巻き込まれ少女の異世界生活 4
とりあえず、書き溜めた分まで終了しました。続きも、近々投稿出来るようにしたいです。
ちょっとだけシリアスです。
少し長々と書きすぎたなぁと思います。オムライスは、私が好きなんです。
4,情けは人のためならず
――星がノウルに屋敷を案内されていた頃、城に招かれた詩織はというと。
「良くお似合いです」
「本当に、良くお似合いですわ!」
「さすが、愛し子様です!」
「……ですね」
誉め称える侍女達に囲まれていた。
●
王との対面を終えた詩織は、神殿の中にある自らに宛がわれるという部屋へ案内された。隣には、仏頂面のシウォーグ。背後には喜色満面の護衛の騎士が一人いる。
素人目でも高級品だとわかる調度品ばかりの部屋に、詩織は一瞬見惚れ、すぐに恐縮しきった表情でシウォーグを見上げる。
「あの、こんな良い部屋、申し訳ないです」
計算され尽くした感のある詩織の上目遣いに、シウォーグは心を動かされた様子もなく片眉を上げ、気にするな、と簡潔に告げる。
「ですが……」
「愛し子様、差し出がましいですが、貴女様を守る為にも、この部屋は都合が良いのです」
恐縮して憂える詩織にそう話しかけてきたのは、シウォーグの後ろに控えていた年若い騎士だ。見た目アランと同年代の騎士は、真摯な表情で詩織を見つめている。
「そう、なんですか? ……わかりました」
戸惑いがちに可愛らしく小首を傾げてから、詩織は渋々とばかりにゆっくりと頷いてみせる。
途端に、騎士は表情を明るくし、詩織を部屋へとエスコートする。
本来なら、それは王子であるシウォーグがすべき事だが、シウォーグは部屋の壁に背を預けながら、面倒臭そうに詩織と騎士のやり取りを見つめている。
騎士は、恭しい仕草で詩織をソファに座らせ、部屋に用意された調度品の説明をしている。これも、本来ならシウォーグの役目だが、シウォーグが騎士に丸投げしたのだ。
騎士は『世界の愛し子』のお役に立てると嬉々としてやっているので、今のところ問題は無かった。
詩織も、シウォーグ程ではないが精悍な顔立ちの騎士に傅かれ、満更ではない表情を浮かべ、説明に聞き入っている。
そこへ、ノックの音が響き、シウォーグの適当な返事の後、侍女姿の四人が入ってくる。
キョトンしている詩織を後目に、シウォーグはポリポリと頭を掻きながら、
「この四人はシオリ専用の侍女だ。身の回りの世話を頼んである。護衛は交代制で、部屋の外に常に一人控えさせておく。決して一人で出歩かないでくれ。分からない事があれば、彼女に訊いてくれ」
と言って、入って来た四人を雑に紹介し、その中の一人を示してから、詩織に話しかける隙を与えず、部屋を出て行った。
残された六人の間に、何とも言えない沈黙が流れる。
「……愛し子様、今日から貴女様の身の回りの世話をさせていただきます、サマンサと申します」
一番早く立ち直り、そう名乗ったは、四人の侍女の中で一番年嵩に見える藍色の髪の女性だった。先程、シウォーグが示したのは、この女性――サマンサだ。
後の三人は、髪色や身長などの違いはあるが、見た目の年齢的には、同年代に見えるので、サマンサがこの中で一番の年長なのは間違いないだろう。実際、シウォーグの口振りにも、サマンサに対する信頼が感じられた。
「わ、わたくしは、レベッカと申します!」
サマンサに次いで、興奮した様子の豊かな金髪を綺麗に巻いた少女が口を開き、優雅な仕草で頭を下げる。
「ボクはティナっていいます。えーと、犬の獣人です。頑張るので、よろしくお願いします!」
そう言って笑顔でペコッと頭を下げたのは、ふわふわした金茶の髪に同色の毛に覆われた三角の獣耳を生やした少女だ。
初めて間近で見る異世界の存在に、詩織は驚いたように息を呑むが、すぐに柔らかく微笑んで返す。
ティナに対し、詩織より激しい反応をしたのが、レベッカだ。隣に立つティナを横目で見やる青色の瞳には、隠しきれない嫌悪がありありと浮かんでいる。
だが、そんなレベッカも詩織から怪訝そうな視線を向けられると、取り繕うように感情の見えない微笑を浮かべてみせる。
微妙になった雰囲気の中、最後に残った侍女が、お手本のように完璧な仕草で頭を下げる。彼女はプラチナブロンドに灰色の瞳をもつ、かなりの美少女だ。ただし、無言かつ無表情なので、全く友好的には見えない。
そんな少女に代わり口を開いたのは、やはりと言うかサマンサだった。
「……彼女はピアと申します。口数は少ないですが、腕は確かですので」
苦笑してサマンサが告げると、詩織も釣られたように笑みを浮かべた。
「あ、はい。こちらこそ、いたらない事ばかりでしょうが、皆さん、よろしくお願いしますね」
詩織が頭を下げると、侍女達も揃って深々と頭を下げ返す。
「あの、よろしければ、騎士様の名前も教えてもらえますか?」
頭を上げた詩織は、侍女達から視線を外し、傍らに控えていた騎士を上目遣いでじぃっと見つめる。
シウォーグがいたら鼻で笑いそうな、明らかに計算高い仕草だが、純朴な騎士に気付ける筈もなく、騎士は頬を紅潮させ、ビシッと背筋を正して詩織へ向き直る。
「はい、勿論です! お、私は、貴女様付きの護衛の騎士が一人、クロトと申します! この命に替えても、愛し子様をお守りいたします!」
騎士――クロトの盲信に近い真っ直ぐな言葉に、詩織は柔らかく微笑み、ゆっくりと頷いた。
「ありがとうございます、クロト様。でも、無茶はしないで欲しいです」
「も、勿体無いお言葉、です! それに、私に敬称など、必要ありません」
「じゃあ、クロトさん、ってお呼びしますね」
「は、はい!」
再度、ビシッと背筋を正して返事をしたクロトに、詩織はキョトンとした表情を浮かべるが、すぐにクスクスと笑い、静かに控えている四人の侍女へ視線を向ける。
「あの、サマンサさん。私は、これからどうしたら……」
「私の事は、サマンサと呼び捨てていただいて構いません。勿論、他の三人も、呼び捨てで構いません。……これからの事ですが、今日のご予定は、後は衣装合わせだけでございます」
生真面目な返答をし、うっすらと微笑んだサマンサは、立ち尽くしているクロトへ目で合図を送る。
「あ、申し訳ありませんっ! 私は外におりますので、何かありましたらお呼びください!」
詩織に話しかけられた興奮から瞳を潤ませてぼんやりとしていたクロトは、サマンサの鋭い視線に、ハッとした様子で背筋を正し、勢い良く頭を下げてから部屋を出て行く。
「早速ですが、衣装合わせをいたしましょう」
何ともなしにクロトを見送っていた詩織は、サマンサに声をかけられ、はい、と頷いて、サマンサへ視線を向ける。
「愛し子様、ぜひ、わたくしの持って参りましたドレスもお試しください!」
そう言って、レベッカはクローゼットから取り出したドレスを詩織に示す。
レベッカの勢いに、若干引き気味の詩織だったが、見せられたドレスの美しさに、うっとりとした表情で頬を染める。
「すごく、綺麗……。ありがとうございます、レベッカ」
「いえ、愛し子様に喜んでいただけて、わたくしも嬉しいですわ」
詩織からの感謝の言葉に、レベッカは言葉通り喜色で頬を紅潮させながらも、優雅な仕草で頭を下げる。
「……ティナ、愛し子様のお着替えと湯浴みの用意を」
そんな興奮しきった様子のレベッカを横目に、サマンサは平板な声音でティナに指示を出す。
「はい、です!」
落ち着きなく耳を動かしていたティナは、嬉しそうにパァッと表情を輝かせ、指示通りにキビキビ動き出す。
「ピアは……」
次いでピアに指示を出そうとしたサマンサだったが、その時にはピアはすでに動き出していた。それは、まさにサマンサが出そうとしていた指示通りの行動で、確認するようにチラリと視線を向けられ、苦笑して首肯する。
一瞬で苦笑を消したサマンサは、ドレスを眺めている詩織へと向き直り、
「愛し子様、そちらのドレスからご試着をお願いいたします」
と言うと、素早く行動に移る。
サマンサのあまりの手際の良さに、詩織が頷けたのは、着替えがほぼ終わってからだった。レベッカも手伝ってはいたが、ほぼサマンサがやったと言っても過言ではない。
ちなみに、物心ついてから、他人に着替えさせられた経験のない詩織だったが、サマンサのいかにも仕事です、当たり前の事です、という迷いのない手つきは、詩織に羞恥を感じる暇を与えなかった。全て終わった後、羞恥を思い出したのか、詩織は恥ずかしそうに視線を泳がせている。
そこに、走り回っていたティナと、いつの間にか部屋からいなくなっていたピアが戻り、四人の侍女のよる、詩織を誉める会が始まり、そして、冒頭の会話へと続く。
●
「本当に、どれもお似合いでしたわ」
胸の前で手を組み、キラキラとした眼差しを詩織に向けるレベッカ。
「用意しました全て、丁度良いサイズで、安心いたしました。……湯浴みの用意も整えてございますが、先にお食事になさいますか?」
サマンサは、十枚以上あるドレスを片付けてから、疲れきった様子でソファに沈み込んでいる詩織に声をかける。
ゆるゆると顔を上げた詩織は、疲労を隠さず、笑顔の少なくなった顔をサマンサに向ける。
「……食事はここでですか? シウォーグ様も一緒に?」
「そうでございますね、本日は、ここにいらっしゃる予定となってございます。それと、ヨード様もご一緒される予定でございます」
「ヨード、様、って、あの迎えの馬車にいらした……?」
思いがけず出てきた聞き覚えのある名前に、詩織は首を傾げてサマンサを見つめ、確認するように問う。
だが、詩織の問いにサマンサが答える前に、大袈裟な反応を示し、割り込んでくる人物がいた。それは、
「はい! そうですわ! ヨードはわたくしの父です。愛し子様に覚えて頂けたなんて聞いたら、泣いて喜びますわ」
さらに熱を帯び、輝きを増した眼差しを詩織に向けたレベッカである。もうここまで来ると、崇拝者のようだ。
あの脂ぎった親父か……、と内心思った詩織だったが、心中をおくびにも出さず、ふわり、と柔らかい笑みを浮かべている。
「まあ、そうなんですか。。ヨード様は、私が『世界の愛し子』の事がわからなくて不安だった時、色々教えてくれたんです。お礼も言えなかったので、機会が出来て良かったです」
そう言いながら、心底安心しましたとばかりに、詩織は胸を押さえる。
「まあ、そんな、父は当然の事をしただけですわ」
ふふふ、と心底嬉しそうに、上品な笑い声を洩らすレベッカ。
それに釣られたように、詩織もくすくすと楽しげな笑い声を洩らし、和やかな空気が部屋に満ちる。傍らで控えているティナも、にこにこと楽しそうだ。
ただし、同じく控えているピアの方は、相変わらずニコリともせず、二人のやり取りを見る事もせず、置物のようにそこにいた。
「お楽しみのところ申し訳ございませんが、どちらを先になされるか決めていただけますか?」
こちらも、和やかな空気に流される事なく、静かに微笑んだまま、サマンサが問いかける。
全く怒気は感じないが、無言で責められている気がし、詩織はバツの悪さから目を伏せて、軽く頭を下げ、申し訳なさそう表情を浮かべる。
「あ、ごめんなさい。あの、先に汗を流しちゃいたいんですが……」
「かしこまりました」
深々と頭を下げて応じたサマンサは、すぐにテキパキと三人に指示を出していく。
「では、レベッカは、私と共に湯浴みのお手伝いを。ティナとピアはシウォーグ様とヨード様にご連絡をした後、料理長への連絡をお願いします」
「「「はい!」」」
指示を出された三人は、綺麗に揃った返事をし、それぞれサマンサからの指示をこなすために動き出す。
まず、ティナとピアの二人が、詩織に一礼して部屋を後にする。サマンサからの指示をこなすためだ。
残ったサマンサとレベッカは、
「愛し子様、私とレベッカで湯浴みのお手伝いをさせていただきます」
「どうぞ、こちらへ、わたくし、頑張りますわ」
と、それぞれ、両脇から詩織に話しかけ、立ち上がるように促す。
「え、あの……」
戸惑う詩織を余所に、あれよあれよ、と作業は進んでいき、結果、詩織は……。
――二時間後。
白いテーブルクロスが掛けられ、綺麗に飾り付けられたテーブルに着く人影が三つ。その前には湯気の立つ料理が並ぶ。
人影のうち、二つはシウォーグとヨードの二人だ。シウォーグは着替えた様子はないが、ヨードの方はゴテゴテと着飾っている。
「あの珍妙な衣装より、そちらの方が似合ってるな」
「さらに神々しさが増しましたなぁ」
その二人が称賛する台詞を告げるのは、隅から隅まで浴室で磨かれ、さらにサマンサとレベッカにより着飾られた姿の詩織。
「ありがとう、ございます。しかも、こんな素敵な服を用意していただいて」
「……まあ、気にするな」
「その通りでございます!」
恐縮する詩織に、気にするなと応じるシウォーグとヨードだったが、二人の表情と声音には明らかな温度差がある。
隠す気もないらしいそれに、詩織が気付かない筈はなく、浮かべている微笑みに僅かな陰りが出来ている。
陰りの原因になったシウォーグは、気にした様子はなく、と言うよりも興味がないのか、すでに視線は料理だけを映し、手と口は目の前の料理を片付け始めていた。
「さあさあ、愛し子様も。貴女様の為に用意させた料理でございます。どうぞ、お召し上がりください」
詩織の様子も、シウォーグとの温度差も気付かないある意味幸せなヨードは、脂下がった顔で笑いながら、腹を揺らして詩織に料理を進める。
「は、はい」
先程までとは違う理由で表情を曇らせながらも、何とか笑顔を維持した詩織は、ヨードの粘っこい視線を感じながら、異世界ではじめて食べる食物をゆっくりと口へ運んでいった。
●
「楽園はここにあった……」
「大袈裟だな」
部屋を見渡してうっとりとする星に、肩を竦めて小さく苦笑を浮かべるノウル。
反応に天と地ほどの落差のある二人がいるのは、ノウルご自慢の書斎だった。
――浴室から仕事部屋、使い魔の部屋へと。勝手に入ってはいけない所、構われると困る場所、危険な事などを一通り説明し終えたノウルは、星を振り返る。
「何か訊きたい事はあるか?」
「屋敷に関しては無いよ? 追々出て来たら、その都度訊くね?」
「屋敷に関しては……と前置きするからには、他に何か訊きたい事があるのか?」
星の返答に、表情を曇らせたノウルは、不安げに星の顔を覗き込んで問いかける。
「そりゃ、あるよ? この世界の事とか、『世界の愛し子』の事とか、ノウルの事とか。でも、それは後で訊いても問題ないし」
不安げな表情をする年上の男に対し、星は当然だよね、と小首を傾げて返す。 その腕の中で、水晶ウサギも同じ方向に頭を傾げている。
「……そうだな、無い方がおかしいな」
若干凹んでしまったノウルの頭を、星が宥めるように軽くポンポンと叩く。叩き方は軽いが傍から見ると、星はつま先立ちの上、腕を伸ばしているので、かなり必死に見えている。
「ノウルが悪い人じゃないって思ったからって、後回しにした私がおかしいんだよ。……それより、早く書斎見たいなぁ、なんて」
本音が駄々漏れた台詞を洩らした星は、腕を下ろして、ノウルの服をクイクイと引っ張る。
ノウルを見上げる表情は常と変わらないが、黒目がちの瞳は期待で輝いている。
「ノウル、お願い」
「……わかった。こっちだ」
期待に満ちた星の瞳に、ふ、と息を吐き出し、柔らかく微笑んだノウルは、自然な動作で星の手を引いて歩き出す。慣れたのか、星は抵抗する事なく引かれていく。
しばらく廊下を進み、ノウルは奥まった場所にある扉の前で足を止めた。
「ここが、書斎だ」
「ねぇ、開けていい?」
わくわく、と訴える瞳に、ノウルは笑顔で頷いて、体を退いて扉の前を譲る。
「失礼します!」
ノウルが頷いたのを確認し、扉に向けて挨拶をしてから、星はゆっくりと扉を開ける。
傾きかけた陽光が注ぎ、適度な明るさを保った部屋の中は、書斎と言うよりまるで図書室のようだった。
圧迫感を感じさせないよう配置された、複数の背の高い本棚には、ギッシリと分厚い本が並び、一部ポッカリと開いた空間には絨毯が敷かれ、クッションが置かれている。
本棚に入りきらないのか、床には何ヵ所か本の塔が出来ていた。これが、アウラの口にした本だらけ、という部分の一因だろう。
まさに星にとっては夢のような空間で、思わず出たのが先程の言葉だった。
家主のノウルにとっては見慣れた光景な為、星の興奮具合に、若干呆れ気味だ。呆れていても、星を見守る紫の瞳は優しい光を浮かべている。
ノウルは扉から一歩入った辺りで、フラフラと誘われるように本棚に近寄る星を見守っていたが、今更ながらな疑問を思いつき、深く考えず口に出し、
「セイ、言葉は通じているが、文字は読めるのか?」
そして、盛大に後悔する羽目になる。わざわざ訊かなくても、数秒後には答えがわかる事を訊いた事により、星の顔色が目に見えて悪くなったのだ。
「あ……っ、すまない」
「そう、だよね。文字、わかんない可能性、あったね」
反射的に謝ったノウルの声も届かず、星は哀しげに目を伏せてポツリと呟くと、先程までとは違う意味でフラフラとした足取りで本棚に近寄る。
不安から俯いた星の目線は、綺麗な木目の床から離れないまま、本棚に手が届く所まで辿り着く。
「セイ……」
不安げなノウルの声に後押しされ、星は一気に顔を上げて本棚を視界に入れ、親の仇のように背表紙を睨む。そこに並んでいたのは、一見ローマ字。だが、似て非なる見慣れない文字の行列。
「……見た事ない文字だけど、読めるし、理解出来る!」
星はゆっくりと瞬きをし、その文字を理解出来る事を悟った瞬間、歓喜の声を上げ、興奮を抑えきれずその場でクルクルと回転する。ワンピースの裾が花のように開き、ヒラヒラと揺れる。
星の腕の中で、水晶ウサギも嬉しそうに回されている。
「そ、そうか、良かったな、セイ。この部屋の本は、好きに読んで良いぞ」
ノウルの顔も安堵に染まり、クルクルと回る星を緩みきった顔で見つめながら、室内の本を示す。緩みきった顔でもイケメンっぷり揺るぎない、と星が正気なら呟くだろうが、今現在、星は異世界の本に心奪われていた。
一応、ノウルの言葉は届いたのか、星は回転するのをピタリと止め、軽くふらつきながらも、綺麗に並んだ本の背表紙へ視線を走らす。ふらついたのは、回転し過ぎて目が回ったせいだ。
「ゆーはん、ちょっと、遅くなっても、私作りたいんだけど、良い?」
まだクラクラしているのか、微妙に拙い口調で問いかけてくる星に、ノウルは頷き返す。
「ああ、問題無い。……ちょうど、明日までの仕事がある」
そう重々しく言ったノウルの手の中には、水晶ウサギから採取した水晶がある。ノウルが言う仕事とは、キッチンで話題にした薬の調合らしい。
「何かあったら叫べ。俺か使い魔がすぐに助けに行く」
「うん、頼りにしてるね」
ノウルの言葉に大きく頷く星。だが、その視線は、ほぼ本棚に向いている。
「……キッチンにある物は好きに使ってくれ」
ふ、と笑みを溢し、星の後頭部にそれだけ伝えると、ノウルはゆっくりとした足取りで書斎を後にする。
残された星は、ルンルンという擬音が聞こえそうな足取りで本棚の間を巡り、綺麗に並べられた本を堪能する。
水晶ウサギは、床に下ろしてもらい、星の足下をテトテトと後ろ足で二足歩行している。
「時計ないからわからないけど、もう夕方だよね。とりあえず、一冊、流し読みで……」
足下で自分を見上げている水晶ウサギに話しかけながら、星は何かに気を取られ、そちらに視線を向ける。
そこには、乱雑に積まれた本のタワー。その一番上に置かれた薄い本。大きさも、他の本より一回り小さい。
「これなら、さらっと読めるかな……」
星は目についた本を手に取ると、歩きながら読み流していく。
「子供向けなのかな」
小首を傾げた星に、足下で水晶ウサギも首を傾げている。
開かれた本に書かれていたのは、難しい言葉使いの無い、柔らかな文体。見易い大きめの文字。あちこちにある挿絵。
肝心な内容はと言うと……。
「……作為的ですらあるよね、これは」
理解した瞬間、星の口からは固い声がポロッと落ちていく。
不意に変わった雰囲気に、水晶ウサギは心配そうに、投げ出された星の足に前足を置く。
「……『世界の愛し子』の絵本って、タイムリー過ぎる」
子供向け絵本らしいそれの内容は、見慣れない文字だとしても、わかりやすく頭の中に入っていく。だが、読み進めるに従って、徐々に星の眉間に皺が寄る。
構ってもらえない水晶ウサギは、寂しそうに星の太股に顎を乗せ、うつ伏せになっている。時々、グリグリと頭を動かされ擽ったいのか、その度に星の肩が揺れる。
「……えーと、うん、突っ込んじゃいけないんだよね」
読み終わった星の口から出たのは、そんな力無い呟き。
「世界は寂しがり屋さんなんだねぇ、って、納得出来る訳無いし……」
不思議そうに見上げてくる水晶ウサギの頭を撫でてから抱えると、星は勢い良く立ち上がる。
「とりあえず、夕飯作ろっか。ここにいたら、出られなくなっちゃいそうだしね」
冗談めかせて抱え上げた水晶ウサギと目線を合わせ、星は本を片手に携え、書斎を出て、廊下を歩き出す。
「夕飯何にしよっか?食材は色々買ったけど、調味料は塩と胡椒とハーブ、あとは砂糖と蜂蜜だしね」
見てから考えるか、と結論付け、星はキッチンへと歩を進めるが、すっかり日が傾き、光が届かなくなった薄暗い廊下に、星の足取りが鈍る。
「……明かりの点け方を習うべきだったね」
水晶ウサギをギュッと抱き締め、星はあまり変化の無い表情を困り顔にし、高い天井へと視線を向ける。
「とりあえず、叫ぶ?」
星が悩んでいると、薄暗い廊下を見覚えのある大きな銀色の獅子が、ゆっくりと歩いてくる。獅子は星に気付くと足を止め、お座りの体勢になる。
「ちょうど良かった。ねぇ、明かりの点け方教えて?」
「がう?……がうがう」
星の質問に、獅子は強面な外見で可愛らしく小首を傾げると、何事か訴えながら、前足を上げる。が、届かなかったらしく、結局視線で壁の一点を示す。
そこには、分かりづらく壁の装飾に紛れ、スイッチらしき物があった。
「これを押すの?」
「がう!」
躊躇う星だったが、自信満々に頷く獅子に後押しされ、恐る恐るスイッチを押してみる。
数秒は何も起こらず、星が不安そうに水晶ウサギを抱き締め直すと同時に、薄ぼんやりとした光が天井の照明器具に灯る。
橙色の暖かな光が徐々に強くなり、廊下から薄暗さが追いやられる。
安堵のため息を吐いた星は、獅子の頭を撫でくり回し、行動で感謝を示してから、足取り軽く歩き出す。
その後ろには、頭を撫で回された巨大な獅子がノシノシと続く。
「君は野菜で良いとして、使い魔って、ご飯食べるの?」
星は腕の中の水晶ウサギにそう声をかけ、背後にいる獅子をチラリと見やり、小首を傾げる。
星の言葉に、水晶ウサギは嬉しそうに星の胸元に擦り寄って甘え、獅子は首を傾げている。
「まあ、食材はたくさんあるから、大丈夫か」
一人で納得した星は、キッチンの扉を開けると、壁に触れて見つけたスイッチを押す。廊下と同じように明かりが点き、室内を照らし出す。
明るくなった室内に、シパと瞬きをした星は、持ったままだった本を汚れないように適当な場所へと置き、キッチンを見渡す。
「火を使うから、君達はここで待っててね」
そう言いつけて、水晶ウサギを優しく入り口の床に下ろした星は、楽しそうに瞳を輝かせたまま、キッチンの中へ入っていく。
水晶ウサギも獅子も、星の言いつけを守り、二匹で並んでその場に座っているが、二匹の視線は、ちょこちょこ動いている星を追い続けた。
時々、星がしゃがみこんで死角に入ってしまうと、二匹は落ち着きをなくし、顔を洗ったり、太い尾を揺らしたりし、気を紛らわせている。
二匹が人語を話したら、きっとこう言っただろう。
「手伝いたい」と。
●
二匹の視線に見守られながら、星はキッチンの中を探索していた。
先程はゆっくり見れなかったが、食器は見慣れた形状の物が揃い、調理器具も新品同然の物ばかり、形状は食器と同じく、見慣れた物だ。
「とりあえず、米研ごう」
流水で手を洗ってから、ボウルとザルを発見した星は、米の袋を探す為、保存庫を開け、そのまま見つけた袋を引っ張り出す。
結果、明らかに保存庫の容量より大きな袋が出て来たが、星は気にしない事にし、頑張って引きずり出した袋を床に置く。ちなみに、米が入っている袋は、星がやっと抱えられるサイズの白い布袋だ。
袋の中身を確認した星は、驚きのあまり、溢れんばかりに目を見張って、そのまま数秒固まった。
「……短粒種だよ。しかも、精米済みだなんて、嬉しい誤算だね。と言うか、もしかして、この世界ではこのまま生ってるって可能性もあるのか」
思い出したように瞬きをして動き出すと、興奮状態のまま、ブツブツと内心を吐露する星。幸いにも第三者はいないので、突っ込む人間はいないが、入り口の辺りに待機している二匹は、心配そうな様子でキョロキョロと視線をさ迷わせている。
そんな二匹の様子に気付く事もなく、米から手を離した星は、収納の中をガサゴソと掻き回す。
「枡とかはないよね……、でも、あのサイズのコップなら、丁度良さそうだね」
目当ての物が見つからず、視線を巡らせた星は、食器棚にあるガラスのコップに目をつける。背伸びをして食器棚から目をつけたコップを取り出すと、それを使って米を袋から洗っておいたボウルに移していく。
「とりあえず、これぐらいで良いか」
鼻歌混じりでボウルを抱えてシンクに向かうと、手慣れた様子で米研ぎを始める。
水入れて、研いで、水捨てて、を数回繰り返した星は、ザルに研いだ米を上げて水を切りつつ、
「炊飯器は無いよね、当たり前だけど」
と、今更な呟きを洩らし、今度は鍋を漁り始める。
星が取り出したのは、小振りな両手鍋。材質は何らかの金属で、直径は三十cm程。
「……アルミ、と断定出来ないのが怖かったり」
誰にともなく呟き、星は小さく口元を綻ばせると、研いだ米を鍋へと移し、水を張ってコンロに置く。
「時間計りたいけど……」
どうしようと辺りを見回す星に気付くと、入り口待機の獅子が動き出す。
「がう」
「どうしたの?」
獅子は一声吠えて星の注意を引き付けると、器用に扉を開けてキッチンから姿を消す。
「うん、がう、じゃわかんないよ……」
星が困惑を瞳に浮かべ、獅子の出て行った扉を見つめていると、すぐに獅子は戻って来た。その口に、拳大の何かをくわえて。
「何か持ってきてくれたの?」
小首を傾げた星は、とてとてと獅子の傍へと小走りで近寄り、獅子と目線を合わせる。
大きく頷いた獅子は、口にくわえた四角い物体を星に渡そうと、グイッと顔を寄せる。
「ありがとう……」
礼を言いながら、獅子がくわえていた物を受け取った星は、早速それを色々な角度から観察してみる。
結果、
「これ、時計?」
小首を傾げ、疑問系で呟く。前面にはローマ数字っぽい異世界の数字が等間隔に刻まれ、そこには見覚えのある長い針と短い針。
星が恐る恐る耳を寄せると、カチコチ、と一定のリズムで音がする。これも、耳馴染みがあった。
「私が困ってたから持ってきてくれたんだね、ありがとう、助かるよ」
ペコリと頭を下げて感謝を伝えた星は、時計を片手にコンロの前へ戻り、見易い位置に時計を置く。
「これで、ご飯は良いとして……」
再び保存庫を開けた星は、そこで赤く主張しているトマトに目を留める。手に取って、完熟している事を確認し、星は小さく頷く。
「よし、メニュー決定。まずは、鶏肉から」
ふんふん、と適当な鼻歌を口ずさみながら、星は表情には出さず、だが楽しげに調理を進めていった。
そんな星の様子を、水晶ウサギと獅子は、同じく楽しそうに眺めている。
「始めちょろちょろ、中ぱっぱ〜」
穏やかに流れる時間と、時々、呪文のような単語が混じる鼻歌に眠気を誘われたのか、水晶ウサギは獅子に寄りかかって目を閉じている。獅子の方も、眠そうに欠伸を繰り返す。
まさに、平和を体現したような光景だ。
キッチンから響く、星の楽しげな鼻歌と、ジュージュー、コトコト、料理が仕上がっていく、美味しそうな音色。
生活感の無かったノウルの屋敷が、主と同じく変化をしていく。
変化を与えている本人は、全く気付いていないが、緩やかに、確実に、変化は訪れている。
「うん。なかなか美味しく出来た」
とりあえず、キッチンは完全に星の城となったようだ。
しかし、出来上がった料理を前に、城の主となった筈の星は頭を抱えていた。それは、
「……ノウル、米嫌い、みたいな事言ってたよ。ラシードさんも、米なんか、的な扱いだったし、この世界、明らかに西洋だもんね。主食は、パスタとかパンだよね」
今更ながら、主食の選択間違いに気付いたのだ。
ちなみに、作ったのは、完熟トマトを使ったチキンライス。それを、綺麗な薄焼き卵で包んだオムライスだ。付け合わせは、ベーコンぽい物を見つけたので、ポトフというかベーコン入り野菜たっぷりのスープ。
オムライスは洋食じゃないか? という突っ込みを入れてくれる人間が、ここにいる訳もなく。皿に乗せたオムライスを前に、星が泣き出す一歩手前な雰囲気を漂わせ始めた頃、ゆっくりとキッチンの扉が開かれた。
●
時間は少し遡り……。
星と別れたノウルは、一人で仕事部屋にいた。
ここには書斎に置けないような魔術書や禁書の類いが置かれ、危険な薬やそれの原料となる稀少な材料なども置かれていた。
危険なので星にも一人で入るな、と伝えてあり、勿論、通いの家政婦も入らせた事はない。
その部屋の中で、ノウルは依頼されていた薬の調合をしていた。
目を保護する為の眼鏡をし、真剣な様子で調合を終えた薬を見つめていたノウルだったが、いつもとは違う反応に、紫の瞳が鋭さを増す。
「……明らかに、おかしいな」
ノウルは、いつも通りに調合をし、術式を組み立てた筈だったが、本人の呟き通り、明らかにおかしい、変化が起きていた。良い方に。
「……術式も、材料も変えてはいないんだが」
出来が良すぎて悩むとは……、と額を押さえるノウル。
「まあ、出来が良い分には構わないか……」
逆だったら最悪だがな、と苦笑混じりで内心呟き、ノウルは出来上がった薬を瓶に詰めていく。
その間、何とも無しに、瓶の透明な輝きを見つめていると、唐突に思い付いた考えに、ノウルはガシガシと銀色の髪を掻き乱す。
その脳裏を過るのは、水晶ウサギのドヤ顔だ。
「そう言えば、変えたな。……やはり、あれは、特殊な個体か」
ノウルの呟きも当然で、もともと、水晶ウサギは普通のウサギより一回り大きい程のサイズが平均だった。
「どう見ても、あいつは軽く二倍はあるな……」
思い返せば、頭の良さも、犬より劣る程度の筈。あそこまで言葉を解す個体など、ノウルは見た事が無かった。
それに、水晶の復活する速度も異常だ。敢えて突っ込まなかったが、書斎に入った辺りで、ほぼ元のサイズと同じぐらいに戻っていた。
「魔物、ではないはずだが……」
無意識に出来上がった薬の液体を揺らしながら、ノウルは椅子に深く腰掛け、考え込む。
水晶ウサギからは、個人的な敵意はビシビシ感じるが、そこに悪意やほの暗い気配はなく、星に抱き締められる姿は、無邪気ですらある。
そこまで考え、馬鹿らしくなったノウルは、考える事を放棄した。
魔物だとしても、星に懐いているのだから、問題無いと。
「……さすがに腹が減ったな」
瓶を机に置き、時計を確認したノウルは、ふと小さく鼻を鳴らして空気の匂いを嗅ぐ。
「セイが料理をしてるのか」
感じ取った嗅ぎ慣れない匂いの原因を悟り、ノウルの顔に楽しげな笑みが広がる。
「食事が楽しみなんて、初めてかもしれないな」
くく、と抑えきれず、ノウルが笑い声を洩らしている、扉が開き、使い魔である獅子が顔を覗かせる。
「がう」
「出来たのか。まだ星はキッチンか?」
「がう」
「運ぶのぐらいは手伝えるな」
ノウルには獅子の言葉が解るのか、普通に言葉を交わすと、眼鏡を外して、部屋を後にする。隣には当然のように付いて歩く獅子。
キッチンに近づくにつれて強くなる匂いに、ノウルは目を細め、歩きながら無意識に唇を舐める。
そのままノックをせずキッチンの扉開けたノウルは、泣き出す一歩手前な星と遭遇し、扉を開けた体勢で固まる。
両者の間に緊迫した空気が流れる中、星を慰めていた水晶ウサギが動き出す。
テポテポと愛らしい擬音がしそうな二足歩行で、ノウルへ歩み寄る水晶ウサギ。
固まったまま、視線だけで水晶ウサギを見下ろすノウル。
星から死角になった瞬間、水晶ウサギは鋭い蹴りを放つ。それは寸分違わず、ノウルの無防備な脛にヒットする。
「ぃっ!?」
何とか上げかけた悲鳴を呑み込み、ノウルは引きつった笑みを浮かべる。水晶ウサギの言いたい事は、身を以て理解した。
「……セイ、どうしたんだ? 失敗でもしたのか?」
意識して柔らかな声で問い掛けるノウルに、それで良いとばかりに水晶ウサギが鼻を鳴らす。
ノウルの声が聞こえ、小さく鼻を啜った星は、無言で盛りつけられたオムライスを示す。
「美味しそうだな。これが、どうかしたのか?」
「これ、米使ってるの。ごめんなさい、ノウル、米嫌いなんだよね」
「確かに米は苦手だが、幼い子でもないんだ、食べられない訳じゃないぞ? それに……」
そこで言葉を切ったノウルは、オムライスの皿を持ち上げると、不安そうな星の目の前で、くんくんと匂いを嗅いで見せる。
「これは、とても美味そうな匂いがする」
「……本当に?」
シパシパと瞬きを繰り返す星は、上目遣い気味にノウルを窺う。
「ああ。せっかくセイが作ってくれたんだ。冷めない内に食べよう」
「うん!」
ノウルの言葉に星は嬉しそうに頷き、嬉々とした様子で二人分のオムライスとスプーンを銀のお盆に乗せる。
「それは俺が運ぼう」
「ありがとう、お願いします」
星の手からお盆を受け取った、ノウルは軽い足取りでダイニングに向かう。
そこにあるのは、家政婦の手により、綺麗に整えられた二人掛けのテーブル。周囲も掃除が行き届き、塵一つ落ちていない。テーブルの上にはランプが置かれ、周囲を温かく照らしている。
キッチンに残った星は、温め直したスープを適当な皿へと盛りつけ、水晶ウサギと獅子の為に用意した食餌と共にお盆へ乗せる。ついでに、水差しとコップを二つ。
「じゃあ、行こうか」
お盆で両手が塞がった星の為に、先を行く獅子が扉を開け、先導するように水晶ウサギがテポテポと歩いて行く。
ダイニングの扉は、先に行ったノウルが開けて待ち、星を中へと招き入れる。
「重くなかったか?」
「これぐらい大したことないよ?」
言葉通り、危なげなくお盆を持った星は、向かい合って置かれたオムライスの横に、スープの深皿を置く。さらに、コップをお盆から下ろし、水を注いでおく。
「ねぇ、使い魔さんはご飯食べられる?」
星は、一緒に持ってきた二匹の食餌をとりあえずテーブルの端に置き、飼い主であるノウルを見やって首を傾げる。
「あ、ああ。食わなくても問題無いが、食っても問題は無い」
オムライスに釘付けになっていた視線を剥がしながら、ノウルは首を縦に振り、寄ってきた獅子の鬣を撫でる。
「良かった。じゃあ、こっちは使い魔さんの分で、こっちは君の分」
安堵の息を吐いた星は、しゃがみこんで、獅子の前に鶏肉のソテー、水晶ウサギの前には野菜スティックの乗った皿を置く。
二匹が食べ始めたのを確認すると、星はノウルの向かい側に腰を下ろす。
目線を上げるとそこには、期待に紫の瞳を輝かせ、オムライスを見つめているノウル。
そんなノウルの様子が照れ臭いのか、星は目を伏せながら、手を合わせる。
「いただきます」
「いただき、ます?」
首を捻りながらも星の真似をしたノウルは、手を合わせてぎこちなく唱和すると、待ちきれないとばかりに、スプーンを手にオムライスを崩していく。
「中には、赤い……これは、米なのか? 後は、鶏肉に玉ねぎ……」
食事というより、ブツブツと解剖じみた分析をしつつ、ノウルはオムライスを乗せたスプーンを口へ運んだ直後、目を見張って動きを止める。
「え!? なに? 味おかしかった?」
「……美味いな」
「紛らわしいよ……」
わたわたと焦っていた星は、一気に脱力すると、自らもオムライスを口に運ぶ。
「本当に、美味いぞ。これが、本当にあの硬い米なのか?」
ノウルは感動しながら、かなりの速度でオムライスを食べ進めているが、育ちの良さのせいか、全く粗雑な雰囲気は無く、優雅ですらある。
「スープも食べてね。野菜大事だよ?」
我ながら中々だね、とまったり食べている星の前で、無言になったノウルは黙々と皿を空にしていく。
「このスープも、美味いな。野菜の甘味とベーコンの塩気が効いてる」
「……誉められ過ぎて恥ずかしい」
真顔でスープの味を批評され、星は頬を染めて、ぷはぁ、とコップの水を一気に煽る。照れ隠しらしい。
食べ終わった星は、空の皿を前にしてシュンとしているイケメンに気付き、小さく笑みを溢す。
「スープなら、すぐお代わり用意できるよ。オムライスも、チキンライス余ってるから、ちょっと時間もらえば、できるけど?」
「……た、頼めるか?」
ノウルは気恥ずかしそうに笑うと、空の皿を星の方へと差し出す。
「もちろん。でも、ノウルの口に合って良かった。一緒に住むのに、味覚が合わなかったら最悪だもんね」
二人分の空の皿をお盆に乗せながら、星は黒目がちの瞳を細めて、嬉しそうな表情を浮かべる。
「最悪、か?」
付いていくつもりなのか、一緒に立ち上がったノウルは、星の言葉を訝しみ、首を捻る。
「そりゃ、好き嫌いはしょうがないけど、出来れば、一緒に食卓囲んで、美味しい、って言い合いたいもん。だから、ノウルに美味しい、って言ってもらえて、嬉しい」
ふにゃ、と無表情から一気に柔らかな笑みを浮かべた星は、足元に擦り寄って来た水晶ウサギを撫で、ノウルを見つめる。
「そうか……」
「うん。……じゃあ、お代わり用意して来るね」
澄んだ紫の瞳と見つめ合い、照れ臭くなったのか、星は皿を乗せたお盆を手に踵を返す。
「作るところ、見てても良いか?」
「え、良いけど……」
ノウルは長い足で星に追いつくと、スマートにお盆を取り上げ、そのままピッタリと横を歩き出す。
「ありがと」
軽くなった自らの手に、ふふ、と笑い声混じりで感謝を伝える星。
「どうした?」
訝しむノウルに、星はゆっくりと首を横に振ってみせる。
「んーん、ノウルはイケメンだなぁって、思って」
「……いけめん、とは何だ?」
悪戯っぽく答えた星に、ノウルは更にキョトンした表情を浮かべて問いかける。
「あー、えぇと、私の国の、若い人が比較的使う言葉で、格好良い男の人、って感じの意味かな」
キッチンへ入りながら、イケメン、を説明する星に、ノウルは無言で肩を竦めると、苦笑を返す。
言葉にしなくても、ノウルの言いたい事がわかってしまい、星は軽く唇を尖らせた。
「本当に無自覚なんだね」
諦めたのか、聞こえないよう小声で呟くと、星は気を取り直し、蓋をしておいたチキンライスの皿を手にノウルを振り返る。
「卵あった方が良いよね? 今度は、薄焼きじゃなくて、上でパカッてする?」
「いや、さっきと同じで……あの黄色は卵だったのか?」
「そうだよ? 卵よく食べるんだよね? かなり入ってるし……」
心底驚いているノウルの様子に、星は首を捻りながら、保存庫の扉を開けて、卵を二個手に取る。卵は二個取り出しても、中にはかなりの数残っているのが見てとれた。
現にノウルも、躊躇い無く頷く。
「ああ。朝は毎日飲んでいるぞ」
「……卵、飲むの? 半熟って事?」
理解不能な単語が聞こえた為、星は卵をボウルに割り入れ、作業をしつつ問い掛ける。
「生だが?」
「ノウル、ボクサー?」
「俺は拳闘家ではないぞ。魔術師だ。剣も使えるが、基本的に魔術を用いて戦う」
「ボクサー通じたよ。しかも、超真面目な返しが来た。……それは置いといて、生って卵単体で生食するって事? ご飯にかけるとかじゃなくて?」
「ごはん? とりあえず、割ってそのまま飲んでいるが?」
微妙に噛み合わないやり取りをしながら、星は手を止めず、温めてバターを溶かしたフライパンに溶き卵流し込む。
「本当に、焼いた卵なのか……」
フライパンに広げられ、綺麗な黄色い薄布のように変わっていく卵に、ノウルはほぅ、と感嘆の息を洩らす。
「そーだよ? 生食も美味しいけど、火を通しても美味しいよね」
「確かに美味かった」
「なら良かった。米も口に合ったみたいだし」
星は、フライパンから目を離さず会話を続け、タイミングを計り、薄焼き卵の上にチキンライスを放り込む。
「ああ、あんなにガリガリとした食感の物が、こんなに柔らかく、甘みを感じるようになるとは思わなかった」
「……さっきから気にはなったけど、ノウル、米炊かないで食べてる?」
手慣れたフライパン返しで、赤いチキンライスを黄色い薄焼き卵で包み、皿へと盛り付ける片手間に、星は先程から感じていた疑問をぶつける。
「炊く、とはなんだ?」
返ってきた予想外の答えに、星はフライパンを落としそうになり、慌ててしっかりと握り直す。そして、オムライスに向けていた視線を、恐る恐るノウルへ移す。首を傾げている姿に、嘘や冗談の気配は無い。
「うん、予想外」
思わずそう呟いて、大きく頷いた星を責められる人間はいないだろう。
卵を生食のみで食べるタイプだから、米も生食するんだな、と普通に考えていた星は、肩透かしをくらった気分で、不思議そうな表情で見つめてくるノウルを見つめ返す。この異世界でわかるのは詩織だけだろうが、脳裏にこっそり、ワイルドだろ、という何処かで聞いたフレーズを過らせつつ。
とりあえず話が進まないので、星は、んー、と短く唸って、言葉を探すように視線をさ迷わせ、口を開く。
「……えーと、米を水に入れて煮て吸わせて、柔らかくなるよう調理する事を、私の国では、炊くって言うの。その状態の米を、ご飯って呼ぶんだよ」
「セイの国では、米をそんな風に料理するのか……」
「この世界では生で食べるのが普通? それとも、ノウルの家だけ?」
米の調理法を聞き、心底感心しているノウルの姿に、スープを温め直しながら、星は若干失礼な疑問を口にする。
「俺の家だけでは無いぞ? もともと、米自体『世界の愛し子』が見つけ出し、流通するようになった作物なんだ。正確な食し方を知ってる者が、どれだけいるかどうか……」
ノウルは気分を害した様子もなく、ワクワクとした表情でオムライスの皿をお盆に乗せながら、小さく肩を竦めている。
「ここでも『世界の愛し子』が出るんだね」
若干の忌々しさを覚え、星は置きっ放しにしていた絵本をチラリと見やってから、僅かに冷えた声音で小さく吐き捨てるが、そんな自分に苛立ったのか、ため息を吐き、アウラがくれた髪飾りに触れる。
「セイ?」
戸惑いを滲ませるノウルの呼び掛けに、何でもない、と星は無言で首を横に振り、二人分のスープを皿に盛ってお盆に乗せる。こういう時は、常の表情の薄さが、星の心の内を隠す仮面となる。
初対面の時は、色々あり過ぎて駄々漏れだったが、存外、星は自らの心中を押し込める事には慣れていた。その分、大きめな黒目がちの瞳が心の窓となる事も、多々あったが……。
「冷めない内に食べよ?」
「ああ。……言いたくなったら、言ってくれ。出て行きたい、以外なら叶えてやる」
甘やかすようなノウルの言葉と声に、星は逡巡するようにスープの中のベーコンを見つめ、お盆を持ち上げるが、すかさず伸びてきたノウルの手が、スッとお盆を奪っていく。
「……どうせ情けをかけるなら『世界の愛し子』が良かったんじゃない?」
意識せずにポツリと洩らした言葉に、思いがけない形で星は自分の感じていた気持ちの根幹を悟る。
詩織への嫉妬、羨望と言うより、不安だったのだ。もし、異世界に来て関わった人達が、巻き込まれた人間なんかより……と、思っていたら?
特にノウルやアウラが向けてくれた気持ちが……情けは人のためならずで、愛し子への繋ぎになる、そんな感情だったら?
ぐるぐる回る思考が、星の足を鈍らせ、先を行くノウルとの間に距離が開く。
「俺は『世界の愛し子』に全く興味はないぞ」
互いに腕を伸ばしても届かない程の距離、ノウルは前を向いたまま、苦笑混じりで告げる。振り返った顔に浮かんでいるのは、仕方ない奴だ、と言わんばかりの柔らかい笑み。
「そこで自分を貶めるところが、セイらしいな」
星は無言で視線を外すと、足を速めてノウルの脇を通り過ぎてダイニングへ向かう。聞きたくない、という意思表示だが、ノウルは気にせず、そのまま星の後を追う。
「普通の人間なら、怒ったり、不安に思うのが当然だぞ? 訳の分からない事に巻き込まれ、お前は間違いだった、と放り出され」
そのまま、ダイニングに入り、星の前にスープのみ、自分の方にオムライスとスープを置き、椅子に腰掛け、ノウルは話し続ける。
「十分、ぶちキレてもいい扱いの筈だ。それを無理矢理飲み込んで、セイは自分を貶めて、俺を貶してる」
「わ、私は、ノウルを貶したりなんか……」
「セイは俺を、どうせ拾うなら『世界の愛し子』が良かった、と思うような人間だと思ってるんだろう?」
そう言って真剣な様子で語りかけるノウル。オムライスを食べながらなので、若干締まらないが。
「ち、ちが……」
「違わないぞ。……俺とアウラは似ているんだ」
きっと彼女も怒るぞ? と、ノウルは小首を傾げながら、行儀悪くスプーンの先を立ち尽くしている星に向ける。視線が向かうのは、アウラから贈られたという髪飾り。あれが彼女のお気に入りの物だという事を、ノウルは知っていた。
「俺は、ここにいるのが、愛し子でなく、セイで良かったと思う。……愛し子だったら、俺は拾ったとしても、城に送り届けて、さよならだな」
「……本当に、私で良かったと思う? 何も出来ないよ? 愛し子……詩織さんみたいに、奇跡なんて何一つ起こせないし」
心配して擦り寄って来た水晶ウサギを抱き上げ、星は目を伏せて椅子に腰掛ける。そのまま、膝上の水晶ウサギを、ぬいぐるみのように抱き締める。
「奇跡は、もう起きてるさ」
オムライスとスープをあっという間に空にしたノウルは、ニヤリと笑うと、立ち上がって、星の側へと歩み寄る。
「セイに出会えた。セイが笑ってくれた。セイが受け入れてくれた。……で、こうして、俺の腕の届く場所に、いてくれる」
全て奇跡だ、と星の耳元で甘く囁き、優しく頭を撫でるノウル。意識した訳では無く、心から思った事を口にしただけなので、余計質が悪い。
そして、効果はバツグンだった。
一気に耳まで真っ赤になった星は、水晶ウサギの後頭部に顔を埋めて、赤く染まった顔を隠す。
「ノウル、キザだ。……ごめん、お腹膨れたら、ちょっと色々不安になっちゃった。駄々っ子みたいだね、私」
ノウルの甘ったるい言葉に、色々な悩みが吹っ飛んでしまった星は、水晶ウサギに顔を埋めたまま、ペコリと頭を下げる。顔は上げないが、声音は落ち着きを取り戻し、水晶ウサギも、安心した様子で抱かれている。
「何だ、もっと我が儘言ってくれても良かったぞ? 人を甘やかすのが、こんなに楽しいとは思わなかった」
心底残念そうに呟き、ノウルは星が手をつけなかった、お代わりした分のスープを片付けていく。
星も、もう食べる気は無くなっていたらしく、ノウルを止める事もなく、その姿を見つめて嘆息する。
「ノウルの人たらし……」
星は顔を上げると、スープを片し終えたノウルをジトリと睨みつけ、負け惜しみのような力無い突っ込みを入れる。
「セイにしか言ってないし、セイ以外にやるつもりもないぞ?」
星の突っ込みにノウルは、心外だとばかりに、やや乱雑に星の髪を掻き乱し、
「俺にはセイが必要なんだ。だから、俺は、あそこに導かれたんだ」
そう囁きながら、未だに、僅かな不安を滲ませている星の瞳を覗き込む。
「……導かれた?」
反芻した瞬間、星は、正直、後悔する。
「ああ。俺は森に行く予定は無かった。それが、偶然に偶然が重なって、行く事になって、セイを森で見つけられた。本当に、世界に、感謝したさ」
「なんか、大袈裟に……」
電源が入ったように星との出会いまでを語り始めたノウルに、星の心中は一時、不安を忘れていく。
星の掠れた声を聞いても、ノウルの勢いは止まらない。
ふわふわ、とまるで酩酊しているような表情で、星を見つめて嬉しそうに微笑んでいる。美形の蕩けた顔は、かなりの破壊力だ。見つめられた星の限界は近い。
「こう、目が合って、わかったんだ。俺は、セイと出会う為に、あそこにいたんだ。これは、俺の為に用意された奇跡なんだと……」
「うん、ノウル、わかったから! あと、キャラ違うから! もう、詩織さんの方が良いんじゃない? とか、向こうは美人で、ぼっきゅんぼーんだとか、拗ねないから……もう、恥ずかしいの、止めて」
全身を襲うむず痒さに星は、悲鳴に近い声を上げながら、パタパタと両手を振り回し、語り続けているノウルを止めようと必死だ。
思わず、言うつもりはなかった本音をポロポロと吐き出してしまう程に。
「……なら、もう、俺の想いを貶さないでくれ」
表情を引き締めたノウルは、悲しげにそう囁いて、星の頭を撫でる。
「……と言うか、奇跡が起きたの、私の方じゃない? 他人に巻き込まれて異世界来た上、ピンチにイケメン登場って。かなりの幸運だよね」
「俺が幸運、か? 光栄だな」
「私も、奇跡なんて言ってもらえて、光栄だよ。……災難とか面倒臭いとか思ったら、ビシッと言ってくれて、良いよ?」
「セイも、言ってくれ。……さっきも言ったが、出て行きたい以外は叶えよう」
わざとらしく軽口を叩きあった後、星とノウルは顔を見合わせ、先程までの暗い空気を吹き飛ばすように、揃って声を上げて笑う。
本音を吐き出し合ったおかげで、距離が縮まったらしい二人に、星の膝の上に乗った水晶ウサギは、呆れたように小さく鼻を鳴らした。
●
「『世界の愛し子』の絵本?」
後片付けを終えた星は、リビングでノウルとお茶を飲みながら寛いでいた。
見た目は緑茶、味は紅茶な、若干脳を混乱させるお茶に、星は最初だけ違和感を抱いたが、すぐに慣れ、まったりとお茶を楽しんでいる。
食後でお腹一杯なので、特にお茶請けを出さず、二人はソファに並んで座って、お茶だけを口にしていた。
そこで、先程の星の『世界の愛し子』という単語への過剰な反応の話になり、絵本の話になったのだ。
「そう。それこそ、わざとらしく、目立つ所に、ポンッてあったよ?」
そう言いながら、星は若干嫌そうな色を瞳に浮かべ、書斎から持ち出した本をノウルに差し出す。本の内容に心乱され、醜態を晒した自覚があるので、星にしては珍しく、本に対して少しの嫌悪を覚えていた。八つ当たりだという自覚もしていたが。
「見覚えがないんだが……殿下が持ち込んだのか?」
本を受け取って中を確認したノウルは、眉間に皺を寄せ、首を捻る。
「デンカさんが?」
「ああ。たまに、俺が読まないような類の本を持ち込まれるんだ。流行りの恋愛小説や冒険活劇、艶本も……て、いやそれは返してるぞ?」
「艶本って、えっちな本の事だよね。ノウルも大人なんだし、読んでもおかしくないでしょ?」
頬を染めて、バツが悪そうに視線を泳がせたノウルに、無邪気な仕草で小首を傾げてお茶を啜りながら答える。そこに、照れや動揺は全くない。
「私、気にしないよ? でも、なるべくなら、目につかない所に置いてもらえると嬉しいな」
ショックを受けて、ガーン、と固まるノウルを他所に、星はさらなる追い討ちをかける。さすがに物を見たら恥ずかしいし、と伏せ目がちに告げる星の頬は、言葉通りほんのりと朱に染まっている。
「もう、ぜ、絶対に持ち込ませない!」
大きなソファにちょこんと座っている事も相まって、小動物めいた愛らしさのある星の姿に、ノウルは空になったカップを机に叩きつけんばかりの勢いで宣言する。
もう、あの愛らしい唇から、下ネタに近い単語など出させない、と一人誓うノウル。
そんなノウルの心中を知る筈もない星は、異世界のってどんなのかな、と逆に興味を惹かれていた。あくまでも、活字好きの興味本位だが、ノウルが知ったら、本気で泣き崩れそうだ。
そこへ、部屋の隅から、ボーン、ボーン、という音が、一定の間隔で鳴り響き、時間の経過を報せる。
「ノウル、朝ごはんは、食べる人?」
「卵を飲んでいる」
「うん。さっきも聞いたね、それ。とりあえず、作ってみるから、食べられそうだったら、食べてみて?」
存在感のある柱時計に視線を投げ、自らが開始した会話をバッサリと終了させた星は、カップを片付けて立ち上がる。と、
「食べたら死んじゃう、みたいな食材ある?」
ふと思いついて、問うが、意味がわからなかったらしく、ノウルは無言で肩を竦める。
「アレルギーとかの概念ないのか……。じゃあ、ノウル、お仕事行くのは何時?」
「いつも八時には家を出るが……」
「りょーかいしました」
おどけて返事をすると、星は水晶ウサギを連れて、廊下へと出て行くが、そこへ前触れなく、
「セイ。すまないが、野暮用で出掛ける。……やはり、一人にするのは不安だな、止めるか」
左耳を手で押さえた妙な体勢で追いかけてきたノウルが、話しかけてくる。星が反応する前に、自らの発言を自ら否定するが、結局出掛ける事になったらしい。
「先に休んでいてくれ。戸締まりは気にしなくて良い。風呂の使い方はわかるな? 頼むから、溺れたりしないでくれ」
幼子に留守番を頼む親のように、深刻な表情を浮かべたノウルは、前に回って星の両肩を掴み、必死な様子で言い聞かせる。
「うん、いってらっしゃい……気をつけてね?」
ノウルの危機迫る様子に、風呂では溺れないよ? という言葉を、ゆっくりと飲み込んだ星は、少しだけ目を細めてうっすらと笑いかける。
「……いってくる」
いってらっしゃい、に内心悶えながらも表面上は微笑んで返し、ノウルは使い魔に指示をして、名残惜しそうに外出していった。
「……とりあえず、お風呂入ろっか?」
残された星は、水晶ウサギに声をかけ、抱き上げると、入浴の準備の為に自室へと向かって、軽い足取りで歩き出す。その腕の中で、水晶ウサギが、楽しそうに足を揺らしていた。
●
屋敷を出て、夜道を一人歩きするノウルは、時々思い出したように左耳を手で押さえる動作をしながら、最終的に走り出した。
結ばれていない銀の髪が、さらさらと後ろへ流れ、常には見えていない耳を露わにする。
そこには、持ち主の瞳と同じ色の石のイヤリングが、妖しげな光を宿して揺れている。
一度も速度を緩めず駆け抜け、ノウルが辿り着いたのは、詩織のいるルヴァン城。
ここに星がいたなら、やっぱり詩織さんの方が良いんだ……、と再び暗黒面を噴き出させるだろうが、ここに星はおらず、ノウルが来た理由も詩織に会う為ではなかった。というより、ノウルは城に詩織がいるという事実を、認識すらしていなかった。
ノウルの目的地は、正門ではなく、城壁をグルリと回り、裏手へと回った、人気のない路地裏だった。
ノウルは周囲を探り、人目がない事を確認すると、城壁に手で触れる。すると、そこに青白く光輝く文字が浮かび上がり、壁が消え、人一人がやっと通れる空間が出来る。
ノウルは、躊躇なく開いた入り口へと飛び込む。その背後で、入り口が閉じ、周囲は闇に沈む。
『灯火を』
ノウルが短く命じると、その手の平にゆらりと炎が灯り、石造りの通路を照らし出す。
薄暗い通路を進み、ノウルが辿り着いたのは、豪華な装飾の重厚な扉の前。その両側には、槍を構えた兵士が控え、扉を守っていた。
そんな場所に、不可視の抜け道から突然現れたノウルに対し、兵士達は驚く事無く背筋を正し、
「お疲れ様です、ノウル様」
「どうぞ、殿下は中でお待ちです」
と、交互に挨拶をしてから、笑顔で揃って敬礼をする。
「ああ、見張りは頼んだぞ」
兵士にそう声をかけながら、ノウルはノックもせず、扉を開け放ってズカズカと部屋へと消える。
「「はい!」」
ノウルの後ろ姿に向かい、綺麗に揃った返事をすると、一瞬顔を見合わせた兵士達は、心なしか先程よりビシッとした表情で槍を構え直した。
●
一方、ノック無しに部屋へ入ったノウルは、驚いた様子の無い、部屋の主へと歩み寄る。
部屋の主は、一人掛けの豪奢なソファに座り、足を組んでノウルを見つめている。その姿は、ノウルと方向性は違うが、同じぐらいの美しい青年だった。室内の明かりを反射する金色の髪に、宝石のように輝く青い瞳、整い過ぎと言っても過言ではない顔立ち、座っていてもわかる、スラリとした体躯。どれをとっても一級品だ。
その美しい青年の前で足を止め、ノウルはフカフカとした絨毯の上に片膝をついて跪く。金の髪の美しい青年と、銀の髪の精悍さのある美麗な青年が向かい合う、まるで一枚の絵画のような完成された絵面だが、ここにそれを見て感動する第三者はいない。
「ノウル・ティーラ、参りました……何のご用でしょうか?」
「なあ、何か一回拒否ったよな? 珍しいな、相手はアウラか?」
人形めいてすらいる美しい青年の口から出た言葉は、砕けていて男らしく、生気とノウルへの親愛に溢れている。
「ユナフォード殿下? 俺も暇ではないんだが?」
畏まっていた口調を崩し、ノウルは跪いたまま顔を上げ、無遠慮に青年を睨みつける。
ノウルが殿下と呼ぶ青年。彼は、シウォーグの兄であり、この国の第一王子で、王位継承権第一位でもある、ユナフォード、その人だった。
ちなみに、星との会話に時々出て来た『殿下』は、このユナフォードの事だ。「あー、怒るなよ。で、お前を呼んだのは、あれに関係している」
あれ、と言いながら、苦笑してユナフォードが指差したのは、夜の帳に包まれた窓の外。方向的には『世界の愛し子』の旗を掲げた、尖塔のある辺りを指していた。
方向とユナフォードの表情から、話の展開を察したノウルは、跪いたまま心底面倒臭そうにため息を吐く。
「……式典に出席しろ、と?」
「すまないが、頼めるか? お偉方が煩くてな。見目が良いからなあ、ノウルは」
「殿下に言われると、それは嫌みだな」
「誉め言葉として受け取ろう。で、出てくれるのか?」
ユナフォードの方は、自分の見た目の良さに自覚があるのか、くく、と喉を鳴らして笑うと、自らの足元に控える無自覚な青年を見下ろす。見た目のレベルで言えば、向き合う二人に差異はない。後は個人の好みだろう。
「ああ、仕方ない。その代わり、条件がある」
「珍しいな。なんだ? 私に出来る事か?」
ノウルのいつもとは違う反応に、ユナフォードは楽しげに青の瞳を輝かせ、興味津々な様子で身を乗り出す。
「殿下にしか頼めない。お披露目の式典の時――」
ノウルの出した条件を聞いた瞬間、ユナフォードの美麗な顔が盛大に歪む。
「出来なくはないが……シウォーグが怖いなぁ」
「頼む……この通りだ」
悩むユナフォードを前にし、ノウルは両膝を床につけると、そのまま両手も床につけて、深々と頭を下げながら、言葉を重ねる。
ユナフォードは、しばらくノウルの形の良い後頭部を見つめてから小さく息を吐くと、ノウルの肩を軽く叩く。
「そこまでして、守りたいんだな。わかったよ、お前にはいつも助けられてるからな」
「……助かる。最悪、頼まれていた薬と引き替えにしようか悩んだが、やらなくて良かった」
負けたよ、とおどけた仕草で両腕を広げてみせたユナフォードに、ゆっくりと立ち上がったノウルもニヤリと笑って返す。
「本当にその通りだ。普通、王族を脅すとか考えないだろ。だから、シウォーグに嫌われるんだ」
「別に、あれに嫌われようが、俺には何の問題もないぞ?」
「腹違いとはいえ、私は一応『兄』なんだ。あまり、弟をいじめてくれるな」
「一応、善処しよう」
王族とそれに仕える臣下の筈の二人だが、交わす会話に遠慮はなく、二人の関係性を如実に表している。
「……最初から気にはなってたんだが、相当機嫌が良いな、今日は」
「ああ、今日は良い日だった」
「詳しく聞かせろ」
好奇心に目を輝かせると、ノウルをせかしてソファに座らせたユナフォードは、それから小一時間、いかに巻き込まれた少女が可愛らしいか、という話に付き合わされる事になった。
幕間,星と水晶ウサギ
「一緒に、お風呂に、はいっろ〜」
水晶ウサギを小脇に抱えた星は、適当に作った歌を口ずさみながら、着替えとタオルを籠へと放り込む。
「水晶ウサギさんと、お風呂〜」
服が脱げない事に気付き、水晶ウサギを一回床に降ろした星は、豪快に着ていた服を全て脱ぎ去る。
アウラから貰った髪飾りは、無くさないように鏡の前へと置き、星は浴室へ続く扉を開ける。ちなみに、扉は全面磨りガラスになっており、うっすらと人影が見えるタイプだ。
中は大理石っぽい石造りで、浴槽も床も、同じ材質で出来ていた。洗面所と同じで、こちらも以前の『世界の愛し子』のおかげで、シャワーがあり、お湯も水も自由に出せる。
星に抱かれてその浴室へ入った水晶ウサギが、何故か磨りガラスの扉を睨み、気合を入れるように鼻を鳴らす。
「大丈夫だよ? 私、猫とかお風呂入れた事あるから、心配しないで」
水晶ウサギの鼻を鳴らす音を緊張からだと勘違いしたのか、星は優しく囁いて水晶ウサギの頭を撫でている。
星に撫でられた水晶ウサギは、嬉しそうに目を細め、大人しく床に足を着ける。
「お利口さん。じっとしててね?」
星は優しく声をかけると、驚かせないよう洗面器に溜めたお湯で、ゆっくりと水晶ウサギの毛並みを濡らしていく。
全身の毛が水分でペッタリとなり、かなり縮んでしまった水晶ウサギの姿に、星はシパシパと瞬きをし、ふふ、と小さく笑う。
「一気に痩せちゃった」
星の言葉に、水晶ウサギは照れ隠しのように、濡れ鼠のまま、クシクシと顔を洗っている。
その間に、星は次の作業に移る。どのボトルに何が入っているかは、ノウルに聞いてあったので、迷う事なくシャンプーのボトルを手に取る。
蓋を開け、適量を掌に出した星は、それ軽く泡立て、水晶ウサギの全身に塗りつけて洗っていく。
「ふん、ふーん、あわあわ」
楽しそうな鼻歌を浴室に反響させながら、星は水晶ウサギの全身を隈無く泡まみれにする。
「痒いところは、ございませんかぁ?」
ふふ、と笑い混じりで言われた台詞に、水晶ウサギも楽しそうに、パッと片手を挙げて見せる。
「ここ痒いの?」
星は露わになった水晶ウサギの脇腹をカシカシと掻いてあげてから、洗面器に新たなお湯を汲んで、モコモコの泡を流していく。何度か濯いで泡が出なくなったのを確認すると、もう一度、洗面器にお湯を張る。
「私も、髪と体洗っちゃうから、そこで待ってて」
浴槽にお湯は張ってあったが、少し水晶ウサギには大きすぎる為、心配してそう言った星によって、水晶ウサギは洗面器に置かれ、お尻だけを浸けた体勢で星を眺めている。
「この石鹸も良い匂い」
石鹸の匂いの良さに感動しながら、手早く髪と体を洗い終えた星は、良い子で待っていた水晶ウサギを抱き上げ、一緒に浴槽に体を沈める。
「ふぁ〜……」
星は思わず声を洩らしながら、適温のお湯に体を沈めていく。
「良いお湯だね〜?」
気分良く語尾を伸ばして水晶ウサギに話しかける星。その膝上に乗って一緒に浸かりながら、水晶ウサギも気持ち良さそうに目を細めている。
「……そう言えば、いつまでも、水晶ウサギさんって呼ぶ訳にはいかないよね?」
すっかり元のサイズに戻った水晶ウサギの水晶部分に触れながら、星は同意を求めるように水晶ウサギの顔を覗き込んで首を傾げる。
星の言葉を理解しているのか、水晶ウサギは嬉しそうにコクコクと頷いている。
「分かりやすくて、呼びやすいのが良いよね。……ウサギだし、ピョン吉? ちょっと違うね」
星は水晶ウサギを抱え直すと、その顔を見つめながら、んー、と呻いて、唇を尖らせるが、不意にパッと表情を明るくする。
「ウサギは、英語でラビットだから、短くして、ラビとか、どうかな? 呼びやすいし、響きも可愛いよ?」
どう? と期待に満ちた眼差しを向けられ、水晶ウサギは、大きく頷いて、水晶をぶつけないよう気をつけて、星に頭を擦り寄せる。
「気に入ってくれたんだね? 今から君は、ラビだよ。改めて、よろしくね、ラビ」
安堵から、ふわ、と微笑んで目を細めた星は、ペコリと頭を下げてから、水晶ウサギ改めラビに、手を差し出す。
星の意図を理解したのか、ラビも何事か喋るように口元を動かし、差し伸べられた手を前足で掴む。
そのまま、一人と一匹で、ふわふわとした雰囲気の中、見つめ合っていたが、お互いのぼせそうになり、慌ただしく浴室から移動する事となった。
●
自分の部屋に戻った星は、バスタオルで包んで運んだラビを、ベッドの上に降ろす。
勿論、星の方は、脱衣場でしっかりと体を拭き、部屋着に着替え済みだ。
「さすがにドライヤーは無いよね」
星の残念そうな呟きを理解出来ず、ラビはバスタオルの中で首を傾げ、前足でテシテシと星の手に触れる。
「あ、ごめんごめん。すぐに拭いてあげるね」
催促されたと思ったのか、星は止まっていた手を動かし、ラビをわしわしとタオルで拭いていく。
数分後、水気が飛び、ふわふわの毛並みを取り戻したラビは、明らかに洗われる前よりボリュームが増えていた。
「……何か、膨らんだ?」
呆然と呟く星。わかんない、と言いたげに首を傾げるラビ。
しばし見つめ合った星とラビは、同時に欠伸をし、揃ってクシクシと目元を擦る。
「ノウル、まだかな……」
トロンとした眼差しで扉を窺っている星を誘うように、ラビはベッドの上に寝転び、ぽすぽすと布団を叩く。
「寝て待つの? 起きられるかな……」
躊躇いながらも、ベッドの誘惑には勝てなかったのか、寝転んだラビの隣に倒れ込む。
「……きょうは、いろいろ、あったから、つかれたね?」
眠気に負けそうなのか、たどたどしい口調でラビに話しかけながら、ふわもこになった毛皮を抱き寄せた。
星は眠らないように、もごもごと何事か喋り続けていたが、しばらくすると、それも聞こえなくなり、静かな寝息に変わる。
星が寝たのを確認すると、その腕の中で、ラビと名前をもらった水晶ウサギも目を閉じ、星に寄り添って眠りに就いた。
●
部屋の中が静まり返ってから一時間ほどたった頃、ゆっくりと扉が開かれる。
そこから顔を覗かせたのは、帰宅したノウルだった。
入り口から部屋の中を確認したノウルは、ベッドに横になっている星と水晶ウサギを見つけ、頬を緩ませる。
「風邪引いたらどうする」
入るつもりは無かったノウルだったが、星が布団を掛けていない事に気付き、小言じみた呟きを洩らして眉をひそめると、気配を殺してベッドへ歩み寄る。
布団を星に掛けてから、その寝顔を柔らかな眼差しで見つめるノウル。一歩間違えば、ちょっとしたホラーだ。
熟睡している星は、ノウルに気付く訳もなく眠り続けていたが、流石に野性動物な水晶ウサギは、気配に気付き、目を開けていた。
水晶ウサギは星を起こさないよう、冷えきった眼差しをノウルに向けるだけに留めていた。
ノウルは無言で星の寝顔を見つめていたが、視線を感じたのか、星の瞼が震え、濡れた黒い瞳が現れる。
点けっ放しだった明かりを反射する銀色に、星は寝惚け眼のまま、微笑みを浮かべる。ベッドに力無く腕を突くと、緩慢な動きで上体を起こす。
「おかえり、のーる……。おふろ、おさき、でした……」
とろとろとした口調で告げる星は、半分以上眠っているのか、上体を支える腕がすぐ崩れそうになる。それでも、必死に耐え、ノウルと視線を合わせる。
「ただいま、セイ。すまない、起こすつもりは無かったんだが……」
申し訳なさそうに目を伏せたノウルは、謝罪の意を込めて星の頭を撫でる。洗い立ての髪から、自分と同じシャンプーが香り、惹かれるように顔を寄せる。
「いーよ、おこして、くれて。おむかえ、したかった……」
星は寝惚けていて羞恥心を感じないのか、ほぼキスするんじゃない? という距離感のまま、トロンとした眼差しをノウルへ向けて答える。
「ありがとう……お休み……っ!?」
「おやすみ、のーる。らびも、おやすみ。またあした……」
跳ね上がったノウルの語尾を気にせず、星はとろとろとした挨拶を返し、力尽きてベッドへ沈み込んだ。一分もしない内に、再び健やかな寝息を立て始める。
ノウルに鋭い頭突きを喰らわした水晶ウサギも星の腕の中に戻って目を閉じる。
もう一度、布団を掛け直すと、ノウルは脇腹を擦りながら、優しく微笑んで部屋を出て行く。忘れずに明かりを消して。
「ラビとは、誰だ?」
出て行く間際、答える者のない疑問に首を傾げたノウルに、水晶ウサギ――ラビは鼻を鳴らすと、眠りを貪る為、良い匂いのする星の胸元に顔を埋める。
穏やかに、波乱に満ちた一日が終わり、新しい一日が始まろうとしていた。
もう少しだけ続きます。お付き合い頂ければ幸いです。