巻き込まれ少女の異世界生活 3ー1
食欲に負けて、本好きまで辿り着けなかった話です。分割修正しました。
3,災い転じて
「おれはこの国の第二王子シウォーグ・ルノ・マナーシュだ」
先程、そう名乗った青年に豪奢な馬車に乗せられ、詩織が着いた先は、同じく豪奢な建物。
「城……」
「街の名にもなってる、ルヴァン城だ。これから、貴女にはここに住んでもらう」
馬車の窓から城を仰ぎ、呆然と呟いた詩織に、シウォーグは説明をしながら、自ら馬車の扉を開ける。
「さあ、こちらへ」
「ありがとう、ございます」
シウォーグの手を借りて馬車から降りた詩織は、馬車を囲む人垣に、僅かに息を呑むが、すぐに淑やかに微笑む。
馬車の中で、道すがら『世界の愛し子』に関する基本的な話を聞いていた詩織は、自らを見つめる人々に、殊更柔らかく意識して笑いかけた。
●
――遡ること一時間程前。
「あの、せかいのめぐしごとは、何なのでしょうか?」
馬車に乗せられた詩織は、緊張した面持ちで、目の前に座る青年に話しかけた。彼がこの中で一番の地位にあるのは、先程からのやり取りで理解していた。
「『世界の愛し子』とは、言葉通り世界に愛された存在だ」
「えぇ、と、私がこの世界に愛されている、と……?」
簡潔すぎる答えに、疑問が増した詩織は、困惑気味に首を捻る。
「ああ、言葉が通じるのが何よりの証明だ」
「確かに、貴方達の言葉はわかりますが……」
言外に、それぐらいで? と匂わせ、言い淀む詩織に、青年の隣にいた恰幅の良い中年男性が、粘っこい視線と共に口を開いた。
「ご心配なされるな、シオリ様が『世界の愛し子』である事は間違いないですぞ」
どうやらタイミングを計っていたらしく、取り巻きらしい男性も、
「ヨード様のおっしゃる通りです」
と、追従して大きく頷いて見せる。
「……そう、なんでしょうか?」
「あまり思い詰めるな。『世界の愛し子』の感情は、天候すら変えるというからな」
膝の上で拳を握り締め、ぎこちなく笑う詩織に、青年は小馬鹿にしたように喉を鳴らして笑う。
その笑い方は、見た目より野性的な印象を青年に与えたが、周囲に与えたのはそれだけではなかったらしい。
現に、青年の笑い声に対し、先程のヨードと呼ばれた中年男性と取り巻きの顔が、不快げに歪んだ。
「あの、具体的には『世界の愛し子』とは、何をすれば良いんでしょうか?」
悪くなった空気を変えようと、詩織はわざとらしく明るい声で尋ねる。
「特にない」
「え?」
青年は肩を竦めると、驚いて固まる詩織に、苦笑気味に笑いかける。
「からかってる訳ではないぞ? 『世界の愛し子』は、ただそこで幸せに生きているだけで良いらしい」
「その通りでございます! 『世界の愛し子』は、祈るだけで世界に平穏を満たすと伝えられております」
表情を歪めていたヨードも、ここぞとばかりに興奮気味に言葉を重ねる。
「私は、ただ祈れば良いのですか?」
さらに困惑した様子の詩織に、青年は、ふ、と初めて柔らかい笑みを浮かべて見せる。
「すぐにとは言わないさ。いきなり連れて来られて、世界を愛せ、なんて戸惑うだろう」
そこで言葉を切り、青年は詩織の前に膝をつき、その手を握る。
「だが、頼む。この国には、シオリ、貴女が必要なんだ」
美しい青年に乞われ、心が動かない女性は少ないだろう。
詩織もバッチリ心動かされた様で、頬を染めて青年の手を握り返した。
「私に出来ることなら……」
「ありがとう。……自己紹介が遅れたが、おれはこの国の第二王子シウォーグ・ルノ・マナーシュだ」
予想以上だった青年の肩書きに、詩織の瞳が驚きで見張られた。
「王子、様?」
「ああ。しかし、その呼び方では兄と区別がつかない。シウォーグと呼べ」
「シウォーグ様……?」
素直に従う詩織に、青年――シウォーグは満足げに頷いて見せる。
「もうすぐ到着するが、あまり悩むな。ただ、微笑んでいろ」
命令口調ながらも、悪戯っぽく告げられた言葉に、緊張していた詩織の表情が柔らかい笑みに変わる。
「えぇ、わかりました」
「それで良い。……ちょうど、見えてきたな」
シウォーグの言葉に釣られ、詩織は笑みを浮かべたまま窓へと視線を向け、冒頭の呟きを洩らす事になったのだった。
●
――ルヴァン城内。
シウォーグに連れられ、詩織は城の中を歩いて行く。
その前後には、護衛の騎士が付き従い、周囲を警戒し続けていた。
「愛し子様だわ!」
「何てお美しい……」
「これでこの国は安泰だ!」
すでに『世界の愛し子』が現れた事は知れ渡っているのか、あちこちから詩織を讃える声が聞こえてくる。
あまりの視線の多さに、詩織は落ち着かない様子で前を行くシウォーグの背中を見つめる。
「……どうした?」
詩織の視線に気付いたシウォーグは歩調を緩め、心配そうに声をかけながら詩織と並んで歩き出す。
「いえ、あまりにも、見られてるので……」
緊張気味に答えた詩織は、心配をかけないよう緩く首を振り、ぎこちなく微笑む。
「それだけ、大切な存在なんだ『世界の愛し子』は」
力を抜けとばかりに、シウォーグは詩織の肩を軽く叩いて言葉を続ける。
「大丈夫だ。とりあえず笑ってろ」
「あ、はい!」
弾かれたように大きく頷いた詩織は、先程よりは柔らかく微笑み、しっかりと前を向いて歩き続ける。
明らかに変わった足取りに、シウォーグはニヤリと口元を歪めた。
「その調子だ」
「頑張ります」
生真面目にコクリと頷いた詩織は、自分を見つめるうっとりとした周囲の視線に、一瞬だけ、ニィ、と唇を吊り上げる。
すぐに消えたその表情を目にした者はいなかったが、それは、星の見た、あの笑顔によく似ていた。
「私にしか出来ないなら……」
誰に聞かせる訳でもない呟き。
その言葉に潜む傲慢さには、詩織自身もまだ気づいていなかった。
●
その後、神殿へと連れていかれた詩織は、正式に『世界の愛し子』として認められた。
正確には、大神官と聖獣が、この世界に『世界の愛し子』が現れた事を感知しただけなのだが、誰もそこに疑問を挟むことは無く……。
そのまま、王へと報告がなされ、尖塔に旗が掲げられる。
この国へ希望をもたらす、『世界の愛し子』降臨を示す、稀有な旗が……。
●
旗が掲げられ、少したった頃――。
アウラの用意した馬車に乗っていた星とノウルは、ちょっとした災難に見舞われていた。
「……も、申し訳ありません」
「御者さんのせいじゃないですよ?」
青い顔で平身低頭する御者に、星はノウルの陰から声をかける。
その体勢は、バッチリ人見知り発揮中だ。
「ここからなら、歩いてもそう遠くないが……」
「なら、歩こ?」
三人が馬車の外でこうして話し合う羽目になったのは、馬車の動力である馬に原因があった。
大通りに入る直前に、馬車を牽いていた二頭の馬の内一頭が、突然、滅茶苦茶な走り方を始めたのだ。
不意の事にバランスを崩し、暴走し始める馬車。そこへ、よく通る声が響く。
『風よ!』
ノウルの魔術で起こった突風が、馬車の勢いを殺し、必死に手綱を引いた御者のおかげで、怪我人も出さずに済んだ。
「と、とまったの?」
馬車の中では、水晶ウサギを抱き締めた星が、おずおずとノウルを窺う。
「あぁ、怪我はないか?」
その星を抱き締めたノウルは、心配そうに腕の中を見下ろす。
と、そこで勢いを良く馬車の扉を開け、御者が飛び込んで来る。
「ノ、ノウル様! お怪我はございませんか!?」
可哀想になるぐらい真っ青な顔色の御者に、星は無言でノウルの服を軽く引いた。
ノウルを見上げる黒目がちの瞳は、言葉を出さずに、責めないであげて、と雄弁に訴えていた。
ため息を吐いて星の頭を撫でてから、ノウルは御者に視線を向ける。
「……問題ない。お前のおかげで、怪我人も出なかったようだな」
星を抱えたまま立ち上がると、ノウルは青い顔の御者を伴い、馬車の外へと出る。
ノウルの言葉通り、馬車の周りに野次馬はいたが、怪我人や建物に被害は出ていなかった。
そして、冒頭の会話へと続く。
「でも、急にどうしたのかな?」
「二頭共、穏やかな性格の馬なんですが……」
「何か嫌なことでもあったのかな……」
ノウルの背後から顔だけを出していた星は、御者の言葉に首を傾げると、水晶ウサギを置いて、トタトタ、と軽やかな足取りで繋がれたままの馬に近寄る。
「セイ!」
「お嬢さん!?」
警戒心無く近寄ろうとする星に、ノウルと御者が鋭く警告の叫びを上げる。
「大丈夫だよ、だって穏やかな子達なんでしょ?」
「いや、今思い切り暴走しただろ……」
のんびりと答えた星に、ノウルは力無く突っ込みを入れるが、届く事はなく、星は二頭の傍に辿り着く。
「君は大丈夫みたいだね。……何処か痛いの?」
一頭は落ち着いた様子で星を見つめ、小さく頭を振って見せるが、暴走した方の馬は興奮しきりで、明らかに呼吸もおかしかった。
「ねぇ、私の声が聞こえる?」
星の呼び掛けが届いたのか、興奮していた馬の動きが徐々に変わる。
苛立たしげに地面を掻いていた前肢は動きを止め、さ迷っていた視線も星で固定される。
「お利口さん、もう大丈夫だから……」
ね? と小首を傾げた星は、馬を驚かせないように、ゆっくりと手を伸ばし、その鼻面に触れる。
「急に走りたくなったの?」
星は無邪気に馬へ問いかけるが、勿論馬が喋る訳はなく、ただ濡れた瞳が一心に見つめ返してくるのみだ。
「うーん……あれ? ねぇ、ノウル、ここ見て」
懐いてくるもう一頭をあやしながら、暴走した馬を観察していた星は、傍らで腕組みしていたノウルを呼ぶ。
「どうした?」
「ここ、この子、怪我してる」
「えっ?! そんな訳は……っ」
星の言葉に慌てふためくのは、近寄ってきたノウルではなく、その背後にいた御者だ。
「でも、血が滲んでるし……」
不安げにノウルの服をギュッと掴みながら、星は空いた手で馬の後ろ足辺りを指し示す。
「切り傷のようだな。これは、出発前から?」
「違います!」
ノウルの尋問のような問いに、声を荒げて強く否定をする御者。
その大声に、ビクッと肩を揺らした星は、表情を変える事なく、ノウルの服を掴む手に力を込める。持ち主の感情をよく映す瞳は、怯えた色を浮かべ、落ち着きなく揺れている。
星の怯えが伝染したのか、二頭の馬が揃って不安げに低く嘶く。水晶ウサギは、星を守るように二本足で立ち、後ろ足で地面をドンドンと叩いて威嚇している。
星の様子に気付いたノウルは、星の小柄な体を自らの体で隠し、御者を睨み付ける。まさに、射殺しそうな視線だ。
「怒鳴るな、セイが怯えているだろ」
「あ、申し訳ありません……ですが、出発前に確認した時は、傷はありませんでした」
相変わらず血の気が引いたまま、御者はブンブンと首を横に振る。
「じゃあ、走ってる途中で誰かが切ったの? ひどい……」
星はキュッと眉をひそめ、ノウルの陰から顔を出すと、黒目がちの瞳で痛ましげに馬を見つめる。
「……いや、しかし、有り得ないな」
「はい。私は、常に御者台におりますし、近付いてきた者がいたなら、気付きます」
「そっか、そうだよね……しかも、この子たちは走ってたんだし」
鼻面を寄せて甘えてくる二頭を撫でながら、星は小首を傾げて悩み始める。
「ん〜?」
斜めになった星の視界に、腕組みをして考え込んでいるノウルの姿が映る。
その人目を惹く美しい立ち姿を見つめていた星の脳裏を、先程見た光景が過った。
ノウルの発する言葉によって起きる、不可思議な現象。
「あ、そうか、魔術なら……」「確かに、可能だが」
「だとしたら、私では、防ぎようもない手段ですね」
星がポツリと洩らした言葉に、ノウルと御者も同意を示して頷く。
魔術なら。一番しっくりくる答えを見つけた星だったが、すぐに次の疑問が湧き、首を傾げる。
「でも、魔術だとして、誰が、何のために? それに魔術って、そんなに簡単に使えるの?」
「誰が何のためにはわからないが、魔術は素養さえあれば誰でも使える」
「そうなんだ、さすが、いせ……」
異世界。そう言いかけた星の口元を、ノウルの手が塞ぐ。
「……魔術を使うかもしれない馬車襲撃犯について、ここで考えても埒があかないな」
「そうですね。原因がわかっても、申し訳ありませんが、馬車はこの通り使えませんし……」
明らかに無理矢理話を反らしたノウルの言葉に疑問を抱く事なく、御者は人の良さそうな顔に苦笑を浮かべて応じる。
「あぁ、問題ない。歩いて帰るさ」
「警備隊への連絡はどうしましょうか?」
「それは俺がしておこう。その方が話も早い」
「それもそうですね。よろしくお願いいたします」
口を塞がれたままの星は、目線だけで二人の会話を追う。
「行くぞ、セイ」
「ぷは、でも! 馬さん怪我してるのに……」
やっとノウルの手が外れ、息を吐いた勢いのまま、星はノウルに詰め寄る。
「ありがとうございます、この子を心配して頂いて……。ですが、このぐらいの怪我でしたら、応急処置をすれば問題無く歩けますよ」
御者が優しく微笑んで馬の首を撫でると、同意を示すように馬の首が縦に振られる。
「……無理しないでね?」
名残惜しそうに二頭の鼻面を一撫でし、星は御者にペコリと頭を下げてから、水晶ウサギを抱えてノウルの傍へと駆け寄った。
「えと、帰り道、お気をつけて」
今更ながらノウルの背後に隠れ、顔だけを覗かせた星は、御者と二頭の馬に向け、はにかんだ笑みを向け、小さく手を振ってみせる。
「はい、寛大なご処置、感謝いたします」
「今回の事に、お前に責がない事はわかった。あまり、気に病むな」
深々と頭を下げて見送る御者に対し、ノウルは星の頭を撫でながら鷹揚に返し、自宅の方向へと歩き出す。
ノウルの背後に隠れていた星は、そのままノウルの服を掴み、影のようについていく。
他人の視線が苦手な星は、人混みの中でも緊張した面持ちでノウルの背中だけを見つめて歩き続けている。ノウルも気付いているのか、きちんと星に合わせた速さで歩いている。
「怖ければ見なくても良いが、ここは大通りだ。見ての通り、色々な物が売り買いされている」
「……色々? 食材、とかも?」
「あぁ、あるが……腹が減ってるのか?」
問いかけながら、ノウルは肩越しに自らの背中に貼りついた星を見やる。
「うん。朝から、騎士さんに貰った果物しか食べてないから……」
「そ、そうか、すまない……」
「気にしないで。私、食材見てみたい」
照れ臭そうな星に対し、ノウルは申し訳なさそうな表情で言葉を詰まらせながら、体を反転させて星の頭を撫でる。
「食材で良いのか? 屋台もあるが……」
「んー、さすがにいきなり加工済みの食べ物にいく度胸ないよ。……私にとって、未知の食べ物かもしれないし」
ノウルが示した屋台をチラリと見やってから、星はゆるゆると首を横に振る。 その腕の中では、水晶ウサギが真似をして、一緒に首を振っている。
ちなみに学習したので、星は周囲に気を配り、つま先立ちになって、ノウルにしか聞こえないよう出来るだけ耳元近くで囁いている。
おかげで周囲からは、ラブラブなカップルを見るような生暖かい視線が向けられている。その中で驚いたように二度見をしているのは、ノウルを見知っている人物だろう。
「……確かにそうだな。俺には食べ慣れた物だが、セイにとっては、下手すれば存在すらしなかった物を食べる事も有り得る訳か」
「まぁ、重く言えばそうだね。あと、せっかく作ってくれたもの、食べられないなんて、失礼な事したくないから」
冗談めかせ小さく笑った星は、ノウルの服の裾を掴んで、案内して? と促す。
「あぁ、こっちだ。……とりあえず、セイは俺の遠縁の娘で通す。喋りたくなければ、俺の背中に隠れていろ」
「あ、うん、わかった。ボロが出ないようにしないといけないしね」
今更な会話をしながら、ノウルは顔馴染みの店へと足を進める。馬車の中で、異世界人である事はしばらく隠した方がいい、という会話をしたが、星の立ち位置を決める前に、馬車が暴走してしまい、そのまま話は中断せざる得なかったのだ。
先程、星が『異世界』と口に出しかけ、ノウルの実力行使にあっていたが、あれは逆らった訳ではなく、ただのうっかりである。
「おや、いらっしゃい、ノウル様」
本人に自覚があるかはともかく、人目を惹くノウルは、すぐに体格のいい店主に気付かれ、満面の笑顔で迎えられる。店主は、艶のない黒髪に、日に焼けた肌をもつ、髭面の男性だ。見た目、ノウルより年嵩に見える彼の店は、この辺りで一番の広さを誇っていた。
「今日から、遠縁の娘を預かる事になった。食材に興味があるそうだ。見せてもらうぞ」
「もちろん、構わないが、その、娘さんはどちらに?」
気の良い返事をした店主は、ノウルの言う『遠縁の娘』を探して視線を巡らすが、それらしい人影は見つけられず、困惑気味に訊ねる。と、
「セイ、話せるか?」
「うん、大丈夫」
先程までと同一人物とは思えない程柔らかく囁かれたノウルの声に、店主が愕然とし、ノウルの顔を見つめる。その間に、星はおずおずとノウルの背後から姿を現し、不安げに上目使いで店主を窺う。
その小動物的な愛らしさに、呆然とノウルを見つめていた店主の顔に、ゆっくりと笑顔が広がった。
「これは愛らしいお嬢さんだ。お名前をお聞きしても?」
「セイ、です。よろしく、お願いします、店長さん」
体半分を覗かせ、小さくペコリと頭を下げる星に、店主も笑みを深めて頭を下げ返す。
「ラシードと呼んでくれ。セイ様は、食材に興味がおありだそうで……」
「はい、ラシードさん。あの、様はいらない、です」
「ノウル様の遠縁にあたる方を呼び捨てにするなんて、とんでもない! どうか、お許しを……」
「……せめて、さん、ぐらいでお願いします」
ブンブンと首を横に振る店主――ラシードを、星は眉尻を下げた情けない表情で見つめ、必死に訴えかける。
「……では、セイさん、どのような食材をお探しで?」
「はい! とりあえず、野菜から一通り見たいです! 調味料とかも、あれば、ぜひ」
星は、ラシードが『様』から『さん』に呼び方を変えてくれた事が、相当嬉しかったらしい。ラシードの呼びかけに、表情が緩み、ふにゃ、とした笑みを浮かべると、小さく、だが、ピシッと勢い良く挙手をする。
「本当に可愛らしい娘さんだ。では、うちの自慢の食材を紹介しましょう」
「お願いします」
ノウルの服を掴んだまま、星はもう一度頭を下げ、ラシードの紹介してくれる食材を、無表情ながら目を輝かせて見つめる。
それから三十分程、星は食材の味見をさせてもらいながら、ラシードの説明を受け続けていた。ラシードに慣れたのか、ノウルの服を掴んでいた手は外れ、代わりに食材を握っている。
「……色々食べてるが、大丈夫か?」
星は、むぐむぐ、と小動物を思わせる動きで食べ続けていたが、最初、微笑ましげに見ていたノウルは、徐々に表情を変え、心配そうに星を窺う。
「うん、野菜は、私の住んでた所と、びっくりするぐらい似てるよ。と言うか、名前も味も一緒。多分、料理法も同じで良さそう。……ラシードさん、調味料も見せてもらえますか?」
「あ、あぁ、これが塩で、こっちが胡椒。後は、ハーブとスパイスだな」
ラブラブバカップル再びな体勢の星から不意に声をかけられ、ラシードは挙動不審になりながら、複数の茶色い袋を示す。思わず素が出てしまい、口調は先程までよりぞんざいだ。
「さすがに、ソースとかケチャップは無いみたいだね。……甘い調味料って、ありますか?」
台詞の前半部を口内で呟いた星は、ハッとした表情でラシードを見つめる。一般的な女子と一緒で、星も甘味好きだった。甘味があるかは、星にとって、本に次ぐ重要事項だ。
「あぁ、砂糖と、あと少し値は張るが、蜂蜜ならあるぞ」
星とノウルが気にしていないので、そのまま猫を被るのを止めたラシードは、快活に笑いながら、星に見せつけるように金色の液体の入ったガラス瓶を軽く振って見せる。
「甘い物好きなのか?」
蜂蜜の瓶に釘付けの星に、ノウルは苦笑しながら、その頭を撫でる。
弾かれたように振り返った星は、黒目がちの瞳を見張り、無言でノウルを見つめる。
まさに、目は口ほどに物を言う、で、ノウルは小さく喉奥で笑うと、懐から財布を取り出す。
「その蜂蜜と――」
星が興味を示した食材を片っ端から指差し、会計を済ませたノウルは、ラシードに自宅へ届けるよう依頼をし、星を振り返る。
「他に何かいるか?」
「えぇと、卵と牛乳は、ある?」
「あぁ。ちなみに、チーズはあるが、バターと生クリームのストックは無いな」
「うわ、それは嬉しいな。料理の幅広がるよね。……そう言えば、主食って、何?パスタ?芋?まさかの米があったり?」
星は言葉通り、嬉しそうに頬を緩め、体の前で両手を組み合わせ、喜びを表すが、一瞬言葉を途切れさせると、背伸びをして、矢継ぎ早に問い掛ける。内容が内容だけに、周囲に聞こえないよう配慮しただけだが、どう見ても仲睦まじい恋人同士だ。
「主食は、パスタやパンだ。……俺は好きではないが、米もあるぞ。星が知っている物とは違うかも知れないが」
「本当に!? ラシードさん、お米も追加でお願いします! あと、バターと生クリームも!」
「バターと生クリームはともかく、米か? また珍しいもんを欲しがるもんだ」
表情を変えず興奮する星に、ラシードは苦笑しながら、肩を竦めて見せる。
「無いなら他をあたるが?」
微笑ましげに星を見つめていたノウルは、チラッとラシードを見やると、表情を一変させ、冷ややかに紫の瞳を細めて口元を歪める。
「いやいや、もちろんあるに決まってるだろ、ノウル様」
降参とばかりに両手を挙げたラシードは、星が追加注文した食材も、先程と同じように手早く配達の手配をする。
「肉とか、魚も欲しいけど……」
「どんな物でも、時間さえもらえれば用意いたしますよ?」
星の独り言に反応し、ニッと笑ったラシードは、さぁ、とばかりに両手を広げて見せる。
「……腐らない?」
「保存庫に入れれば問題ない」
シパと瞬きをし、小首を傾げて振り返った星に、ノウルは軽く頷いて、不安げな星の頭を撫でる。
星は安堵した様子でコクリと頷くと、おずおずと口を開く。
「ぶた、とか、うし、とり……」
「おう、どれにする? 挽き肉でも薄切りでも承るが?」
ノウルに聞かせるつもりで呟いた星は、割り込んできたラシードの勢いに、ビクッと肩を揺らし、ノウルの背後に隠れてしまう。
途端に、ノウル周辺の温度が下がる。
「……一回、死ぬか?」
「いやいやいや、死んだら終わりだろ! セイさん、驚かせて悪かったよ、出てきてくれ」
焦ったラシードは猫を呼ぶように、チッチッと舌を鳴らして星を呼ぶが、先に顔を覗かせたのは、星に抱かれた水晶ウサギだった。
愛らしい外見の水晶ウサギとは思えない冷めきった視線に、ラシードは更にタジタジになりながら、誤魔化すように笑って見せる。
「ほら、今ならお肉サービスするって」
「……はちみつ」
サービスの単語に惹かれた星は、顔だけを出し、ボソリと呟く。
「わかったわかった、蜂蜜もサービスするよ」
「……ありがと」 ふにゃ、と笑みを浮かべた星は、お礼を言いながら、ノウルの後ろから出る。が、少し不安らしく、水晶ウサギを片手で抱え、空いた手はノウルの服を掴んでいる。
星の警戒した様子に、ラシードは苦笑混じりで、ガリガリと頭を掻く。
「肉は何が良いんだ?」
「鳥豚牛、一通り。切り方は――」
星の指示に、ラシードは真面目な表情で頷き、指示通りに切った肉を、それぞれ包み、まとめて袋に詰めていく。無駄の全くない手際の良さに、星は瞬きも忘れ、ラシードの手元を見つめている。
「……ちなみに、私が言ったの以外だと、どんな肉があるの?」
好奇心には勝てなかったのか、ノウルの服を掴んでいた星の手が外れ、幾分かラシードとの距離を詰め、問いかける。
「あー、今だと、珍しいのは亜竜の肉ぐらいしかないな。ちなみに、この間、ノウル様のとこが狩ったやつな」
算盤を弾いて計算しながら問いに答えたラシードに、星はキョトンとした表情でノウルを振り返る。
「ノウル、竜倒したの?」
「亜竜だ。そこまで強くない。それに、俺一人で倒した訳ではない」
「ノウル様の率いる部隊は、少数精鋭だからな……っと、全部でこれだけだ」
ノウルすごい! と目で訴えている星に、ノウルは苦笑して肩を竦めるが、ラシードは自分の事のように自慢気に笑って、食材の合計額を示す。「ああ、受け取れ」
「お買い上げ、ありがとうございます……っと、しかし、わかってたけど、驚かねぇな」
一般家庭の一ヶ月の食費を軽く上回る額を全く気にせず払うノウルに、ラシードはポリポリと頬を掻いて、代金を受け取る。
「……買い過ぎた?」
「保存庫に入れれば腐らないから、問題ないだろ。それに、ノウル様の稼ぎなら、蚊に刺されたぐらいのもんだ」
心配そうに瞳を瞬かせた星を、ラシードは豪快にゲラゲラと飛ばし、
「ついでに魚はどうだ? 活きのいいのが入ってるぞ」
なおかつ、更なるセールスをしてくるラシード。
その押しの強さに、星はシパと瞬いて、苦笑を浮かべ、ラシードの手元を見やり、固まった。
「今朝、川で捕れたばっかりのマグロだ!」
マグロ。海在住。流線型の体、きれいな赤身、寿司屋で大人気。そこまで、思考を巡らせ、星はプルプルと首を横に振る。
星の反応は当然で、どう見ても、ラシードの手にしたマグロ(?)は、星の見知ったものとは似ても似つかない姿だった。
大きさだけは星の見知ったマグロだったが、真っ青な鱗に、口には牙、額には鋭い角。眼光も鋭く、その目は星を睨み付けていた。
「……とりあえず、マグロいりません」
パタパタと軽い足音をさせ、ノウルの背後に戻った星は、ラシードに向けて嫌々と首を横に振る。
「魚は今度にしてくれ」
「りょーかい。お買い上げ頂いた品は、きちんと届けとくからな」
嫌々をする星の頭を宥めるように撫でながら、ノウルは空いた手を軽く振り、マグロを仕舞わせる。
「これはオマケだ」
マグロを仕舞ったラシードは、桃に似た形の毒々しいピンクの果実を手に取り、笑顔で放り投げる。
狼狽える事なく、スマートに空いている手で受け取るノウル。
「スモモモか。有難く頂く」
「何か、もが多い……」
ポツリと呟かれた星の突っ込みを聞いたのは、その腕に抱かれた水晶ウサギだけだったが、水晶ウサギは可愛らしく小首を傾げるのみで、大人しく抱かれている。
「食べてみるか?」
「うん! ……あ、でも、手汚れちゃうね」
興味津々でスモモモを見つめていた星は、ノウルの問い掛けに、コクリと頷くが、桃と似た見た目から推察される特徴に考え直すと、残念そうな色を瞳に浮かべ、首を横に振る。
「俺が剥けば問題ないだろ」
星のよく感情を表す瞳に浮かんだ色に、くく、と喉奥で笑ったノウルは、器用に片手で皮を剥くと、皮と同色のピンク色の果肉を露出させる。
「ほら、甘いぞ」
期待に満ちた目をスモモモに向けていた星は、ノウルが差し出した果実に、あーん、と遠慮なくかじりつく。すぐに口内に広がる甘い果汁に、ふにゃ、と笑み崩れる。
その笑顔に、ノウルの特上な美形顔も緩みまくり、ほわほわ、と周囲に花を飛ばす。
もちろん、実際に飛んでいる訳ではなく、雰囲気だ。
「……お二人さーん、周りの目を気にしようぜ?」
店先で見送っていたラシードの力ない突っ込みは、星とノウルに届く事はなく、そのまま遠ざかっていく。星の腕に抱かれた水晶ウサギが、面白くなさそうに鼻を鳴らす音だけが、ラシードの突っ込みへの応えだった。