「国を浄めて、さっさと帰れ」と言われた召喚聖女、浄めた土地は全部いただきます――国王陛下、地代は月末払いです
「召喚された分際で報酬だと? 国を浄めて、さっさと帰れ」
王太子ゴーティエは玉座の段の上からそう吐き捨て、丸めた地図を投げた。乾いた紙音が石床を滑り、私の靴先で止まる。窓の光を弾く金の髪が、ひどく若い。
芦田澄香、三十二歳。今朝まで、市役所の土地の係だった。
事務服のまま、名札も付けたままだ。判を押し終えて隠しへ戻したところで、床を光が走った。頭では分かっている。体だけがまだ、役所の椅子に残っている。指の腹には、押したばかりの朱が乾ききらず、つっぱる感触がある。上着の隠しで、指が認印の角を確かめる。怒鳴られるのには、慣れている。
傍らの男が先に膝を折る。神官長オレリアン、今朝の儀式の主だ。後ろで結んだ銀の髪が揺れ、灰色の目は落ちた紙でなく私を見ている。それを拾い、両手で差し出す。投げられた物が、今度は丁重に渡される。それだけで、宙に浮いていた足の裏が石床へ戻り、体が少し役所の椅子から剥がれていく。
広げる。謁見の間の高窓から射す光の下、国の東の三分の一が塗り潰したように黒い。瘴気、と黒の上に書いてある。色の境は、もう王都の東の門まで迫っていた。
「この黒い土地の持ち主は、どなたですか?」
「誰の物でもない。瘴気の土地に、持ち主などいるか?」
「女神の法では、決まっております」
神官長が波のない水面のような声で言う。王太子は口元を歪め、鼻で笑う。
「そんなものは千年前の紙屑だ。報酬は無い。浄めたら、門を潜って消えろ」
「確認します。浄めた後、その土地の持ち主はどなたになりますか?」
「誰でもいい。瘴気さえ消えれば、それで済む」
誰の物でもない。誰でもいい。その言葉が、座りの悪い音を立てる。持ち主の欄が空いた土地を、十年、そのままにしたことはない。
「承知しました。では、浄めた土地は全部いただきます」
「黒い土地を、全部だと?」
「はい。黒い土地を、全部です」
王太子が笑う。乾いた声が、高い天井へ跳ね返る。
「くれてやる。瘴気の土地など、いくらでもな」
「『いくらでも』ですね。確認しました」
隠しの中の認印へ指を添え、角の硬さをもう一度確かめる。神官長の灰色の目が、黙って私を見ている。
「お名前を、伺っても?」
王太子が私の名を訊かなかったことに、その静かな声で初めて気づく。名札が、急に重い。
「芦田澄香です。家の名は、芦田です」
「芦田殿」
「召喚聖女。城にお前を置く部屋は無い。神殿で寝ろ」
「承知しました。以上です」
◇
午後、神殿の古文書の間。窓の無い石の部屋に、古い紙と蝋燭の匂いがこもる。書記が運んで来た綴りの一行だけを、神官長の指が辿る。炎が揺れ、文字の影も震えていた。
『浄めた土地は、浄めた者の物である。その土に住まう者は、持ち主へ地代を納めよ』
「千年前の法です。王家は忘れ、神殿は覚えています」
「王家は、なぜこの法を忘れたのですか?」
「千年前の聖女が、初代の王に嫁がれました。土地は王家へ、法は神殿へ。以来、浄めが無かったので」
隣の地図の間へ移る。壁一面に、女神の地図が広がっている。王家の土地は金、瘴気は黒。金の縁には小さな獅子の印があり、黒の縁には何も無い。持ち主が変われば、色も勝手に変わるという。その縁だけが、蝋燭の明かりを返している。
「芦田殿。光は、黒い土だけを選びません。後ろも、同じに走ります」
「確認します。王都も王城も、含まれますか?」
「はい。紙屑と言われましたので、殿下には申しませんでした」
神官長の指が、女神の地図の黒を静かになぞる。その先で、蝋燭の明かりが細く揺れる。
「紋は、浄めた者が身に持つ印の形を取ります。千年前の聖女は獅子の印章を。王家の旗の獅子は、それです」
隠しから認印を出す。役所から持って来られた物は、これだけだ。残った朱を見て、書記が息を呑む。その音が、石壁へかすかに響いた。
「印を、お持ちですか?」
「認印です。市役所で十年、押してきました」
「良い印です」
神官長は、判に残る朱を見つめている。灰色の目に、火が映る。
「……印の良し悪しまで、分かるのですか?」
「持ち主の名が、まっすぐです」
「……役所では、そんなことを誰にも言われませんでした」
「ここは、神殿ですので」
認印を隠しへ戻すと、角が布越しに肌へ触れる。神官長に導かれ、奥の石の扉まで行く。そこには、鉄の環が一つだけ下がっている。
「帰りの門です。開けるのは、芦田殿です。潜れば、浄めた土地は女神へ戻ります。王家へは戻りません」
「なぜ、先に帰り道を見せるのですか?」
「連れて来たのは、私ですので」
「確認します。門を開けられるのは、私だけですか?」
「はい。持ち主に、選んでいただきます」
鉄の環へ指を置く。石の冷えを吸い、帰り道まで凍らせるように冷たい。
「確認しました。……今日は、開けません」
衛兵が駆け込んで来る。東門の結界が、今夜もたないという。切れた息に、蝋燭の火が揺れた。
◇
夕、東門の外。結界の際で、黒い土が私の靴先まで迫っている。焦げた鉄の匂いが鼻の奥に刺さり、空気まで冷たい。壁の上には民が並び、櫓には王太子が立つ。夕日を背負った私の影が、黒い土の上へ長く伸びている。
「瘴気は、聖女を避けます。足の裏から。前を、見て」
神官長の声が背中を押す。事務服のまま、黒い土へ一歩踏み出す。薄い靴底から冷えが這い上がり、膝の裏が強ばる。
白い光が野を走り、光の止まった境に女神の紋が立った。
その白さは後ろへも走る。石畳、王城の塔、丘の神殿の屋根を同じ色に染め、王都の西の門で止まると、境には細い線だけが残った。前へ駆けた輝きは野と川、黒い森を越え、東の山裾で止まる。瘴気が薄皮のようにめくれ、湿った土の匂いを放ちながら消えていく。音は無い。遅れて風が頬を追い越す。
その山裾にだけ、塔ほどの高さの赤い丸が立っている。中には字がある。遠くて、まだ読めない。夕暮れの中で、その色だけが目に焼きつく。
「立ちました。……地主殿、あれはあなたの印です」
「……確認します。あれは、私の判です」
「はい。地主殿の印が、地主殿の土地に立っています」
十年、他人の名を持ち主の欄へ書いてきた。自分の名が初めて、そこに立っている。隠しの中で認印を握ると、角が掌へ食い込み、熱いほど痛い。その感覚が、夢の外へ私をつなぎ止める。
「……市役所で押していた判が、あんな遠くにまで」
「境が、あそこですので」
山裾の赤は夕日より濃く、遠いのに瞼の裏まで染めてくる。
「今夜のうちに帰りの門を開けさせ、送り返せ!」
櫓の上から落ちてくる王太子の怒鳴り声だ。神官長は、石壁が震えても静かに返す。
「門は、聖女殿しか開けません」
「なら、開けさせろ!」
「命じられる方は、地主殿だけです」
張りつめた壁の上で、誰かがぽつりと言う。子供の声だ。その響きが、白い野へ落ちる。
「白い……」
「神官長。……確認は、まだ終わっておりません」
神官長は櫓を見上げ、それから灰色の目を私へ戻し、櫓へは向けない低さで言う。
「翌朝を、ご覧ください」
◇
翌朝、王城の旗が私の認印に変わっていた。
客間の窓の下、王城の塔から獅子の旗が消え、白地に赤い丸と私の名が朝の風に揺れている。市役所の判が、高い空で翻っている。笑うところだと思う。けれど喉は動かない。字が、あまりにも大きい。
王家は、私の店子になった。
地図の間へ降りると、女神の地図の王都と東の三分の一が赤い。金はその外の西だけで、赤の縁には私の認印の丸がある。蝋燭まで染まりそうな色の前を、神官長が小さな袋を両手で持って来る。
「神殿の地代です。今月分」
「……最初から、払うおつもりだったのですか?」
「法ですので」
「理由は、法だけですか?」
「……法だけでは、ありません」
袋は重い。銀貨が数枚。両手で受けると、布越しの重さが掌へ沈み、硬い輪郭まで確かに触れた。
「額は、地主殿がお決めください。これは申し出です」
袋を掌に載せ直し、その重さと、残った手の温度をもう一度量る。
「確認しました。その額を、神殿の地代と決めます」
「地主殿。召喚したのは、私です。……法で払える分は、法で払います」
「はい。受け取ります」
神官長オレリアンだけが、最初の朝から地代を払いに来た。
「旗を元に戻せ!」
衛兵を押しのけ、王太子が荒い足音で入って来る。金の髪は乱れ、朝の光をばらばらに弾く。
「浄めた土地は、浄めた者の物です」
「それは、瘴気の土地だけの話だ!」
「光は、黒い土だけを選びませんでした」
王太子が黙る。乱れた息だけが、言葉の代わりに落ちた。
「確認します。殿下は、確かに『いくらでも』と仰いました」
「ただの言葉の綾だ!」
「役所では、口にした言葉は記録に残ります」
「役所とは、何をする所だ?」
王太子の声が高い天井に当たり、薄く割れて返る。窓の光で、埃が揺れる。
「土地の持ち主を書く所です」
「……持ち主だと?」
「はい。現在、この土地の持ち主は私です」
王太子が腰の鍵束を石床へ投げる。金属の耳障りな音が跳ね、私の足元まで転がる。
「王城の鍵だ。受け取れ」
「鍵は不要です。店子は、そのまま住んで構いません」
月末。私の部屋の家賃も、月末払いだった。十年、変わらず巡ってきた日だ。店子だった女が、今は店子を持つ。名札が、服の上で軽い。
「地代は月末に。払えないなら、王城は明け渡していただきます」
「払える金は無い!」
「では、月末までに」
「金は無いと言っている!」
「聞こえています。月末までに」
王太子は鍵束を拾わず、荒い足音を残して出て行く。それを衛兵が拾い、鳴らしながら後を追った。
◇
昼、謁見の間。玉座には老いた国王、その傍らに王太子、私の後ろには神官長。高窓から落ちる光に、昨日と同じ石床が別の色を帯びて見える。
「神官長、法を読め」
神官長は古文書を開かずに言う。よどみのない声が、玉座の段まで届く。
「浄めた土地は、浄めた者の物。住まう者は地代を、とございます」
国王は玉座の段を降り、私と同じ石床へ立つ。そして深く身を折った。白い髪が窓の光で揺れ、その向こうの顔は見えない。十年、持ち主を書く側だった手が、その礼を受けている。指を曲げると、隠しの中の判の角が急に熱を帯びた。
「父上!」
「地代は、いかほどか?」
「村の地代は無し。王城の地代は銅貨一枚。ただし王太子殿下が、月末にご自分の足で」
「わしには、安いな」
国王の目が、ゆっくり息子へ動く。その奥だけが、窓の光より鋭い。
「高いです。殿下の足まで付きます」
「して、初めはいつからだ?」
「国王陛下、地代は月末払いです」
国王が、息子へ向き直る。
「お前がくれてやった土地だ。お前が運べ」
「俺は王太子だ」
「今は店子の息子だ」
王太子の顔から血の色が引く。王が、神官長へ目を向ける。
「聖女殿が帰れば、土地はどうなる?」
「女神へ戻ります。王家へは、戻りません」
「なら、帰さぬほうが良いな」
「父上、そんな……」
「黙れ。店子は静かにするものだ」
国王が私を見る。白い髪が、窓の明かりを柔らかく返している。
「地主殿、神殿の飯は口に合うか?」
「合います。確認済みです」
「わしの膳より良いだろうな」
「そちらは、確認しておりません」
「せんでいい」
国王の口の端が、わずかに上がる。その動きで、張っていた空気がほどける。
「確認しました。……以上です」
◇
三日目の朝、神官長と東の村へ行く。黒かった野には、緑の芽が柔らかな地面を押し上げている。戻った村人が畑を起こし、鍬の音が重なる。焦げた鉄の臭みは消え、空気には水を含んだ土の匂いがある。頬に触れる風も温い。
土の付いた鍬を置き、村長が畑から出て来る。日に焼けた手で、服の裾を撫でている。
「地主様で、ごぜえますな」
「芦田です。村も町も、地代は無しと決めました」
村長は口を開きかけ、節くれた手を腹の前で止め、そのまま動かない。
「……ほんとうに、地代は無しでごぜえますか?」
「無しです。以上――」
言いかけて、語尾を飲み込む。道を叩く蹄の音が近づき、王太子が馬で徴税吏を連れて来る。
徴税吏が目を伏せ、決められた文句のように言う。
「王の税を」
村人が私を見る。王太子ではなく、まっすぐこちらを。係の机で、顔へ目を向ける人はいなかった。皆が見るのは、背後にある持ち主の欄だ。その視線の重さが、名札まで届いている。
「俺を見ろ!」
「税は陛下のお仕事です。地主の私は、口を出しません」
「なら、黙っていろ」
「すでに黙っています」
徴税吏は言葉を切り、芽の出た野を見渡す。鍬の音も止んでいる。
「……浄まったので、今年から取れるはずでしたが、まだ取れる物がございません」
王太子は黙り、手綱を握る指へ力を込めた。
帰り道、王太子は馬を降り、私の横を歩く。神官長は少し後ろにいて、口を挟まない。湿った風だけが、肩の間を抜けていく。
「黒い三分の一からは、十年も税が入っていない。国庫は空だ。……だからだ」
「それで、報酬は無し、と」
「……ああ」
手綱の革が、王太子の手の中できしむ。指の節が白い。
「確認しました。村の地代を無しとしたのも、似た理由です。実りは育てた者の物です」
「……実りも、浄めた者の物ではないのか?」
「私の物は、土だけです。実りは、育てた者の物です」
「……それが、役所の考えか?」
「女神の法を、役所の形に写しただけです」
馬が鼻を鳴らし、湿った息を吐く。若い草が、かすかに揺れた。
「……写しか」
「写しのほうが、原本より読みやすいので」
王太子が足を止め、初めて私の顔を正面から見る。視線は、もう逃げない。
「……家の名は、芦田だったか?」
「はい。芦田です」
「……地図を投げたのは、俺が悪かった」
「確認しました。次は、両手で」
◇
月末の夕、神殿の門の前。丘の下から王太子が、自分の足で歩いて来る。馬はなく、何かを両手で包んで体の前に抱えている。夕日が上り道を赤く染め、その影を門の前まで運んでいた。
「月末だ。……銅貨一枚、確かに」
両手で差し出された銅貨は、掌の温度を吸って温い。丘を登るあいだ、ずっと握っていたのだろう。投げられた紙が靴で止まった日の感触を、足元はまだ覚えている。受け取ったものはそれより軽いのに、袋とは違う重さが指の付け根へ残る。
「確認しました。来月も、月末にいただきます」
「……丘は、重いな」
「銅貨一枚ぶんです」
王太子は空になった掌を見る。私の掌には、銅の匂いだけが残っている。
「次も、俺が歩くのか?」
「地代です」
王太子が丘の下を振り返る。夕日に染まった道が、王城へ細く続いていた。
「……帰らないのか?」
「地主は、土地の上に住むものです」
「……分かった」
王太子は丘を降りて行く。背中は、来たときと同じ大きさに見えた。小さく見せる気は、最初から私には無い。持ち主の欄が、一つ埋まっただけだ。
神殿の内へ戻り、奥へ降りる。帰りの門は閉まったまま、鉄の環には埃も付いていない。神官長が袋を両手で持って来た。
「神殿の地代です。来月分」
「確認しました」
「地主殿。一つ、伺っても?」
「どうぞ」
受け取った袋を、重さごと隠しへ収める。中で、判の角と銀貨が触れ合う。
「一生分を、先に納めても?」
一生分。その言葉を、認印の上に置いた指で確かめる。門は閉じたまま。丘の下で夕日を受ける旗の赤は、まだ私の名を揺らしているはずだ。月末という語が、袋と銅貨の重さを結び、掌の内へ沈む。
「一生分は、月末ごとにいただきます。毎月、いらしてください」




