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前編

 昔々、ある町に「A」と言う男がいました。


 朝早く起きては電車に乗って会社に向かい、仕事を終えた夕方にはまた電車に揺られて家に帰り、その後はのんびりしながら一日を終える。そんな平凡ですが平和な毎日を過ごし続ける彼ですが、心の中にはそれをいつか変えてみたいと言う夢を持っていました。今のような普通の社員では無く、もっと大金持ちになって、もっと偉くなって、豪華な日常を過ごしたい、と。ですが、それを現実にするのは、今の彼には困難な話のようでした。


「す、すいません……」


 職場ではいつも失敗ばかりの彼は、今日も会社で謝ってばかり。お金の方も、買った宝くじや競馬はことごとく外れてばかりと運にも見放されてばかりで、夢を叶える手段すら見つけられない状況にいたのです。

 

 そんなある日のこと。


「ただいまー、っと」


 一人暮らしのマンションの自室に帰ってきたAがぶら下げている袋の中には、一個のやかんが入っていました。家にあったやかんが長年使い古したせいで壊れてしまった事を受けて、立ち寄ったフリーマーケットで丁度良く新品を見つけて来たのです。見た目は以前と変わらない感じのステンレス製のものですが、新しい物を手に入れたと言う、どこか非日常的な心地を彼は楽しんでいました。

 早速袋から取り出したやかんを台所に置こうとした時、ふと彼はやかんの上についていた汚れが気になりました。小さな染みが、やかんの蓋の部分に僅かながらこびりついていたのです。放置しておいても問題はなさそうですが、ちょうど新品を買った良い機会と言う事もあり、早速ふきんを用いて拭き取ろうと考えました。そして、数回やかんを磨き上げたその直後、彼は異変に気付きました。


「……ん?」


 まだ火も付けておらず、水すら入れていないはずのやかんから、お湯が沸騰したのを知らせるような音が聞こえ始めたのです。しかもそれはどんどん大きくなり続けました。驚きのあまり、彼は慌てた様子でこのやかんを床に急いで置きました。

 一体何が起きているのかと言う唖然とした表情のAを尻目に、やかんからは相変わらず先程の音が響き続け、やがて細い口からは湯気を思わせる煙が溢れ始めました。その量は時間を追うごとに増え続け、部屋の中はまるで霧に包まれたかのような状況になってしまいました。やがてたくさんの煙は彼の目の前に集まり始め、次第に一つの大きな塊のような姿を取り始めました。最初は単なる柱のような形だったのが、次第に人間の形を作り始め、曖昧だった輪郭や色も鮮明になっていったのです。

 そして、煙や音が止まったと同時に、彼の目の前に一人の人間……いや、一人の女性が姿を現しました。


「やっほー♪」   

「…………へ?」


 短い髪に大きな胸が目立つ彼女の体を包み込んでいたのは、おとぎ話に出てきそうなアラビア風の女性の衣装でした。胸の谷間を見せつけたり、腹を存分に露出したりとかなり大胆かつセクシーな風貌が、彼女の美しさをより際立たせているようにも見えます。

 あまりに突然の出来事に、Aは何も言葉にできないまま、目の前に現れたアラビア風の美女を凝視し続けました。しばらく笑顔のままだった彼女は、そんな彼の様子に気付いたのか、真っ赤に火照った彼の顔に近づきながら言いました。

 自分は、このやかんに宿る『やかんの魔人』である、と。


「……や、『やかんの魔人』……?」

「ほーらー、アラジンのランプの話くらい知ってるでしょ?」


 ランプをこすると現れ、どんな願いも三つだけ聞いてくれると言うランプの魔人。確かにAはその話をよく知っていましたが、まさかそれが現実となって、しかも目の前に現れるとは全く予想外でした。

 ただ、次第に彼の中には冷静に物事を考える心が戻り始めていたのが幸いでした。確かあのおとぎ話では、ランプを磨いたりこすったりして魔人を呼び出した者が、魔人を従える「主人」になる権利を持つと言う展開がなされていたはずです。目の前にいる『やかんの魔人』と名乗る彼女を呼び出したのは、あの時やかんについた汚れを磨いたAそのもの……という事は、この美しい美貌の持ち主の主人は彼であり、また同時にどんな願いでも彼は三つまでなら何でも叶えられる権利を与えられたと言う事になります。


 とは言え、いきなりそんな突拍子もない事を口にされても、にわかに信じる事は出来ません。本当にそのような力を持っているのか、と尋ねたAに対し、彼女は言いました。そんなに疑うなら、軽い願いを一つだけ「お試し」で叶えてあげる、と。

 ならば、と思った彼は、今日の夕食に創ろうと考えていたカレーライスを出して欲しいと頼みました。


「カレーライスねー……」

「本当に出来るのか?」

「うん、任せて♪」


 そう告げた直後、やかんの魔人は右手の指を大きく鳴らしました。次の瞬間、突然Aの後ろにあったテーブルから大きな音がしました。振り返った彼の目線に入ったのは、ずっと食べたがっていたカレーライスでした。しかも、彼が少々苦手としている福神漬けでは無く、代わりに好きならっきょうがトッピングされていたのです。

 ただ願いごとをかなえるだけでは無く、自らの好みまで把握してしまっていると言う事実に、彼の心から疑念は一切無くなりました。間違いなく、目の前にいる美女はあのランプの……いえ、『やかんの魔人』です!


==========================


 お試し版の願いで現れたカレーを腹いっぱい食べた後、改めてAは『やかんの魔人』から聞いた三つの忠告を思い返していました。

 最初に言った言葉が正しければ、どんな大きな願い事でも彼女なら叶えてくれる……つまり、例え自分が無茶な願いごとをしても全然平気と言う事にもなります。ただ、いざそう言う願いごとを思い浮かべるとなると、案外ぱっとすぐに出る物ではありません。「三つだけ」と言う制限も、彼を悩ませる原因になっていました。

 数分ほど思考を重ねた彼の頭に、ようやく第一の願い事が浮かんできました。いつも失敗ばかりの自分自身を変えるには、この願いが最適であると考えたのです。そうと決まれば、早速先程のようにやかんをこすり、例の魔人を呼び出すのみです。


「やっほー……って、もう願い事が決まったの?」

「う、うん……」


 煙と共に合われたセクシーな衣装の美女に目を奪われつつも、彼は一つ目の願い事をはっきりとした声で告げました。

 自分を、何でも『成功』に導かせる男にして欲しい、と。



 それから、しばしの沈黙が流れました。やはり無理だったのかと言う思いが彼の心によぎり掛けた時。


「オッケー♪」


 軽い口調で言ったやかんの魔人は、あの時と同じように指を大きく鳴らすと、そのまま煙となって消えてしまいました。


 あまりの呆気なさに、本当に大丈夫だったのかと心配してしまいそうだった時、ふと彼は自らの頭の中が妙にすっきりし始めて行く事に気が付きました。今までずっと混線していた頭の配線が次々に整理されていくような感覚です。もしかしたら、今の自分ならどんな事でも成功できるかもしれない、そんな気持ちすら彼には宿り始めました……。


==================


 結論として、彼の感じた気持ちはまさしく正解でした。


「部長就任、おめでとうございます!」


 会社の近くの居酒屋に、多数の部下に祝福される彼の姿がありました。


 ……あの日から数ヵ月後、Aは会社の中でも非常に大きな存在となっていました。あの日以降、彼はどんなことにも全て的確な行動を取るようになり、次々に様々な業務を成功に導かせる男に変わっていたのです。一カ月以上前は窓際の平社員だった彼が、あっという間のスピード出世の結果、今や若きエースとして一つの部署をまとめ上げる人材へと変わっていました。彼に任せれば、あらゆる事が『成功』に導く……『やかんの魔人』の力は、見事に照明されたのです。


 こうして、もっと偉くなりたいと言う自らの願望を満たす事が出来たA。ですが、人間と言うのは一つの欲望が消えると新たな欲望がその隙間を埋めるかのように現れるものです。彼もまた、今の自らの境遇に対して次第に不満と言う名の願いが現れ始めていました。


「やっほー、久しぶり♪」


 今やあのやかんは彼にとっては貴重な宝物という事で、他の台所製品とは違う場所に大事に収納されています。部長に就任してから少し経った頃、彼は久しぶりに例のやかんをそこから取り出して蓋を磨き、その中で彼を待っていたであろう『やかんの魔人』を呼び出しました。

 相変わらずスタイル抜群の美女を前に鼻の下が伸びてしまう彼でしたが、早速魔人は二つ目の願いをせがみ始めました。自分を呼び出した理由は間違いなくそれである事は、既に彼女にはお見通しだったのです。


 確かに、一つ目の願い事の結果、Aは会社の中でも信頼を集め、より偉い立場になる事が出来ました。しかし、今の彼の懐にはそれに見合うほどのお金は入っていません。あくまで彼の主観なので他の人に当てはまるかどうかは分かりませんが、ともかく現在のお金の量でAは満足できなかったのです。つまり、第二の願いは……


「なぁ、この俺を大金持ちにさせる事って……」

「大丈夫、そんなの軽い軽い♪」


 そう言うと、以前と同じように魔人は指を鳴らし、そのまま煙と共にやかんの中へと消えて行きました……。

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