巻き込まれ少女の異世界生活 終章 巻き込まれ 2
「ん……?」
頬を滑る絹糸のような感触に、眠りに落ちていた星の意識は一気に浮上する。
「……起きたか?」
身動ぎした星に気付いたのか、柔らかい美声が星の鼓膜を揺する。
「のーる?」
とろんとした瞳を開き、寝起きの辿々しい口調で声の主を呼んだ星は、自分の置かれた状態に気付き、現実逃避なのか、もう一回目を閉じた。
「起きてないなら、キスするぞ?」
「はい?!」
と、ノウルの衝撃的な発言に、星は声を裏返らせると、ぱっちりと目を開けてしまい、覗き込んでいた紫の瞳と目が合ってしまう。
「どうした?」
「どうしたもこうしたも、何でこんな体勢に?」
紫の瞳を柔らかく細めて頭上から問い掛けて来るノウルに、星は力無く問いを返す。
「寝ている星が……可愛かったから?」
「いやいや、疑問系にされても困るよ」
そんな星が困っている今の体勢はというと――。
書斎のクッションに凭れて眠っていた筈の星。今現在、ノウルがそのクッションに凭れて床に座り、かつ、眠る星を背後から膝上に乗せて抱え込む、という、とんでもない体勢だった。
慣れとは怖いもので、最終的にノウルの説得を諦めた星は、意外と座り心地の良いノウルの上で読書を再開する。
背後から包まれているので、真夏なら暑そうだな、とノウルの胸板に頭を預けながら、星は若干現実逃避をし続けている。
そんな星のお腹辺りには、未だに目覚めない大物っぷりを披露しているラビがいる。
「ノウル、いつもこんなに早いの?」
チラリと星が窺った壁掛け時計は、長針がまだ四の手前辺りにある。
「今日は特別任務だったからな、いつもはもう少し遅いぞ?」
「特別任務?」
首を傾げて反芻した星は、体勢的に自然と上目遣いでノウルを見つめる。
「まあ、大した事じゃない」
『世界の愛し子』の護衛を大した事じゃない、と宣うのは、ノウルぐらいだろう。
あの意外と辛辣な兄弟も言いそうだが、まずあの兄弟が護衛をされるべき人物達なので、論外だ。
「ふぅん」
短く相槌を打った星は、腕の中、何ともなしにラビが抱いたままの本に視線を落とす。
自分には、詩織のようなチートな力は無い。きっと、歴代の巻き込まれも、同じ筈だ。これから、自分の後に巻き込まれる者も、きっと出て来る。そんな誰かの為に出来る事を。そう考える星の前に現れた答えが、あの本だった。
「ねえ、ノウル。お願いがあるの」
緊張から乾いてしまう唇を舐めながら、星は体を反転させ、ノウルと向き合う。膝上に乗ったまま。
「言った筈だ。出て行きたい以外は叶えると」
星からのお願い、という単語に、ノウルは蕩けるような笑みを浮かべ、甘やかすように星の黒髪を梳いていく。
「ありがとう。……で、あの、欲しい物があるの」
擽ったそうに肩を揺らした星は、ノウルの胸板にコツンと額を寄せ、言いづらそうに口を開く。
「なんだ? 宝石か? ドレスか?」
星の旋毛に唇を寄せながら、ノウルはでれでれとした表情で囁く。
外でのノウルの姿を見たら、星は偽者疑惑を抱くかも知れない。どう見ても、あのニコリともしない姿とは別人だ。
「宝石もドレスもいらない。私が欲しいのは――」
星が告げた欲しい物に、ノウルは数度瞬きをして苦笑を浮かべる。
「なんだ、そんな物か。すぐに用意しておこう」
何でも買ってやると身構えていたノウルは、肩透かしを喰らった気分で、星の頭をポスポスと軽く叩く。
「ありがとう! ……あと、そろそろ夕飯の準備するから、離して?」
嬉しそうに大きな瞳を輝かせた星は、感謝の言葉と共に立ち上がろうとするが、腰に回った逞しい腕に阻まれて叶わず、むぅ、と唇を尖らせ、腕の持ち主を軽く睨む。
「………………わかった」
かなり不服そうに頷いたノウルは、名残を惜しむように抱き締めてから、渋々と星を捕らえていた腕を剥がす。
「何か、ノウル疲れてる?」
立ち上がった星は、陰りのあるノウルの表情に、小首を傾げると、空いた手を伸ばして座ったままのノウルの頭に触れる。ちなみに、もう片方の手は、まだ寝ているラビと、あの本を抱えている。
「セイ?」
訝しむノウルを他所に、星はノウルの頭に置いた手に気合を込める。
「元気出ろ、元気出ろ」
真剣に囁きながら、慈しむよう撫でてくる星の手に、ノウルは、くく、と喉奥で笑う。
「ありがとう。今日の任務で、ちょっと不快な目に遭ってな」
元気が出た、と明るい表情を浮かべるノウルに、星はつられて、ふにゃ、と微笑んだ。
「良かった……、じゃあ、夕飯出来たら呼ぶね?」
「俺は、セイに頼まれた物を用意しておこう」
「ありがと」
ふふ、と笑い声を洩らすと、星はラビを抱え直し、パタパタと軽い足音を立てて、書斎から出て行く。
残されたノウルは、クッションに思い切り体重を預けて寄りかかると、うっとりと表情を緩ませる。
「あの女だと、あんなに気持ち悪かったのにな」
あの女――『世界の愛し子』である詩織を神殿へ送り届ける際、わざとらしく躓いた詩織に、背後からしがみつかれた。思わず振り払いそうになるのを、気合で堪え、素早く引き剥がす。
「あ、ごめんなさい……」
全く悪いと思っていない表情で、自分を窺ってくる詩織を無視し、ノウルは先程より距離を空けて、詩織の前を歩く。実際、ノウルは魔術師なので、多少の距離の差など意に介さない。
「今日は、ありがとうございました」
部屋に着いた時は、握手を求められたが、無視をしてノウルが去ろうとした瞬間、詩織に無理矢理、手を掴まれた。
「……俺に触るな」
ノウルは不機嫌さを隠さず、詩織の手を振り払うが、またわざとらしくよろけられ、侍女達から非難がましい視線を向けられる。
「俺は『世界の愛し子』に何の興味もない」
面倒臭そうに、それだけ告げたノウルは、引き留める声を無視し、ユナフォードにだけ挨拶をしてから、さっさと帰宅する事にした。
「ただいま」
一秒でも早く星に会いたくて、ノウルは挨拶もそぞろに玄関の扉を開けるが、応える声は無い。
通いの家政婦であるシェーナは、午前中で帰る為、星が一人で外出している可能性はない。なら、いそうな場所は、と考えたノウルの脳裏に閃いたのは、本を見つめて、うっとりとしていた星の姿。
「あそこだな」
自然と笑みを浮かべながら、ノウルは迷い無く早足で廊下を進む。
辿り着いたのは、書斎の扉の前。星を驚かせてやろうと、息を潜め、音を立てないよう扉を開くノウル。
「……あ」
そこで見つけたのは、星が水晶ウサギを抱き締めて、丸くなって眠る、穏やかで平和な光景。
器用にクッションの上で丸くなっている星に、ノウルは蕩けるような笑みを溢し、その小さな体を抱え上げる。
そのまま、クッションに寄りかかり、日だまりの匂いがする体を抱き締め、思い切り癒されるノウル。
抱えられた上、抱き締められても、星は安心しきった寝顔で、起きる気配はなかった。
すーすーとすぴすぴ、星と水晶ウサギの穏やかな寝息を堪能したノウルは、早く起きろ、と星の寝顔を覗き込む。いつの間にか解けてしまっていた銀の髪が星の頬を撫で、ゆっくりと瞼が震える。
宝箱を開ける気分で、ノウルは目覚めつつある、星の瞳を覗き込んでいた。
「あー、セイを巻き込んでくれた事だけは、感謝してやっても良かったな」
回想を終えて、そう呟くノウルの口元には、冷たい笑みが刻まれていた。
●
夕食後、星は早速ノウルが用意してくれた物を持ち、自室で机と向き合っていた。
机の上にあるのは、真新しい白いノートと、万年筆。
「さあ、早速書いてみよう」
しかし、実際書いてみようとしても、書く事が思いつかず、星は、う〜ん、と唸り、椅子に腰かけたまま、意味無く足を揺らす。
「意外と難しいね、ラビ」
星に声を掛けられたラビは、小首を傾げると、星の膝上によじ登り、一緒に真っ白なノートを見つめる。
「先輩を真似て、日本語で書くのは良いとして……」
どうしようか、ともう一度星に問われ、俺に任せろ、とばかりに頷いたラビは、もふもふな前足で、真っ白い表紙を示す。
「……そうか、確かに、タイトル決めたら、書き易いかもね」
納得とばかりに頷く星に、ラビは自慢げに胸を張って転げ落ちかけ、星に回収される。
「あんまり重々しくしないで、さらっと行こう」
数秒考えてから、万年筆を手にした星は、迷う事無く、表紙に文字を書いていく。
なかなか上手く書けた、と自画自賛した星は、表紙の字が乾いた事を確認し、ノートを開く。
「……これだけは書いておかないと」
小さく微笑んだ星は、楽しそうに躊躇なく文字を並べていく。
何て書いたの? と訊きたそうなラビに、星は、悪戯っぽく、内緒、と囁き、ノートを閉じる。
「セイ! 何処だ?」
そこへ聞こえて来たノウルの声に、星はノートを机の上に置いたままにし、ラビを抱えて立ち上がる。
「はい! 今行くよー! ……行くよ、ラビ?」
星の呼び掛けに、了解、とばかりに、たしっと前足を上げたラビ。
星は、愛らしいラビの姿に小さく笑みを溢すと、温かな体を抱き直し、自分を呼ぶ声の元へと、真っ直ぐに歩き出した。
今度は、迷う事無く。
誰もいなくなった部屋の中、机の上に置かれたノートの白い表紙。
そこには、少し右上がりで癖のある、日本語の文字が真っ直ぐに並んでいた。
『異世界巻き込まれてみた。』
悪戯な風が吹き、捲り上げられた一頁目には、一行だけ文字が書かれていた。
『異世界は良い所です。たくさん、良い人に出会えました。 柊星』
これで、とりあえずスタート編終了です。
ここまでご覧いただき、ありがとうございました。