけに利益が出るわけないわ」
手を空中で軽く一振りしたと思ったら、手には二枚の紙がヒラリと握られていた。ここから見る限り、一枚は知らない人の顔の写真と、その下に巨額の数字。もう一枚は契約書と書かれたシンプルなモノ。
「アンタには今日から私が提示する奴を捕まえてもらうわ。捕まえたらココに書いてある金額を与え、捕まえられなかったらアンタの顔写真がココに貼られることになる。最も、顔写真が貼られようが貼られまいが、アタシ達は常に狙われていると思いなさい」
「え、それってどういう……」
「まだアタシ喋ってる。んで、多分今頃アンタの家は無くなってるわ。何でかは後に。空き部屋が一つ奥にあるから、時々アレイドとユーの手伝いしながらそこで生活すると良いわ。最低限必要なモノは予め持ってきておいたから、後で確認しておきなさい」
家がないということにも衝撃を受けたが、後半の言い方からして自分の家に忍び込んで物を盗んだという風に聞こえるのが気になった。でも出かける前には必ず戸締りはしているし、何しろ人のほとんどとおらない場所だからそんな簡単に見つかるとも思えない。というか話が急過ぎて上手く事を理解出来ない。
「ところでアンタ、今日自分の姿見た?」
「え、いや……見てないですけど」
「やっぱりね。右向いて、首元確認してみなさい」
クエスチョンマークを抱えたまま言われるがまま右を向くと、鏡に映る自分の姿があった。いつもと変わらない、間抜けな顔。斜め上に顔を向けるようにして首元を確認してみると、何やらどす黒い血の塊らしきものが脈打っているのが見えた。
「それ、しばらく取れないから隠しておきなさい。何しろ、アンタの命に関わることよ」
「え!?」
「安心して。ここはそういう人を保護し、鍛え、戦えるようにするところよ」
こちらに契約書らしきものを風に運ばせる。そこには『契約書』の大きな文字の下に、『契約の前に--保護・自己管理能力と戦闘能力の向上・一般的な知識の享受を目的とし、一組織の一員として義務を果たすこと』と印刷されている。その下はクセのある外国の字で読めない文字がほとんどだったが、一番下に自分の名前と印を押すところがあるのはわかった。
「此処は私が許可した人しか入れない、入れたとしても表向きプランAっていうBARだから直ぐには気づかれないようになっている、ようはアジト。そして何故アンタが見知らぬ人に追われているかだけど……」
スッと女性は立ち上がり、カウンターの横にある古ぼけた本棚の本を一冊、映画で見たことがあるように手前に引き、カチリと音がなると共に本棚が横にずれて木のドアが現れた。金のドアノブに、幾つか貼られた怪しい外国の文字が彫られた札。その先に行きたいような行きたくないようなソレは、何だか僕を怖気させた。
「その理由、知りたい?」
「ええ」
「良いわ。ただし他人に言わないコトよ」
右手の人差し指を口に当ててシーッと静かにのジェスチャーをしながら、ゆっくりとドアノブを捻り、手前へと引く。ギギギとか弱い悲鳴を出しながら、ドアは徐々に開いていった--筈だった。
そこに現れたのは此処と全く同じの世界で、言うならばそう、鏡。一瞬ドアが開いたのか疑う景色だった。
だけど何処かおかしい。違和感と不思議が交錯する。そして何故かは直ぐにわかった。向こうに映る女性と幼女は、似ているけれど少し服や髪型が違う。別人だ。つまり、似ているけれど違う、全く別の世界がそこにはあった。
『それはね--アンタが二人いるからよ』
こちらと向こうの女性が同時に口を動かし、音と音が重なり合う。
「ようこそ、フランスファミリーへ」
僕は今、契約書の読める文字を縦読みしたときに『契約法は鏡の扉を開くこと』と書かれていることに気がついた。